ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

横糸-1「室町初期・上杉氏の事(観応の擾乱と武蔵野合戦)」

こちらを書いてる合間に、自サイトも更新してます(^_^;)。
当分、そちらの作業が続くのと、そろそろ確定申告に向けて本業も加熱するので、こちらは間が空く事が増えると思います。

さて前回は、ちょうど「観応の擾乱」に入った所までだった φ(。。)m
今回は、初の「横糸」編として、豊島氏の終焉に関わって来る点について、この観応の擾乱の前後をスライスして見てみたい。

それと、今回から「室町期」に入る。

……実は、「南北朝時代」と「室町時代」は、その始まりは同じ建武3年(1336年)なんだけどね(^_^;)。

本当に時代を分けるなら、鎌倉・南北朝・室町、とするのは誤りで、
鎌倉時代(~1333年)」「建武時代(1333~37年)」「室町時代(1336年~)」
の三区分にすべきかなーと個人的には思う(^_^;)。

と言うのも、鎌倉幕府の終わりは、新田&足利による、京と鎌倉の討幕(北条氏の滅亡)のあった、元弘3年(1333年)だろう。
が、北朝はこの瞬間から登場するわけではない(^_^;)。

足利尊氏後醍醐天皇の討伐勢力に敗れて九州に逃げ延び、再び畿内まで押し戻し、持明院統から上皇天皇を擁して、「北朝」が成立(室町幕府が開始)するのが建武3年(1336年)である。

じゃ「室町時代」でいいじゃないか。なぜ「南北朝時代」という呼称が必要か……。

水戸史学や戦前戦後の史観の話は、今は置いときます( ^^)//<長くなるから
あくまでも、現代における使用について……。

一つには、鎌倉幕府が滅んだ元弘3年(1333年)から、北朝が成立する建武3年(1336年)までの3年間を、「鎌倉末」と呼ぶには、歴史学的に「鎌倉幕府は無い」時期なので、この三年を、その後の時代に含めて話す都合上、という感じがする(^_^;)。

二つ目には、「南北朝時代」の正式な終わりは、元中9年/明徳3年(1392年)の「南北合一」である。
そこまでの動乱時代を、特に指す意味合いからかと(^^ゞ。

でも実際には、そこを待たずに「室町時代」として記述されるケースが殆どに思う(^_^;)。
「だって、もう、室町時代はじまっちゃってるしっ(≧▽≦)!」

一方の南朝側も、南北合一の後も「後南朝」と呼ぶ経過を辿るため、ここで終えてしまえるものではない(^_^;)。

だから大抵の歴史の本は、後醍醐天皇の死去(1339年)あたりで区切りをつけ、その後の南朝の話は地域史に振り分け、全国史は「室町時代」の仕切りで語り始める感がある(^_^;)。

前置きが長くなった(^_^;)。

さて、前回書いた通り、観応の擾乱の12年も前から、関東では高師直高一族に対する反発感情が強かった。

実は、同じような事情が、当事者である足利尊氏(兄)・足利直義(弟)・高師直(執事)の三者にも長く続いていた。

観応の擾乱」は、正平5年/観応元年(1350年)に始まる、と年表には記されるが、その確執は、北畠親房常陸合戦が始まった、同じく12年前の、延元3年/暦応元年(1338年)には、この三者においても始まっていた(^_^;)。

豊島氏のいる武蔵国に関連する所に先に触れると、この三者の軋轢への一番強い影響関係に、上杉氏がいる、という事を強調したい。

この「上杉氏」こそが、やがて関東に強い影響力を持ち、豊島氏の終焉にも、強く深く関わるからである。

足利尊氏・直義の母・清子上杉氏の出身であり、清子の兄弟(すなわち尊氏らの伯父)に、重顕扇谷の祖)・憲房山内・犬懸の祖)がいる。

系図↓(例によって左から右→に見ます)

┌上杉重顕(扇谷の祖)
├上杉憲房┬=重能(養子・父・勧修寺道宏)
清子  ├憲藤(犬懸)
 |   └憲顕(山内)
 ├--┬尊氏-┬直冬
 |   └直義 ├義詮(母・北条守時の妹)
 |      └基氏(    〃   )
足利貞氏-高義(母・北条顕時の娘)

清子の前にも、上杉氏から足利氏に嫁入りした例はある。
また、上杉氏は元は藤原氏の出であるから、出自としては関東武士らより余程高い。
鎌倉幕府の六代将軍・宗尊親王が鎌倉へ下向の折、側近として付き従って来たのが、関東における上杉氏の始まりである)

が、鎌倉の武家社会においては、執権・北条氏の権威が何より優先される(^_^;)。
そのため、足利氏では代々、正室は北条氏から娶った。北条氏との縁談より前に妻帯してた場合は、先妻を離縁してまで、北条氏から正室を迎えた。

そんな事情もあって、↓下の系図を見ても、足利氏では、先に生れた男子が次々と独立して支流に出されたとおぼしき系図が続き、やっと最後に「足利」を名乗る家が出て来る事になる↓

源義家┬義親┬為義-義朝-頼朝┬頼家-┬公曉
   |  └義賢(木曽)  └実朝 └藤原頼経
   └義国┬義重┬義範(山名)
      |  ├義俊(里見)
      |  ├義兼(新田)-義房-政義-政氏-基氏-時氏-義貞┬義顕
      |  └義季(得川)                  ├義興
      └義康┬義清(仁木・細川)               └義宗
         └義兼┬義純(畠山)
            └義氏┬長氏(吉良・今川)
               └泰氏┬家氏(斯波)
                  ├義顕(渋川)
                  ├頼茂(石塔)
                  ├公深(一色)
                  └頼氏(足利)-家時-貞氏┬尊氏-┬直冬
                               └直義  ├義詮
                                   └基氏

一方、同じく「義国」から分枝した「新田」の方は、足利との著しい違いと指摘される通り、鎌倉幕府にも北条にも縁遠く鎌倉時代を経た(^_^;)。

それゆえ鎌倉末までに、両家の間には、幕府から受けた恩恵面で、かなりの差が生じて、足利氏の威勢は強まり、新田氏は、その下勢に甘んじる具合になった。
その両者が、南北朝の各々違う天を上に仰いで抗争しあう事となったのだ。

話は上杉氏に戻る。

尊氏の父・貞氏もやはり北条氏から正室を得たが、正室の生んだ男子が早くに亡くなったので、側室だった上杉清子の生んだ尊氏家督を継いだ。

しかし、そもそも母が北条の出でなければ庶流扱いを受ける時代だったから、尊氏や直義は、母方の上杉氏の庇護があって、鎌倉末までやってこられた。

鎌倉末の挙兵後も、特に清子の兄・憲房の功績は大きい。
そもそも尊氏が討幕行動に踏み切ったのも、この伯父の勧めに従ったから、とも言われている。
尊氏が朝敵認定を受け、京で北畠顕家新田義貞に敗れて九州に落ちた建武3年/延元元年(1336年)、尊氏を逃がすため、この憲房が身代わりに討死している。

憲房の子の内、憲藤も、尊氏の子・義詮の執事として鎌倉に残ったが、建武5年/延元3年(1338年)、尊氏に従って上洛し、摂津国北畠顕家との戦いで戦死した。
(子・朝宗、孫・氏憲は、後に「犬懸上杉氏」として頭角を顕わす)

今言った二人は、忘れてしまっても構わないが、同じく憲房の子で、憲顕は、この後もわりと出て来るので、覚えておいて貰えると助かる。

一方の高師直の高一族は、足利氏の執事格の家柄で、跡継ぎが尊氏であろうと無かろうと、足利氏内部において、気後れしないだけの立場があった。

当主の尊氏さえ色々と気苦労して動かす采配も、師直の一声で大勢が決してしまう局面もあったようで(^_^;)、師直と直義が戦いあった時などは、直義が負けて尊氏の館に逃げ込んでも、師直が尊氏ごと館を軍勢で取り巻いて、主君の尊氏の命すら危険に晒して憚らない事すらあった(汗)。。

主だった人物に、師直の兄弟・師泰重茂、従兄弟・師冬などがいる。
(他、宿敵になった上杉氏だが、先に戦死した憲房の娘は、この師泰に嫁いでいる)

延元3年/暦応元年(1338年)、上杉氏が政権から排除され、その地位を高師直やその一族が代わった事から、上杉氏高一族の間に抗争の根が起きた。
こんな中、尊氏の弟・直義は上杉氏の肩を持ち、上杉も終始、直義派として登場する。

前回も書いた、高師直の従兄弟・師冬が、北畠親房常陸合戦において指揮官となったのもこの年で、それまで関東執事だった尊氏らの従兄弟・憲顕(憲房の子)を交替させる強引な成り行きなどは、高一族の鼻息をあらわす事例の一つと言えよう(^_^;)。

直義と高師直が、ケンケンゴーゴー揉めて大乱闘を繰り広げる同じ頃、関東で北畠親房南朝扶植運動が展開されながら、多くの関東武家がスルーでいたのが、高師冬が司令官だったから、と書いたのには、こんな要素もある(^_^;)。

ただ、観応の擾乱の観応元年(1350年)より前は、あくまで足利直義高師直の間の抗争だったのが、この年から、いよいよ足利尊氏直義の間の、兄弟間闘争へと踏み込んだ、という違いはある。

この観応の擾乱の始まる前年、すなわち、正平4年/貞和5年(1349年)、鎌倉には尊氏の次男・基氏がやってくる。
これが「鎌倉公方」の「初代」とカウントされる初例だ。

が、実はそれまで鎌倉には、基氏の兄・義詮(千寿王)がいて、この義詮を「初代」に充てるべき、とする学説もある。
(次回、この「初代・義詮(千寿王)」の頃の鎌倉についても、ちょっと振り返れれば、と思う。今回は、ひとまず「上杉氏」に関わる話を優先する(^_^;))

鎌倉公方が、この設立以後、必ず「関東管領」とセットで存在するようになるのは、この時の基氏が9歳とまだ幼く、その補佐を必要とした経過が始まりである。

この関東管領は当初、二人体制を取ったとされる。
一人は先に言った、尊氏の従兄弟・上杉憲顕、もう一人は、高一族から師冬重茂が交互に出て勤めた。

……とされるが、鎌倉府設立の翌年には、観応の擾乱に突入している(^_^;)。
恐らく二人体制の実態は、高師直派と足利直義派から、互いに向こうを張ってねじ込んだ結果「二人が並び立ってしまった」と見るべきだろう(汗)。

というのも、この基氏の鎌倉下向の年、さっきも述べた、高師直らの軍に敗戦して逃げ込んだ直義を、師直らが尊氏の居館ごと取り囲む事件が起き(^_^;)、結局、直義が失脚して政界を去るに乗じ、上杉憲房の子の一人、重能は流刑の後、命を奪われてしまう。

この経過の果て、上杉憲顕高師冬が二人で仲良く関東管領を勤める……なんて事になるハズがない(^^;)。

師冬は、幼い鎌倉公方基氏を、憲顕追討のため鎌倉から連れ出したものの、石塔義房に奪回されてしまう。
師冬は甲斐国山梨県)に逃走するが、憲顕の子・上杉憲将に突き止められ、自害して果てた。

こうして上杉憲顕の座が固まり、関東管領として基氏の補佐を独占する初端を得た。
ところが憲顕の子・能憲が、先に殺された重能の仇として、高師直とその一族を死に追い込む。
これをキッカケに、尊氏と直義の兄弟同志が直接対決する段に及び、観応の擾乱となるのである。

観応の擾乱は、足利直義が死去(毒殺説あり)に至って、正平7年/観応3年(1352年)には終結する。

が、この同年、北朝・足利方がこの分断の最中にある痛手を突いて、南朝勢力が攻勢に出る。
京では北畠親房が、そして関東では新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治が、十万余騎と称する兵を挙げた。

関東における戦いを「武蔵野合戦」と呼び、この南朝・新田軍には、中先代の乱で大暴れした北条時行も加わり、上杉憲顕石塔義房という、元は足利方にいた者も加担しており、ここに観応の擾乱によるモツレが現れ出たのである。

これら新田軍を迎え撃つため、尊氏は鎌倉から出撃しており、この足利勢に豊島氏の名が見える。

尊氏は一度総崩れとなるが、この時、豊島氏は、秩父流の江戸氏河越氏と共に「一揆」を組んでおり、立て直して勝利に導く戦力となっている。

今回はここまでにしとこうかな(^^ゞ。

忙しくなってるのもあって、あまり集中して書けなかったが、この回で書こうとしてた半分も来れたかどうか……。
気の利いた写真の一枚も入れようと思ってたが、結局探す時間がなかったのと、わりと字で埋まっちゃったので、愛想ナシでスイマセン。

この後も頑張りたい(`・ω・)=3<ファイト

<つづく>

縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」

猛烈に多忙モードに入ってしまい、間が空いてるっ(>▽<)。。。

今回も流れ的には、時代に沿って行くが、話の内容的にはジワジワ「横糸」に入って行きたい。

豊島氏は、戦国期の初頭に江古田沼袋の乱太田道灌に敗れ、城攻めにおいても敗れて落城し、行方がわからぬままに歴史から名を消した。

後北条氏にその名乗りの者がいた形跡はうかがえるものの、石神井練馬城の豊島氏との繋がりは不明である。
太田道灌との戦いで滅亡してしまったのかもしれない。

だから、歴史資料館を作るのに、たとえば城郭風のデザインを建築に施すなどの場合は、その後の戦国時代など知らない人々の城、として設計すべきだろう。

では、その城の中に住む人の頭の中は、戦国期以降の人と何が違っていただろう?

前回、述べた通り、鎌倉が新田義貞に落とされても、関東の武士らは誰も「鎌倉幕府が滅んだ」「鎌倉時代が終わった」とは全く思ってない(笑)。

この感覚は、ナント驚くなかれ、豊島氏が歴史から名を消すその時まで継続した。
鎌倉幕府の後も、京の幕府以外に鎌倉府が存在し、その鎌倉府が焼き払われた後も、古河に公方一族は続いたからだ。

学校では、「鎌倉が陥落し、長い動乱の果てに、京に幕府が出来た」という具合に、一度時代を区切って教わった。

が、関東の武士たちは、私達にそう言われても、ピンと来ないに違いない。
彼らは、京の建武新政南北朝の動乱とは全く無関係に、「新田義貞足利尊氏どちらかが、次の鎌倉殿(将軍)になる」と思っていた。

二人が二人とも京の後醍醐天皇の元に行ってしまっても、程なくどっちかが戻って来て、鎌倉時代の再スタートになると思ってた人は多かったハズだ。

現に、足利尊氏は京に行って以降も「鎌倉殿」と呼ばれていたし、新田氏が発給した文書も、あたかも将軍家の発給書の如く存在した(偽書と解釈されて来た物も、近頃では再検討の提言がされている)

足利尊氏が、北条時行中先代の乱)の討伐のため鎌倉に行った流れで、後醍醐天皇に朝敵認定されても、新田義貞は朝廷軍に属してたので、そのままズルズルと新田軍に従った武士たちも少なくなかった。

南北朝時代豊島氏は、鎌倉攻略の元弘3年(1333年)から5年後の、暦応元年(1338年)頃には足利尊氏北朝の側にいた、とする一方、この北条時行やその子孫に同調して、正平7年(1352年)頃まで南朝にいた、とする伝説もあるらしい。

あるいは、同じ豊島氏の中に、南朝に着いた者と、北朝に着いた者がそれぞれいるような状態もあったかもしれない。
同族同志で南北朝に分かれ、各々別行動を取った氏族はとても多い(^_^;)ゞ

北条時行南朝に加担していた説は、現在では信憑性において疑問視されているらしいが、前回も述べた通り、

武蔵国の情勢や豊島氏の立ち位置から見て、
>私的には、北条氏への癒着性は強そうに思う(^_^;)。
>元ソースの史実性が脆弱なんだろうが(これもありがち:笑)、
>江戸期の調査に誤解があるとしたら、その誤解を支える要素はあると思う。

と私は思う。

前々回、縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」で、秩父流一族が、武蔵国北部において抹消されたのは、北条氏に目を付けられたから……と述べた。

そこから、北条への怨みの感情でも持ってそうに想像されたかもしれないが、埼玉県の中世を振り返ると、北条氏の進出によって荒地がドンドン開発され、石高もアップし、むしろ豊かになった事がわかる。

一方、南北朝・室町を経て、戦国期それも豊島氏など滅んだ後になると、後北条・上杉・武田の争奪戦に巻き込まれる。
特に武田氏の侵攻に対する恨みの感情を、土地に色濃く感じる。

そうした「時代の比較」論から、前時代の隆盛が偲ばれて、北条氏を懐かしむ論調になるのかもしれないが、北条氏の影響を受けた土地には、寺が建てられたり学問が広がるなど、文化的にも向上した形跡がうかがわれる。

そこから振り返ると、秩父流よりも、さらに優遇された豊島氏などになると、北条時代への郷愁感は、そこそこあったのではないかと思う。

占領下に置かれた地域が、占領者に反発感情を抱く事もあれば、逆に憧れの感情を持って、その文化に深く馴染む例もあると思う。

北条時行は、北条氏が滅んだ当時は、鎌倉におらず信濃にいたため一命を繋いだが、そこから残党を吸収しながら、この武蔵国まで来て、一時的にせよ連勝していたわけだ。

新田義貞の鎌倉攻めルートにある「女影」「小手指河原」は、北条時行による中先代の乱が、これを迎え撃った鎮圧軍を打ち破った地域と見事に重なる↓

前回も出した、新田義貞の鎌倉攻略ルートf:id:potatun:20201102115916j:plain

建武新政に不満を持った関東の一地域として、元の司令塔筋である北条氏に心通わせる者がいたとしても、そう不思議ではないし、土地に、何らかの互助勢力があったのでは、という見方も必要だろう。
北条時行は、この中先代の乱では足利尊氏に敗退するものの、後に南朝側に認められ、南朝勢力に加担したのも事実だ。

そうした点から、豊島氏に南朝伝承がつくのは、特に不思議と思わない。

この景村伝承を史実に反する、とする理由は、どうも、北条時行中先代の乱から、そう遠からぬ暦応元年(1338年)頃には、豊島景村の甥・朝泰が、すでに北朝に属していた証左に寄るように思われる。

朝泰やその子の宗朝に宛て、足利氏が発した着倒状や感状から、そう判明するようだ。
江戸・葛西・坂東八平氏・武蔵七党らも、尊氏方高重茂の催促に応じたという。

清光┬朝経(豊島)-有経-経泰-泰友┬泰景-朝泰-宗朝
  |               └景村-輝時-景則 
  └清重(葛西)

ただ時行やその子孫と深く関わったとされる豊島景村の存在と事跡に、近頃は信頼性が置かれない、とされる以上、この話はここに留めておく。
同様に、この景村が、足立郡新座郡多摩郡児玉郡に所領をもった、というのも疑っておく事にしよう(^_^;)。

ところで、この暦応元年(1338年・延元3年)は、新田義貞が戦死し、北畠親房陸奥に向かう海路に遭難し、常陸国茨城県)に漂着する年でもある。

新田義貞に従った人々が、どの段階から新田を離れ、足利方勢力に属していったかは、各氏によってマチマチだが、この延元3年(1338年)の前と後では違いがある。

義貞の生前は、北朝&足利方につくタイミングを取り損ねただけかもしれないが、その後、北関東に南朝扶植の努力をした北畠親房に呼応した者達になると、かなり筋金入り南朝と見て良いのではなかろうか。

この人々は、かつては北条氏を、そしてその後は足利氏を相手に戦わないとならない人々だったからだ。

北条氏は表向き、平氏を名乗ったものの、千葉や秩父や葛西などのように、ハッキリした系図を歴史上に確認できる家柄ではない。

北条政子が将軍夫人となり、代々執権となり、その内部から宗家、そのさらに内部から得宗と呼ばれる、究極の実権を握る存在を輩出し続けた。
それは何もかも、幕府将軍があって成り立つものであり、北条氏の掌握した所領地も、幕府を保護し強めるために必要な処置だった。

しかしやがて、幕府のためと言うより執権家のため、執権のためと言いながら、最後は得宗家の御内人なる北条氏の被官たちが、私腹をこやし、権威を私物化するに及んで、御家人たちは不満を溜め、新田義貞足利尊氏のクーデターに勝利をもたらしたのだ。

浸食され、圧迫を受けた人々は、かつての所領・権益を取り戻したいと思った。
奪われ続けたそれらを、やっと取り戻せると思ったら、北条氏の所領地は、後醍醐天皇によって、全て足利氏足利尊氏と、その弟・直義)に与えられてしまった(-_-;)。。

だから、北条氏に土地を取られた武士ほど、先には新田義貞に従って鎌倉を攻め落とし、後には、足利尊氏から取り戻そうと、北畠親房の指導する南朝勢力に属した。

この北畠親房に対して、京の足利尊氏からは、高師直の従兄弟・師冬の軍が差し向けられた。
師冬は鎌倉に着くと、北上して武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に入り、下総国常陸国茨城県)へと順路を取った。

ところが、この師冬に対して、関東じゅうから協力を名乗り出た者が、ビックリするぐらい少ない(^_^;)。

この時点で、既に足利尊氏朝敵ではない北朝側の総大将であるし、室町幕府創始者でもある。
にも関わらず、この非協力的な関東武士たちの態度には、高師直に対する嫌悪感があると言われている。

観応の擾乱」が起こるのは、これより12年も後だが、この時すでに関東では、鎌倉に戻って来ない足利尊氏に代わって、自分達に号令して来る相手を、「高師直やその縁類では嫌」という感情が起きていた。

ここは、鎌倉武士独特の感覚が関わる点であり特に武蔵国豊島氏を含めた豪族たちの、この後の展開に響く点でもあるので、よく留意したい。

栃木県鑁阿寺(足利邸跡)足利尊氏
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(↑北畠顕家は、北畠親房の長男で、後醍醐天皇の命令で、建武新政の実行のため陸奥入りしたが、足利尊氏との抗争の経過で戦死し、これを受けて父・親房陸奥を目指して遭難し、常陸入りとなった)

今回、上に述べて来た通り、先に滅んだ北条氏には良い施策面もあった一方、末期には、御内人なる北条氏の被官が、御家人らにあれこれ指図するほど増長した。

これがとんでもなく評判が悪かったから、同じ構図が、これより仰ぐべき足利氏にあったら、関東の武士たちが再び反感を持つのは当然だろう。
まさに高師直と、その一族・高氏は、そういう存在に見られた。

大の足利贔屓だった佐竹氏でさえ、北畠親房の攻略する同じ常陸国にいながら、神宮寺城・阿波崎城までは、積極的に出ていたのが、高師冬が来た途端、動きが止まり、駒城・小田城・関城・大宝城では、完全スルーになってしまう(・・;)。。

もっとヒドイのは下野国(栃木県)の小山氏で、北畠親房の攻略の間じゅう、その目の前という距離にいて、何度も親房に援軍を要請されたが、最初から最後まで曖昧な態度を繰り返した。

この北畠親房の、いわゆる「常陸合戦」は、このようにエンエンと大勢力が無視する狭間で、康永2年(1343年)まで、ナント5年もの歳月を費やして、何とかかんとか北畠親房を関東から追い払った(^_^;)。

そして、観応元年(1350)、「観応の擾乱」が勃発。
足利尊氏と、その弟・直義との間の対立であるが、先に触れた通り、元は、尊氏の執事・高師直と、直義を代表とする武士(元・御家人)達の間の摩擦が原因と言える。

長くなったんで、続きはまた次回! 次は室町時代に入りたい(^。^)

<つづく>

※ええと、次一回で終わらせるのは無理かと思います(^_^;)。
今回の話も鎌倉時代を書いた時と同様、一回で済ませるハズが二回に渡ったので、以前お断りした「13連載」は、取り合えず「14連載」に引き延ばしておくです、はい。
そこから連想すると、次の話かその次の話も、同様に二回に分ける回が出て来る気もしてます、はい(^_^;)。

縦糸-5「鎌倉末~南北朝期・新田義貞の鎌倉攻略」

今回は、鎌倉時代から南北朝時代まで行きたい(`・ω・)=3

豊島朝経の子の時光は、禁を破って土地を賭けた博打をし、幕府からとがめを受け、仁治2年(1241年)に所領の豊島郡犬喰名を没収されたようである。

この「時光」は系譜に見えないようだが、別名同人か庶子か誤記かはわからない(^_^;)。

問題の賭博事件だが……。
一見すると、「賭博」行為が不謹慎(武士が賭け事などけしからん!)と見なされたように感じがちだが、問題があるのは「土地」の方で(^_^;)、これの権利移動鎌倉幕府は強く禁じた。

理由は、鎌倉幕府が、未だ全国の武士を束ねる程の大きい組織でなかった点にある。
承久の乱(1221年)で、朝廷勢力を武力で完膚なきまでに叩きのめした鎌倉政府ではあったが、京の朝廷や公家の政治を否定するような規模も意識も、幕府を担う将軍や執権(北条氏)にはまだ無く、武士の身分は、まだまだ低いものであった。

だから、「これこれの土地は幕府に仕える御家人の物だが、それ以外は別」と、クッキリ区別をした。
これが、「御家人」と「御家人」なる、鎌倉時代独特の言葉を生む。

元は、鎌倉幕府が、特に朝廷の抱える公家の持ち分(本家領家などとも言います)との摩擦を避けたかったから、と言われている。

が、幕府は、所領安堵のみならず、御家人同志の揉め事については、イチイチ裁判を開いて審理し、勝者にも敗者にも判決を申し渡す制度を持っていた。

だから幕府としては、幕府がこなす仕事量を遥かに超えて、保証すべき御家人の範囲が広がる事も避けたかっただろうね(^_^;)。
御家人の土地を増やしたり減ったりせぬよう、土地の移動を厳しく禁止(制限)した。

ところが、何とか御家人の土地を手に入れようと、公家だの武士(非御家人)だの商売人だのが、婚姻売買賭博だので、やたらまとわりついた(苦笑)。
御家人の土地は狙われ、これに呼応して、御家人自身も土地を売ったり手放す事が増えた。

御家人から見れば、幕府が保証する権利が「お得(≧▽≦)!」と思われたからだろうが(笑)、御家人側の方の理由は、この時代、物凄く経済活動が活発化した事に関係があるように思える。

いわゆる金融業も盛んになり、生活に困窮する武士が土地を手放して生活の糧に変え始めたのだろう。
食い詰めた時、土地を手放して現金化するのは、現代人もよくやる事だもんね(^_^;)。

特に金融業者(高利貸しですね(^_^;))は、荘園の担い手から独立して営むパターンを踏み、その元手は、前回も話した、寺院や皇室や公家の荘園を、大寺院の僧兵などが暴力行為にモノ言わせて強引に手放させるなど、不法入手がまかり通った(^_^;)。

歴史の授業では、鎌倉幕府が滅ぶに至った(武士達に支持されなくなった)理由を、元寇(モンゴル軍の襲来、1274年~)への武功に報いられなかったから、と教わった。
外敵の襲来を追い払うのみで、侵略して土地をせしめるわけではないからだね(^_^;)。

なるほど、御家人は関東に多く、畿内や西国には少なかったから、元寇を防戦すべき九州の武士たちに「非御家人」が多かった点、防備にあたらせるに課題となったのは事実だろう。

ただ、非御家人からは「悪党」が出るなど、次第に社会の歪みを生じたし、幕府が出来て世代が進むと、皇族貴族からも、土地相続の問題解決を求められるなど、もはや幕府は内輪を守るだけでは済まない存在になっていた(^_^;)。

だから元寇が無くても、御家人と非御家人を分け、御家人にだけ恩賞や裁判を行う鎌倉幕府の制度は、遠からず破綻した、とか、商工業や流通・経済の仕組みに制度が追いつかなかった、という分析もあろうかと(^^ゞ。

さて、その後の豊島氏だが、実はこの後あたりから、最後の豊島泰経までの間が、局部的にしかハッキリしない(^_^;)。。

平塚城、石神井城、練馬城を築いた事、支流に赤塚、志村、板橋、宮城などの諸氏を輩出した事が知られるが、それらがいつの時代かは丸きり不明(^_^;)。
(そういう事を知るためにも、練馬城発掘調査はされるべきだと強く思うマジで(-_-メ))

鎌倉時代の終わり頃の紀行文には、豊島あたりの、沼地の雑草が背丈高く生い茂る風景がエンエンと続く様子が書かれるそうだ。

やがて鎌倉幕府に対する討幕活動が、後醍醐天皇を中心に起こる。
元弘2年(1332年)に楠木正成が挙兵すると、鎌倉の武士たちは幕府の指示に従って、これへの討伐軍に加わった。幕府軍は10万で包囲したという。
豊島氏からも従軍者があったようで、北条氏と共に自刃した者もいたらしい。

ところが翌・元弘3年(1333年)になると、討伐軍にあったハズの足利尊氏が、イキナリ幕府に叛旗を催し、六波羅探題を攻略。
と同時に、上野国群馬県)にあった新田義貞も、同じく幕府に叛旗して挙兵。

豊島氏もここでは、この新田義貞の陣に参加している。

新田義貞の鎌倉行軍ルート f:id:potatun:20201102115916j:plain


新田義貞は、↑まず生品神社に、大舘・堀口・里見・江田(世良田)など新田一族を中心とし、岩松・桃井など足利系の人々も併せて150騎で結集(05/08)、一度、高崎方面に西進し、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの新田一族ら2千騎と合流。

おもむろに南下を開始し、越後や信濃から後続してきた5千騎など、途中で加わる武士らを途中に待ち、あるいは加えながら鎌倉を目指した。

その途中に、「畠山」「菅谷」といった、元・畠山重忠の本拠地がある事に注目したい。
幕府および北条氏が、どうしても埼玉北部~中部を直接支配地(将軍家御分国)に置きたかった理由が、この新田義貞の進軍ルートを見ると、理解できるのではなかろうか。

上の地図はわかりやすく、県境を上から重ねてみた。
現在の埼玉県・東京都・神奈川県を南北に合わせて、やっと千葉県と同じ距離という事がお分かり頂けよう。

新田氏は長く鎌倉幕府にとって、反抗的とまでは言わないまでも、従属的とは言いにくい氏族であった。
このように攻め込まれる事を、特に北条氏が執権を独占しきらぬ頃には警戒していたのではないかと、この図から想像できる。

新田義貞のクーデターを知った幕府は、急ぎ軍を動員し、武蔵国南部(東京都)付近でようやく防戦に出る。
05/11、小手指ヶ原の戦い(埼玉県所沢市、05/12、久米川の戦い(東京都東村山市で、新田軍と幕府軍の最初の大衝突を迎えた。

この同日(05/12)、足利尊氏の嫡子・千寿王(当時3歳。後の2代将軍・義詮)の軍が、遅れて世良田に挙兵の旗を立て、新田義貞の後を猛追して来て、この久米川付近で新田軍と合流した。

この足利千寿王を擁した軍の方は、出発時には新田義貞と同じく、2百騎ていどだったようだが、この時点まで瞬く間に、20万7千騎にまで膨らんだと言うから、誇張があるにせよ、足利氏には、新田とは比べ物にならない大規模を募り得る能力が伺える(^_^;)。

さらに、この頃には、京においても足利尊氏六波羅探題を攻略・京を制覇した事が伝わって来ただろうから、これも新田&足利軍に兵力が急増した要因にあっただろう。

05/15~16は、分倍河原東京都府中市・関戸(東京都多摩市)の戦いとなる。
(二ヶ所は近くて、地図ではくっついてしまうので、上の地図には「分倍河原の戦」しか表示をつけてない(^_^;))

豊島氏が、江戸氏、葛西氏、河越氏とともに、新田義貞の陣に参加したのは、この辺りのようで、三浦氏の軍に入ってたようだ。

攻防は両陣営多くの犠牲者を出したが、幕府軍は敗退。新田&足利軍が優勢に進んだ。

あとは鎌倉に入るだけとなった所で、新田義貞は配置を整えるべく、一旦、進軍を止めて軍を三手に分ける。
05/18、極楽寺切通・小袋(巨福呂)坂・化粧坂の三方向から、鎌倉に進軍。

戦闘が続く中、05/21、新田義貞は、さらに西の稲村ケ崎から攻め込み、鎌倉を陥落させ、05/22、北条高時をはじめ、多くの北条氏一門は揃って自刃して果てる。
新田&足利軍によって、鎌倉は制圧された。

新田荘歴史資料館新田義貞

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私達は、歴史(日本史)の授業や教科書で、この時に「鎌倉幕府は滅んだ」「鎌倉時代は終わった」と習うが、それは後に見る社会学的な見解に基づくものであって、当時の人はそう思ってない

ここはわりと重要な所だ。

当時、特に多くの武士は、戦に敗れた(滅んだ)のは「北条氏」であって、その北条氏が担ぐ所の将軍は鎌倉を追われたが、新しい「鎌倉殿には、「新田義貞足利尊氏どちらかがなる」と思っていた。

その両者は、ともに後醍醐天皇の始めた建武の新政のため京にのぼるが、この新政は武士たちには不人気で、その隙を突くように、北条時行(鎌倉に滅んだ最後の執権・高時の子)が、建武2年(1335)、関東に侵攻。
鎌倉は、足利尊氏の弟・足利直義が守っていたが、これを破って、時行が鎌倉を奪取。
中先代の乱である。

尊氏はこれの討伐に鎌倉へ向かう流れで、後醍醐天皇から朝敵(^_^;)とされるに至り、新田義貞の追討を受ける事となる。
尊氏は新田義貞のみならず、後醍醐天皇の下で一度は味方となった楠木北畠も敵に廻し、九州と京を行き来しつつ、建武3年(1336年)、光厳上皇光明天皇を仰いで北朝と成し、足利幕府を開いた(南北朝時代)。

この時代、豊島氏では、泰景が若くして死去し、子の朝泰が幼少だったので、伯父の景村が代行を務めたとする伝説が残る。

清光┬朝経(豊島)-有経-経泰-泰友┬泰景-朝泰
  |               └景村-輝時-景則 
  └清重(葛西)

景村は動乱の時代、豊島宗家を守り、甥・朝泰に余す事なく相伝したとして、中興の祖の誉れを持つ伝承に彩られたものの、伝承も実在も史実に確認できず、作り話の疑いもあるとかで(^_^;)、最近では取り上げられる事がないとか……。

伝承てのは、南朝に属し、この北条時行の子・輝時を養子にしたが、輝時の子・景則で跡が絶えた、というもののようだ。

作り話を疑われる理由を知らないが、もしかしたら、江戸幕府徳川氏が新田氏系の子孫を自称・喧伝した風潮に相乗り……みたいな線(^_^;)?

養子云々はともかく、武蔵国の情勢や豊島氏の立ち位置から見て、私的には、北条氏への癒着性は強そうに思う(^_^;)。
元ソースの史実性が脆弱なんだろうが(これもありがち:笑)、江戸期の調査に誤解があるとしたら、その誤解を支える要素はあると思う。

……この辺で、いっぺん区切ろうかな(>▽<)。<長くなったし

次回は、いよいよ豊島氏の終焉に関わる時代に入る!
すなわち「横糸」に取り掛かりたい!

<つづく>

縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」

今ごろの夏休みで、しばしお休みモードで過ごした(^_^A)。
GoToトラベルにイートに商店街だの、経済政策が取られてるが、どうもこのコロナ禍で、仕事でもないのに県外を超えての移動……というのに違和感を覚えて、県内ドライブに留めてしまったが(^_^;)。。

さて、ブログ続行(`・ω・)

>ところが、武蔵国に関してはそうではなかった(・・;)。。
>いや、むしろ、ここから試練が始まった、と言っても過言でない。

↑そう、ここからだった。
頼朝の死後は、妻・政子の実家・北条氏が、ガチッ└(`皿´)┘と幕府の権力を握り始める。
この北条氏に目を付けられた場所……それが、武蔵国(埼玉県・東京都)なのだ。

まず、この時期の豊島氏を先に振り返ってみよう。

建仁元年(1201年)には、豊島氏は土佐国守護に任じられたようだ。
時の当主は朝経なので、任じられたのも彼かと……。
が、この朝経は、建仁3年(1203年)に比叡山の僧兵と戦って戦死した……と、wikiにはあるφ(。。)m。

まず、土佐に行ったかどうかだが、このぐらいの時期は、葛西氏の例でも話した通り、代理の誰か(支族や家臣)を行かせて、本人は鎌倉にいた例をよく見る。

ただ、その二年後に比叡山に行かされてた事を見ると、畿内・西国に居たか縁があって、出兵させられたのだろうか?

この、建仁3年の「比叡山における戦死」というのは、恐らく同年に起きた、学生(がくしょう)と堂衆の諍いが合戦に発展した事件じゃなかろうか。

堂衆とは、寺院に仕え、雑役や下働きをこなす段階にある下級僧たちで、平安末ごろは大層な力を持つ存在となったものの、延暦寺ではあくまで学生が上位の姿勢を取ったため、堂衆側の反発から暴力沙汰が起こり、両者の対立となった。

この、畿内周辺における比叡山延暦寺だの興福寺だの園城寺だのは、しょっちゅうこういう騒動を起こして、そのたび、平家や源氏が武士を派遣させられては、神矢に触っただの神輿をどかしただのイチャモンつけられ、一方的に不利を被る図式は、鎌倉幕府が出来てもしばらく続いた(^_^;)。

この時は、堂衆側が荘園よりの勢力を駆り、一方の学生側には上層部の加護もあって官軍が投入され、合戦騒動が長引いた。
官軍と言っても、平家が滅亡してるから、こういう場合に武力を貸してくれるのは、鎌倉の幕府から派遣される武士か、のいわゆる北面の武士みたいな人々ではないかと……。

豊島氏が堂衆側についたり、学生側でも「院の北面云々」というのは、ちょっと想像が及ばないので(この時期だと有り得なくはないが(^_^;))、まぁ幕府から行かされたんじゃないかと思う。

堂衆らは、高所から矢を射たり落石したりで戦死者が出たというから、その中に豊島朝経も入ってたのかもしれない。

この時期を、関東(鎌倉)における時代背景、わけても、武蔵国(埼玉県・東京都)をめぐる状況に照らして、さらに見て行こう。

実は、この事件の4年前、建久10年(1199年)に源頼朝が死去している。

頼朝の跡を継いだのは、頼朝の長男・頼家だった(二代将軍)。
頼家には、乳母の比企氏一族がベッタリ張り付いて、頼家の妻に乳母(比企尼)の孫娘が宛がわれたりして、北条氏の二番煎じ路線を突っ走っていた ε=(┌ ̄_)┘
頼家に対して、その母・北条政子ですら介入しにくくなった程だ。

……というストーリーの果てに来るのが、北条氏が主導で行われた「比企氏の乱」である。(wiki見ると「比企能員の変」となってる。今はそう呼ぶのかも(^^ゞ)

この辺の話は、きっと再来年の大河ドラマ鎌倉殿の13人」で詳しく描かれるんじゃないかと(^。^)<お楽しみに

ここでは結果だけ書く(笑)。
要するにこの時期の闘争は、北条氏が、思い通りにならない頼家を廃し、頼家の弟・実朝(三代将軍)を擁立して、外戚としての実権を取り戻そうとする図式にある。
(頼家の乳母勢力は比企氏、実朝は北条政子の妹夫婦と、比企VS北条の構図があった)

勿論、十三人の合議だとか、梶原景時御家人らが追い出したあげく討ち果たした件などからわかる通り、比企氏や頼家の主導する二代目政権への不満が、御家人全体に鬱積してたのは事実だろう。

(……もしかしたら、豊島氏が比叡山の鎮圧か警護に行かされたのも、頼家の恣意的・強権的な言動から出た命令だったり……?)

だから、頼家に不満を持つ御家人らの意見を巧みに吸い上げた結果、北条氏の実権存続へと繋がった事、これも恐らく間違いなかろう

殆どについては、それで説明がつくのだが、一つだけ首を傾げるのが、その後の武蔵国の仕置きじゃないかと、個人的には思う(^_^;)。

これも結論から言うと、武蔵国の名だたる豪族は次々と始末され、その跡地はドンドン北条氏の権益下になっていったからだ。

秩父神社
古代・知知夫神に、秩父平氏妙見信仰を併せた武蔵国の総鎮守f:id:potatun:20201026160800j:plain

まず比企氏は、武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族だった。藤原秀郷の子孫であるらしい。
……ちなみに、この秀郷流というのも、とんでもなく北関東じゅうに広く多く根を張っており、いかに平将門の討伐が関東にとって大きな功績だったか、を物語り得る。
余談はこの程度にしておこう(話すと長くなる(^_^;))。

この「比企氏の乱」の起こった建仁3年(1203年)が、先ほど、豊島朝経が比叡山で戦死したのと同年なのだ。

疑り深い見方をすれば、武蔵国の動乱に関係しそう者を、遠い場所に行かせている最中だと、いっそ比企氏を滅ぼしやすい、と見えなくもない(・・;)。
(例えば、房総の上総広常が討たれた時、同族の千葉氏は平家や源義仲との戦に駆り出されて遠ざけられている)

何しろ、その比企氏を滅ぼしてしまうと、武蔵国の北部(埼玉県)の大きな地域が、ポコリと空いて、そのさらに北部に所領を持っていた畠山氏が、今度は大変に目立つ存在に見えて来る(^_^;)。

畠山重忠は、先に義経がらみで河越氏がどかされた後、河越氏の遺領を任されていた。
埼玉県の中央を、北部が畠山と熊谷、中部を比企、南部を河越で分けていたと言えば、わかりやすいだろうか。

この当時は、まだ一円支配の時代じゃないから、勿論そんな単純じゃないけど、だいたい今言った感じで見ると、武蔵国北部(埼玉県)において、比企の遺領分を、畠山氏が取り巻いてるような具合になる(^_^;)。

吾妻鏡』では、畠山重忠滅亡劇を、畠山重忠の子・重保と、平賀朝雅の口論を原因としている。
平賀朝雅の妻が、北条時政(政子の父)と、その後妻・牧の方の間に生れた娘だったので、北条氏は平賀の肩を持って、畠山氏に武力攻撃を加え、重忠一家を滅亡させた。

ただ、この時政や継母・牧の方のやり方に、政子・義時の姉弟は心から納得したわけではなく、畠山重忠を討ち取った後、義時は他の御家人たちと手を組んで、突然、実父・時政と継母・牧の方を相手にクーデターを起こし、父母を追放する。

これらを、北条氏に都合の良い脚色か捏造のように言う向きも無くは無いけど、私は、だいたいこういった事は本当にあったんだろう、と思っている(^^ゞ。

ただ、河越氏や比企氏を屠った時の状況に比べると、この畠山氏の滅亡劇については、畠山氏本人に討伐されるべき要因が見当たらず、さらにこの一連の事件で、連座的に立場を追われた人物に、武蔵国関係者の関与が濃厚な点など、首を傾げる所が多い。

武蔵国関係者」というのは、一人は、畠山重保と口論したという平賀朝雅で、武蔵国国司であった。
畠山重忠の乱には、この平賀朝雅→平賀の妻→平賀妻の生母・牧の方(北条時政の後妻)→北条時政と、讒言リレーがあったと想像され、そこから討伐が決定されている。

当然、平賀自身も畠山重忠の乱には、北条側として参戦しているが、元を辿ると、平賀朝雅の母は、比企尼の娘であり、疑えば、この平賀氏と北条氏の婚姻からして、武蔵国における比企氏遺領を狙う北条氏の意図を感じなくもない。

さらにもう一人、稲毛重成の関与が怪しい。
稲毛重成は、畠山重忠の叔父(重忠の父・重能の弟)で、重忠が河越氏・江戸氏とともに、長井の渡しで頼朝軍に参加した時、稲毛重成も一緒に参加した。

稲毛重成は畠山重忠の討伐に先立って、畠山重保(重忠の子)を闇討ち同様に大勢で取り囲んで殺そうがため、重保を武蔵国から鎌倉へと誘い出している。
剛勇で知られた重忠も、この嫡子の突然死によって、逃亡や籠城を選択せず、潔く散る事を覚悟してしまう。

又、稲毛は、「畠山重忠が謀反を企てている」と讒言を振りまいたとも言われる。

そして、その畠山重忠がおびき出された二俣川で、多勢に無勢で討たれた直後、畠山重忠に謀反の形跡が無かった事が判明するや、稲毛重成は、北条義時らと示し合わせた三浦義村に、その夜の内に討ち果たされてしまう。

さらに、平賀朝雅も、時政後妻・牧の方が、実朝を殺して新将軍に就けようと企てたカドにより、時を置かず、在京中に鎌倉の手の者によって討たれた。

この稲毛重成も平賀朝雅も、そして畠山重忠も、北条時政の娘を妻に得ている。
稲毛重成になると、甥の畠山重忠の跡地でも保証されて、無実の甥・重忠抹殺に加わり、口封じのため、その日の内に消されたのかとすら思えてしまう。

ただ残念ながら、この武蔵国をそっくり北条氏に明け渡すかの如く、一連にして一瞬の騒動は、印象としては、そう大きいものでもない感じがする(^_^;)。

なぜと言うに、初代・頼朝生前の上総広常に始まり、特にその死後、二代・頼家の幽閉と暗殺から三代・実朝政権になっても尚、梶原景時阿野全成、比企一族仁田忠常、二代将軍・頼家畠山一族北条時政夫妻和田一族、さらには三代将軍・実朝、その甥・公暁と、次々と追放され、粛清され、暗殺されてゆく劇の一コマに過ぎないからだ。

ただ、武蔵国における、秩父平氏らに、河越や畠山の獲得した地場が戻った形跡は皆無である。
畠山重忠の謀反が冤罪であった事を、北条義時が父・時政を追放してまで証明したと言うのに、畠山氏は滅亡し、その縁類に領地を引き継がせる処置は取られてない。

辛うじて、「畠山」という苗字のみ、畠山重忠夫人だった政子の妹(義時の姉妹)が、足利氏庶子に嫁いで、そこに継がせて、室町以降まで名を響かせたが、これもその後の流れから見ると、畠山重忠が片付けられた一瞬に決した、その余韻と言えよう。

武蔵国北条氏に目を付けられた、それが、その後のあらゆる点に影響してゆく。
この事は、このあと江戸時代に至る頃まで、この地に長く残存した構図として、記憶に留めて損は無いと思う(^_^;)。

秩父神社・境内。神社は「夜祭」で有名f:id:potatun:20201027071950j:plain

ちなみに、この畠山討伐については、葛西清重の名も先頭を切った部類に見えるので、当然ながら勝ち組に属したと言えよう。
同族の豊島氏も、ほぼ同じような立場ではなかったかと……。(朝経の戦死後、間もないので、動きは無かったかもしれないが)

承久の乱(1221年)でも豊島氏は幕府軍にあり、一族らしき名が見られる。
……先ほど、比叡山の学生×堂衆の騒動で、豊島氏戦死の疑問を話したが、承久の乱を経た後は、幕府も京に六波羅探題を設置したので、ここから鎮圧の武士を遣わす連絡機能を果たしただろう。

次回は、いよいよ南北朝に行けるかなっ(^O^)

<つづく>

縦糸-3「平安末~鎌倉朝・豊島氏の発祥と秩父平氏」

前回は、治承の乱(源平合戦)スタート時の、頼朝の伊豆挙兵で終わった。

今回は鎌倉時代より先の話をする(`・ω・)

まず最近、「鎌倉時代」の開始時期というのが諸説ありすぎて(^_^;)、昔みたいに「いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)」と覚えればいいわけじゃない点が厄介(笑)。

まぁしかし、感覚的に「ざっと、頼朝が史上に登場した辺りから」と皆さん思っておられるだろうから(^。^)、私もだいたいその線で行かして貰うッス。

前回は、高望王が関東下向して、国香・良兼・良将・良文・良茂という男子から、子孫を広げていった事、このうちの「良文」が、豊島氏に繋がる事を書いた。↓

系図1)
良文-忠頼┬将常┬武基(秩父)-武綱
     |  └武常(豊島・葛西)
     └忠常(千葉氏)

そして、豊島氏の方に繋がる、武常-常永-康家と来て、清光が、頼朝の求めに応じて、子の清重と共に参陣した事を書いた。↓

系図2)
┌武基(秩父氏)-武綱-重綱      ┌朝経豊島氏
└武常-常永(常家)-康家-清光(清元)┴清重葛西氏

上の系図を見ての通り、この代から、長子・朝経が豊島郡に住んで「豊島氏」、次子(三男とも)・清重が葛西に住み、葛西御厨を継いで「葛西氏」と、それぞれ称して分かれた。

しかし今回はここらで、豊島氏に分かれる以前の、秩父族が経た、「頼朝陣営への参加劇」に始まり、その後の経過と末路について述べる。

というのも、豊島氏についての記述を読むだけだと、後半の「横糸」あたりに近づいて来るにつれ、フツフツと疑問感が沸いて来そうに思うから(^_^;)。。
豊島氏はわりとスンナリ頼朝の「御家人」になり、その後も真っすぐその道を辿ったが、他の秩父は必ずしもそうとは言えない。
そこから押さえないと、なぜ戦国初頭、イキナリ没落に至ったかにも迫り切れない気がした。

というわけで、豊島氏・葛西氏に繋がる「武常」の方ではなく、秩父氏に繋がる「武基」の系譜を見て貰いたい。

系図3)
武基(秩父)-武綱-重綱┬重弘-(畠山)重能-重忠-重保-重国
            ├重澄(重隆)-(河越)能隆-重頼-重員-重輔-真重
            └(江戸)重継-重長-忠重

武基の子・武綱が「後三年の役」(1083~1087年)に参加した事は、前回書いた通りである。
その後は、上記の通りに展開し、頼朝の伊豆挙兵を迎えるまでに、秩父氏は畠山」「河越」「江戸の三氏に分かれている。
(スイマセンが、この三氏の名を、今覚えて下さい(^_^;))

三氏の中でも惣領格は、畠山氏だったと見られ、武綱の子・重綱から畠山重忠に至るまで、代々、武蔵国総検校職(そうけんぎょうしき)などを勤め、これは秩父氏が、武蔵国衙の在庁官人であった事を示す。

畠山重忠史跡公園(館跡)の畠山氏廟。内部に6基の五輪塔が安置されてる
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ところで……。頼朝が挙兵するまで、世の趨勢は圧倒的に伊勢平氏にあった。
有名な「平清盛」を長とした「平家一門」だね(^^ゞ。

この伊勢平氏こそ、「平将門の乱」でも、「平忠常の乱」でも、将門や良文、そして良文の子・忠頼、忠頼の子、忠常に至るまでが敵対して戦った、国香流の子孫である。

しかし国香の子・貞盛の流れが「伊勢平氏」と言われる点を見ても察せられる通り、平将門の討伐で手柄を立てた後、本拠を伊勢に移している。

と言っても、キッパリ関東(当時は坂東と呼ばれた)と手を切ったわけではなく、貞盛の弟・繁盛以降の系譜は、以前のまま常陸国茨城県)に居残り、常陸平氏として、多くの氏族を広げた。
中でも、「大掾」というのが、常陸平氏らの中核的氏族と言えよう。

(一般的に、「平家」は清盛を中心とする一家の事を指し、「平氏」というと、常陸平氏良文流秩父平氏房総平氏・相模平氏なども含める事が多い。あと実は、高望王より前に枝分かれした桓武平氏も「平氏」ではある)

ただ前回も話した通り、「平忠常の乱」の終息時、忠常が源頼信に従って降参した時、それまで内乱状態を続けていた国香流も良文流も、頼信の下に等しく、後の「御家人」の初端を掴んだ。
その後の「前九年の役」「後三年の役」では、かつての敵も味方も無く、そろって頼信以降の源氏の下に従った。前回書いた通りだ。

だから、ずっと反目しあってたわけではなく、この鎌倉幕府創成期に名の上がる、関東の御家人たちは、横同志の婚姻なども行われて、それなり強固な基盤が出来ていた(^^ゞ。

あとは、上に頼朝が乗っかり、行政手腕に詳しい京下りの下級貴族(大江・三善など)が加われば、「幕府」が出来てしまう程度に、既に頼朝政権を支える土壌が、関東に根深く広く形成されていたのだ。

ところが、ここに再び、坂東武士達と伊勢平氏との因縁が再燃する(^_^;)。
それが、「平治の乱」(1160年)以降、この「治承の乱」(1180年~)に至る過程だった。

平治の乱」については、詳細は省くね(^_^;)。
必要な経過だけ書くと、その前に行われた「保元の乱」(1156年)では、平清盛源義朝(頼朝の父)も勝ち組だったのだが、次の「平治の乱」では、清盛勝ち組となったが、源義朝は負けてしまい、逃亡中に殺されてしまう。

義朝の子・頼朝は捕まったが、少年だった事もあって、一命を許され伊豆国静岡県)に配流となる。

一方、秩父氏族のいた武蔵国(埼玉県・東京都)は、平治の乱後、平知盛知行国となった。
平家の台頭というのは実に急で、下の表でわかる通り、僅か10年の内に、瞬く間に清盛一家が日本じゅうに地場を広げ切っている。

 
 
西暦→
1151
1156
1158
1159
1160
頼盛
頼盛
経盛
経盛
頼盛
 
 
 
教盛
教盛
武蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
知盛
 
 
 
 
重盛
重盛
重盛
宗盛
基盛
基盛
 
 
 
 
 
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼盛
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
 
教盛
 
 
伊賀
 
 
 
 
 
 
 
経盛
経盛
経盛
大和
 
 
 
基盛
基盛
基盛
教盛
 
 
 
播磨
 
清盛
清盛
清盛
 
 
 
 
 
 
淡路
 
教盛
教盛
教盛
教盛
教盛
基盛
基盛
宗盛
宗盛
伊予
 
 
 
 
 
 
 
重盛
重盛
重盛
安芸
清盛
経盛
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清盛
清盛
清盛
清盛
清盛
清盛


武蔵国は、この平家の影響が強かったと見られ、秩父平家方に加担してたようだ。
これは、総検校職という国衙組織に属す立場上、仕方ない事でもあっただろう。
当時の平家は、国家(政府)そのものだったからだ(^_^;)。

これより治承の乱(1180年~)までには、さらに20年あるので、特に畠山重忠のような若者は、平家の勢いに靡いたんだろう。今の若者が長らく自民安倍政権しか知らない(からそれを支持してしまう)のと同じような現象と言えよう。

一方の頼朝は、北条政子と駆け落ち結婚した後、北条氏など在地の武士に協力を得て、挙兵したわけだが、これは、畿内の動きに連動してのもので、慌てた分、お世辞にも勝機に恵まれた挙兵とは言えなかった(^_^;)。

挙兵戦の奇襲だけは上手くいったが、前回も述べた通り、その後の「石橋山合戦」では、味方3百騎に対し、敵方は3千余騎、10倍以上!(((( ;゚Д゚)))

この時、頼朝らが戦った相手は、大庭伊東といった相模国における平家方の勢力だったが、同時期、頼朝の味方だった三浦氏の居城・衣笠城でも籠城戦が行われており、これの平家方の相手が、先に言った秩父流の三氏・河越重頼畠山重忠江戸重長だった。

頼朝も三浦氏もボロ負けし、味方してくれた北条氏や三浦氏から戦死者を出しながら、頼朝主従は何とか伊豆半島を脱出、海路を安房国(千葉県南部)に渡った。

房総で、まとまった勢力で迎えてくれたのが、前回も書いた千葉氏であり、さらに大勢力を率いて、千葉氏と同族の上総氏も合流。

そのため頼朝も、下総国(千葉県)から武蔵国(東京都)に渡る頃には、だいぶ余裕を持つに至り、そこに新たに合流したのが、秩父流の三氏・河越重頼畠山重忠江戸重長だった。

もはや関東における頼朝の威勢は不動と踏み、ここで平家を捨てて頼朝(鎌倉幕府)への帰順に至るのだが、ここからはちょっと詳しめに書く事にしよう(`・ω・)

まず頼朝は、09/28、三者の内で、長老格だった河越重頼も、惣領家格らしき畠山重忠も無視して、江戸重長を呼びつけた。
江戸重長は様子見をしていたが、頼朝は彼をおびき出して殺そうとまで考えた。

10/02、頼朝が武蔵国に乗り込む。
これに対し、豊島清光(清元)と葛西清重が参加した。
……さっきも書いた通りだね(^^ゞ。

二日遅れて10/04、河越重頼畠山重忠江戸重長が、長井の渡しで頼朝に帰服。

豊島・葛西が比較的、頼朝から厚遇を受けたのは、恐らく平家方に加わってなかったからではないかと思われるが、見ようによっては、この「僅か2日」の差も小さくなかったかも(^_^;)。。

頼朝という男は、頭の中にスパコン富岳が入ってんのかと疑う程、記憶力が素晴らしく(笑)、後々まで、この当時の一連の戦いで、誰が早く味方に駆け付けたか、そうせず様子見をしていたか、幕府が出来た後も尚、敵対していたのは誰か……といった点を、その後も甲乙の点数表にしていたフシが窺える(^_^;)。

これが、後に「いざ鎌倉」「すわ鎌倉」と合言葉化し、武士たるもの御家人たるものは、鎌倉に異変があった時は真っ先に駆け付け、「鎌倉殿」(最初は将軍ではなかったので)のために働きを見せる。
これこそが、東武士に求められる第一条件となった。

さて、いわゆる源平合戦も本格化してゆく。
寿永3年(1184年)には、京にいた義仲軍に対し、鎌倉からは頼朝の弟・範頼義経がそれぞれ一軍づつ率いて、その追討を担う。

豊島清重も、範頼に従って九州まで渡り、平氏追討で武功をあげている。
その子・豊島朝経は、元号かわって、元暦元年(1184年)に紀伊国守護に任ぜられた。


義経鵯越の逆落としで、馬を背負って下りたとされる畠山重忠の像
(無論、軍記物の脚色でしょうが(^_^;)) f:id:potatun:20201022184055j:plain

そして、ついに平家が壇ノ浦に滅ぶ(1185年)と、ほぼ同時に、今度は頼朝の弟・義経の追討と探索が始まる。

まずこれで、義経の舅(妻の実家)だった秩父流の河越氏連座の罪に問われる(^_^;)。あげく、重頼とその子・重房誅殺されてしまう!

この、平家滅亡後しばらくの間、鎌倉幕府は、奥州藤原氏岩手県)を主な脅威と感じて体勢と行動を取ったように思われる。
そうした奥州への間にある、佐竹氏常陸国茨城県北部)、新田氏上野国南部=群馬県)など、不穏な構えや曖昧な態度を取り続ける豪族たちに、頼朝らは始終神経を尖らせていたから、秩父監視対象にあったとしても、やむを得ない部分はあっただろう。

問題の義経自身は、頼朝に叛旗を翻したが兵が集まらず、エンエン逃げ回って、最後は奥州に隠れたが、奥州藤原泰衡に討たれた。
そして、ついに奥州藤原氏も、幕府の奥州征伐によって滅びる(1189年)。

この奥州藤原氏征伐(奥州合戦)には、抜け駆け争いに豊島氏の名も見え(笑)、皆とても張り切っていた。

中でも、葛西清重は活躍し、その平定により、奥州総奉行に任ぜられた。
以後、葛西氏は奥州で大勢力をなし、陸奥の大名に成長していくのである。

(と言っても、大抵は支族か家来を現地に置いて管理を任せ、当主は鎌倉に戻って、幕府の家人として仕えるものであり、葛西氏の場合も同じで、本格的に奥州に本拠を移すのは、四代後の清経、又はその子・清宗からであったようだ)

勿論、あの畠山重忠も、平家との戦いにも、この奥州征伐にも参加して、武功をカウントされたから、今や、鎌倉参加前の平家寝返り組といった前歴からは解放され、奥州にバッチリ所領をゲットした。

建久元年(1190年)、頼朝の上洛には、多くの豊島氏一族が供奉している。
これも鎌倉武士・幕府の御家人にとっては、これ以上ないぐらい栄えある舞台であり、畠山重忠も、この誇り高い行列に、晴れがましい先陣の役目を担った。

普通なら、取り合えずここで、一先ず安泰を得たと思える所だ(^_^A)。
事実、頼朝はこの上洛後、ついに征夷大将軍に任命され、幕府は半ば正式の公的機関となった\(^O^)/。(これが「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年ね(^^ゞ)

ところが、武蔵国に関してはそうではなかった(・・;)。。
いや、むしろ、ここから試練が始まった、と言っても過言でない。

<つづく>
(ちょっと12連載じゃ済まないかも。13連載は行く感じ(^_^;))

縦糸-2「平安期・良文流と東国の大乱」

今後は逆に、一気に平安期に戻り、豊島氏発祥より前の時代に行く。

桓武天皇葛原親王┬高棟……平時子平清盛妻)
         └高見王-高望王┬国香┬貞盛-(北条・伊勢平氏・伊勢=後北条)
                  |  └繁盛-(城・岩城・大掾
                 ├良兼
                 ├良将-将門
                 ├良文-忠頼┬将常┬武基(秩父・畠山・河越)
                 |      |  └武常(豊島・葛西)
                 |     └忠常(上総・千葉・相馬)
                 └良茂-良正┬公義(三浦・和田・佐原)
                       └到成(鎌倉・大庭・梶原)

ワープロは横書きが主流なので、系図が横向きになってスイマセン(^_^;)。。
→→→左から右に見て下さい→→→

豊島氏の発祥は桓武天皇に遡る。
その曾孫・高望王の時、親王任国の制度によって、関東に下向し、国香・良兼・良将・良文・良茂以下の子孫を広げた。
(上の系図では、良茂流として書いたが、三浦・和田・鎌倉・大庭・梶原も、良文流と解釈する向きが近頃では多い)

はじめは任官先の上総国(千葉県)に来たものと思われる。任官は、寛平元年(898年)という。
上総国(千葉県)の後は、常陸国茨城県)・武蔵国(東京都)・下総国(千葉県・茨城県)の順に領したと考えられる。

が、国香と、その弟・良将の子、将門との間に武力衝突が起き、将門が国香を討ち果たしてより、いわゆる平将門の乱が起きる(承平の乱・935年~

国香の死後、国香の弟・良兼や良茂(『将門記』には良正とある)、国香の子・貞盛が騒乱を引き継いで、将門との敵対を続け、戦いは長引いた

やがて、平将門の存在は関東に鳴り響くようになり、騒動の芽が、将門の住まう下総国(千葉県・茨城県)から外にも点火して、一族同志の戦いにとどまらず、乱は関東全体を巻き込み、広がった(天慶の乱・939年~)。
ついに将門は、京の朝廷からも敵視されるに至り、討伐の兵を差し向けられた。
が、京軍の到着を待たず、貞盛と藤原秀郷の連合軍によって、将門は討たれる。

(※ 平将門については、この「将門の乱」という史実より、「死後の祟り」なるオカルト話の方が数倍もボリュームがある感アリ。が、ここでは割愛させて貰う(^_^;))

茨城県常総市「将門公苑」(豊田館跡)の「平将門公之像f:id:potatun:20201019145902j:plain

これが「一族の戦い」であるにも関わらず、豊島氏に続く「良文」だけは、この乱に全く名を見せない(^_^;)。

しかしこの良文からは、氏族・子孫が極めて多く輩出されてゆき、同じ良文流からは、その威勢の強さや広がりを示すべく、後に「坂東八平氏」と呼称されるまでに発展した。

しかも同じ東京にある、あの有名な神田明神で、平将門祭神であり、大手町には首塚もあるから、この乱と良文の関わりが気になる人も多いのではなかろうか(^o^)

古くは、良文の子・忠頼について、「平将門の乱に立てた功績により、武蔵押領使陸奥となった」とされてたようだ。

ところが、その当時を確認できる史料に裏付けが見当たらないため、この功績の根拠は、後世付会か創作(誤伝・自称)が疑われ、歴史学的には信用を置かれてなかった。

その一方、同じく良文の子・忠頼から出た相馬氏(千葉氏の支族)には、「良文と将門は共に手を組んで、国香たちを相手に戦った」とする縁起話が伝わる。

良文・忠頼の父子は、将門の敵か味方かどちらが正しいのだろう(^_^;)。

そこに近年、「将門の死去を京に知らせたのが、良文ではないか」とする資料が発表された。
私も同史料は確認した。(確証するには至れてないが(^_^;))

そこで改めて、相馬氏に伝わった伝説を詳らかに見てみると……φ(。。)m。
同伝の妙見縁起には、「はじめは良文と将門は手を組んだ」が、後日、「妙見が将門を離れ、良文の家に来た」というのだ。
(「下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻」1662年)

すると……。
身内同志の戦い「承平の乱」では、良文は他の兄弟と袂を分かち、むしろ将門に味方した。
が、さらに拡大した「天慶の乱」では、「妙見の加護を得られない→将門の味方は出来ない」と判断。

そこで良文は、積極的に将門に敵対はしなかったが、合力もせず、その死去の報を朝廷側に伝える程度の働きをし、功績が認められた……と、こうではなかろうか(^_^;)。

良文と将門が、国香と戦って劣勢に陥り、妙見菩薩に助けられるシーンf:id:potatun:20201019153331j:plain


この「平将門」に属する話は、後にまた登場させるとして、今回は先に進むが、以上の推測を元に考えれば、良文の時点では、それほど大きな功績と認められたとは受け取れない。

続く忠頼については、どうだろうか。
実は忠頼は、先に書いた、国香の次男(貞盛の弟)・繁盛と鋭く対立していた。
繁盛が太政官に宛てて、「比叡山に納経しようとするのを忠頼が邪魔をする」として、朝廷に討伐を要求しているのだ。

忠頼繁盛の間のこの確執を、さらに子である忠常維幹が引き継いだ対立図の上に、忠頼の次子・忠常は、房総(千葉県)において、続いて起きた騒乱平忠常の乱(1028年~)で、都から謀叛者と認定され、本当に討伐を差し向けられたため、房総はその後長く、亡国・亡弊国と呼ばれるほど衰退するに至るのだ。

高望王国香貞盛-維将-維時-直方
   |  └繁盛維幹(維基)
   ├良将-将門
   └良文忠頼-(千葉)忠常

この「平忠常の乱」は、良文流と国香流の子孫同志が争いあってる点から、将門の乱の延長とも、あるいは将門の乱による勝ち組同志の内輪揉めとも受け取れる。
(良文・忠頼の父子が、将門や国香と、どの時点で敵味方であったかが、重要だろう)

しかも朝廷から向けられた討伐の大将には、繁盛・維幹に近い直方が配置された。
これが、忠常側から見て、なかなか終戦したくない(戦が長引いた)事情にあったと見られている。

この事情を裏付けるかのように、ここに平忠常の主君であった、清和源氏・河内流の源頼信(頼光の弟)が討伐に来ると、途端に、忠常は自分から進んで降伏し、乱はあっけなく終息した。

忠常は護送中の美濃国岐阜県)で病没したが、忠常の子孫は、上総氏、千葉氏として枝を伸ばし、後に、豊島氏太田道灌との戦いにも登場するのである。

一方、同じく忠頼の子(長子)で、豊島氏の祖・将常(将恒とも)は、この平忠常であったが、忠常の側について朝廷に歯向かった形跡は無く、その後も武蔵国に安泰だっただろう。
武蔵権守となったとされ、武蔵国秩父郡中村郷(埼玉県秩父市)に土着し、秩父を名乗った。

ただ、一説によると、将常と忠常は平将門の娘を母に持つとする伝えもあるようで、将常の子孫(江戸氏など)と忠常の子孫(千葉氏・相馬氏)が、平将門の慰霊や祭祀を行ったと伝えられる事と関係があるのかもしれない。

この江戸氏、↑上の系図には狭くて書き込めなかったが、「豊島氏」に枝分かれする直前に分かれた「秩父の一族である。

ただ、将門の血筋を云々する事情には、平安末に向って荘園勢力の進出等に伴い、地場確保のための喧伝、という要素も指摘されている事は述べておこう。
ちょくちょく朝敵クラスの有名人の子孫が、その血筋や系譜を主張する傾向がみられるのは、相続アピールが絡んでいるからと見られる事が多い(身も蓋もない言い方(^_^;))。

秩父は、将常の長子・武基に受け継がれる一方、将常の次男、武常が、治安3年(1023年)に武蔵国で、武蔵介・藤原真枝なる国司が兵を構えたのを討った功で、武蔵国(東京都)豊島郡下総国(千葉県)葛飾郡葛西を賜った。
他に駿河国(神奈川)・上総国(千葉県)にも恩賞地を得たともいう。

この武常の系譜が、豊島氏に繋がってゆくのである。
東京都北区豊島が豊島氏発祥の地とされ、平塚神社豊島舘跡と伝わるそうだ。

平忠常の乱」をキッカケに、降参した忠常ばかりでなく、他の多くの坂東武士たちも源頼信に与し、頼信以降の清和源氏と、長く主従関係を築く将来へと繋がってゆく。

と同時に、源頼信の子孫も、本格的に関東へ進出してゆく。

頼信の子、頼義と、さらに子の義家八幡太郎)は、前九年の役(1051~1062年)に、多くの坂東武士を従えて、陸奥安倍討伐に向かっている。
武常も、この源頼義・義家の父子に従って、奥州で戦死した。

この「前九年の役」は、多くの関東武士の戦歴の初段にカウントされる事が多い。

平忠常の乱」では、反目しあっていた国香流と良文流の子孫たちも、源頼信の家臣となり、「源氏を棟梁に掲げる」事によって、その下で争い合わず、共存する道を新たに開拓したのである。
その最初の軍事動員が「前九年の役」だった点は、関東武士にとって小さくなかった。

武常の後は、常永-康家(これより豊島氏)-清光と続く。
(豊島氏の系図は、手持ちの資料とネット上に見る物と、ちょっと違うので、後で検証された物の方が正しかろうと思い、Wikipedia等の情報に従う事とします(^_^;))

秩父氏では、武基の子・武綱後三年の役(1083~87年)に、源義家方として参陣してる。豊島氏では常永が、ほぼ同世代と見れようか。
保元の乱(1156年)平治の乱(1160年)にも豊島氏は出陣したと見え、保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に、豊島氏の名がみえるらしい。

(源氏の方は、義家の後、義親-為義-義朝-頼朝と続く)

治承4年(1180年)、伊豆で源頼朝(義朝の子)が挙兵。頼朝は石橋山の戦いで敗れ、安房国で再挙した。
この頼朝に、豊島権守清光(清元)は小山氏・下河辺氏・葛西氏らとともに呼応、子の清重をつれて参加。関東平定戦に従軍し、以後、代々鎌倉幕府に仕えた。

以上、良文流にも色々苦難はあったが、豊島氏に受け継がれる武蔵国の流れには、戦死など悲しむべき出来事はあれど、概ね大過なく来た感じが伺える(^_^A)。

しかし、これも鎌倉時代に入ると、中々そうはいかないのである。。

以降は、次回に引き継ごう(^O^)ノ

縦糸-1「江戸期の豊島氏」

前回からの繋がりから、江戸時代の豊島氏を先に書こうかと思う。

ただ、前回も書いた通り、残念ながら、どれも石神井や練馬の「豊島泰経」との繋がりが不明である。

石神井や練馬の「豊島泰経」には繋がらなくても、そもそも豊島氏は平安期から続く家系で、「豊島」に枝分かれしたのも早い時期なので、相当根元から分かれても「豊島氏」を名乗る可能性はある。

しかし、これから書く江戸期の豊島氏は、どちらも「豊島泰経の子孫」を称しているようだ(^_^;)。

そこはやはり、江戸のある武蔵国に、徳川の来る前時代、勢力を誇った「豊島氏」との繋がりを持ち出す方が分があった、という事になろう。

ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏相馬氏などに対する憧れ感情が、地元に強かった形跡が伺われる。
(ありもしない)「合戦があった」とする作り話まで伝わっている(^_^;)。

そういった意味での「伝統」として見れば、やはり「豊島氏」の痕跡は、練馬城や石神井城のある練馬区に残していかなければならないのではないかと思う。

では、早速、江戸期の豊島氏の話をする。

まずは、布川豊島氏というのがいる。
千葉県から茨城県利根川(県境)を越えて入って、スグの所に「布川城跡」がある。
戦国期については後で話そうと思ってるが、下総における合戦にも名を顕わして来る。

落城前は、後北条氏に召し抱えられた勢力だったが、これが小田原に滅んだ後は、江戸入りしてきた家康の徳川家に仕え、旗本になったようだ。

が、三代将軍・徳川家光の時代、江戸城内で刃傷事件を起こし、断絶となった。

この事件は、後に、浅野長矩(内匠頭)が松の廊下で、吉良義央(上野介)を相手に起こした刃傷事件の折、その前例として参考にされたんじゃないか、と思う。

松の廊下事件との違いは、斬り付けられた相手(井上正就)が絶命している事、斬り付けた豊島信満はその場で切腹した事が違う。
この切腹、後ろから取り押さえにかかった青木義精という侍まで、その刃が貫通し、共に死に至ったというから、物凄い(*_*)。。

こう聞くと、今の時代の人は「残酷な(*o*)」と、良い印象を持たないかもしれない。
私も最初にこの話を聞いた時は、あまり詳細を知らなかったのもあって、浅野内匠頭みたいなノイローゼかな?とか思った(^_^;)。

しかし、よく内容を見ると、そうではなさそうだ。

元禄の頃の浅野と吉良の刃傷事件では、相手を討ち果たせない点を、浅野内匠頭がその場で押さえつけられた事とあわせて、「武士道にもとる」と酷評されるシーンを、しょっちゅうテレビドラマになる「赤穂浪士の討ち入り」では、よく見る。

小説家の味付けが引き継がれてるのか、当時の記録に、学者らの意見として記録されてるのか、正直この時代にあまり詳しくないので、出典についてはよく知らない(^_^;)。

しかし、江戸時代の感覚は、何となくわかる。
私自身は中世史好きだが、江戸時代にも歴史学は盛んに行われており、現在の歴史観にも多少の影響を与えている。
このように、江戸時代の人の感覚は、歴史を学ぶ折々に沁み込んで来るのだ。

その点から見ると、江戸時代は、下手すると、戦国時代以上に「武士とはこうあるべき!」と律せられた時代と言える。

そういう時代なのだ。
武士が刀を抜くからには、目的(殺害)を達成し、自らの命も顧みない覚悟を求められた。

だから、罪状的には「有罪」であり、表面的には「凶悪犯」であったとしても、受け取る人々の心情的には「よくやった」「相手を討ち取ってこそ武士」であり、さらにその場での切腹も「潔し」「清し」と、高潔に写ったんじゃないかという気がする。

また、怨恨の原因が、豊島信満が仲人であった縁談を、井上正就が一方的に破談した事に原因があった。

これも、豊島氏にとって、そこそこ評判が悪くなかったと思う(^_^;)。
仲人と言うからには、信満自身も不名誉を浴びただろうが、破談にされた家の娘の体面を守りたかったと、言葉には出さずとも皆が納得したんじゃないかな、と。

時代劇で言うと、「晴れせぬ恨み晴らしてみせた」、必殺シリーズみたいな事を、豊島信満はやってのけたわけだ。

井上に断られた縁談相手は、大坂の町奉行だった。
対して、新しい縁談相手は、徳川家譜代家臣・鳥居家で、当時江戸城における実力トップの春日局の口利きだったと言うから、斬られた被害者とは言え、井上正就の破談と再縁は、出世目当てと思われて仕方ない。
徳川の元に治世され、幕閣の権力もドンドン大きく成長してゆく時代だったからだ。

それと、家光ぐらいの時代だと、まだ戦国ムード満載で、特に江戸っ子たちには、自分達の住む江戸に元いた豊島氏の名に、一種の憧れの気持を持ってたと思う。

ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏や相馬氏などに対する憧れ感情が強かった事は先に述べた。

そういう時代だから、豊島氏の刃傷事件は、ウケが悪くなかったと推察する。
だから、これと浅野&吉良の刃傷事件の内容は、遠慮なく比較されたと思う。

こういう前時代もあって、赤穂浪士は無理をしてでも、主君が果たせなかった吉良上野介殺しを、何としても果たさなければならなかったんじゃないかなぁ……。

と、かように愚考している。

信満の子、吉継切腹となった。
この点も、お預けの身とは言え、浅野家は長矩の弟、長広(大学)は存命を許されたから、違う点だろう。
ただ、その後、どうも豊島氏は姓を変えて、紀州徳川家に召し抱えられたらしい。

もう一個、江戸期に伝わる豊島氏の子孫話があって、絵島生島事件の「絵島」(江島)である。
私は「絵島が豊島氏の子孫」と聞いたんだが、wikiで調べると、どうも絵島の養父(母の再婚相手)、白井久俊というのがそうらしい(^^ゞ。

絵島は、七代将軍・徳川家継の生母・月光院に仕え、大奥年寄にまで出世した、大奥きっての実力者だった。
寺社参詣(将軍の正室・側室は外出が適わないので、代理で参詣する通例があった)の帰りに芝居小屋に寄って、門限に遅れた事から尋問を受け、芝居役者・生島新五郎との密通嫌疑で逮捕・拷問され、遠島となって、大奥に戻る事はなかった。

しかし遠島後、8年ほどで、厳重な獄牢状態が緩和され、ほぼ赦免者として老後を送ったらしいんだよね(^^ゞ。

だからか、絵島の密通は実は冤罪で、月光院の力を削ぐために、密通をでっち上げられ、月光院から引き離された、とする説も散見する。

(その一方、この事件を時代劇などで取り上げる場合、必ず、絵島と生島が(プラトニックであれ)恋愛感情を持ってた具合に描かれるけどね:笑)。

ところで、この絵島と豊島氏については、絵島の弟が豊島姓を名乗っている事が目をひく。(常慶と言うらしい)
絵島の兄は、養父の「白井」姓を名乗ってるようだ。

豊島姓を再興する必要から、復姓したのか、単に兄が親の名を継いだので、弟は分家の都合上、別姓を名乗ったのか、それとも、やはり豊島氏の名が惜しまれる時代背景ゆえか、殊、豊島氏に関するブログを書く以上、特筆しておこうと思った(^o^)v