ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

新型コロナウィルス・メニュー一覧(2021年版)

去年(2021年)も一昨年(2020年)分のを作った、ツイッタープロフィールツイフィール)の「モーメント」の目次、今年(2022年)も去年(2021年)版をこさえました(^^ゞ。

「ツイフィール」は千文字まで可なので、ツイッター側にも、今回こちらに移したメニューも一年スッカリ経過するまで残そうと思いますが、やがてツイフィール側は、順々に消していく手筈です(^_^;)ゞ
(代わりにこのブログのURLを貼っときます)

殆ど「新型コロナウィルス」と題しながら、政治ネタかなり交えるメニューですが、このブログで扱う「としまえん」ネタが、途中「歴史・史跡(練馬城址としまえん」と題して混ざってます。
(題名通り、としまえんネタだけでなく、歴史史跡のツイも多く入ってます)

去年も書いた通り、各表紙に使ってる写真は、以前旅行で行った時に撮った物で、コロナ以後は全く遠出が出来ないので、「せめて気分だけでも(^^ゞ」と表紙に使ってます。
ツイッターでの反応を見る限り、どうも、この写真の方がウケてる事を強く実感します(笑)。

<モーメント>(2021年~)

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この後も「モーメント」は続いてますが、2021年以降のは、又、来年にでも、こちらに移そうと思います。

縦糸-7「江戸氏の事」

前回から再開したが、お断りしなければならない事に気付いた(`・ω・)=3

連載の回数である。
当初12回と言ったのを、後から13回とか、14回とか、引き延ばして告げてる内に、8ヶ月以上もの休止状態に突入してたようだ(^_^;)ゞ。

前回が、その「14回」目に当たるんだが、終わらないどころじゃない(笑)。

この先どれぐらい続くか……φ(-ω-;)m<ウーン
今回の入れて6回は行くんじゃないかなー。
(当初の「12回」なる目算の甘さ……( ̄∇ ̄;))

ただ、時間をかけただけあって、拙速に終わらせようとした視点を一度離れて、少し視野を広く持てる気持ちになれたように思う。それを世間は「負け惜しみ」といふ。

さて、この後の豊島氏が史実に顕れるのは、応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」となる。
この乱については次回以降、詳しく書こうと思うが、ここでイキナリ、滅亡時(1478年)の豊島氏の所領地を振り返ってみたい。

その本拠は石神井とされ、そこに立つ石碑によると、その当時の豊島氏の勢力範囲は、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区板橋区、足立区、練馬区とその周辺に及んだ、という。

ズラズラ書くと大層な勢力に思えようが、そう広い範囲とは言えない(^_^;)。
でも戦国時代において、そこそこの勢威を世に知らしめる程度の存在感はあろう。

これほどの領域を一円確保した時代を、いつの時点に見出すか……。
これはちょっとした課題じゃないだろうか。

結論から言うと、私はそれを、次回話す予定の「上杉禅秀の乱」ではないか、と思っている。

上杉禅秀の乱の後の関東は、永享の乱(1438~)、結城合戦(1441~)と続き、畿内では、嘉吉の変(1441~)が起こる。
そして関東には、享徳の大乱(1455~)という長い戦争の時代を迎え、この乱の最中に、畿内では応仁の乱(1467~)が起き、関東は享徳の大乱も終わらぬ内に、長尾景春の乱(1476~)が勃発。
この二重三重の乱の最中に、豊島氏は太田道灌との戦いに敗れ滅亡(1478)に至る事となる。

つまり、最初の「上杉禅秀の乱」から最後の「長尾景春の乱」に至るまでは、関東動乱史の中に身を置いた一豪族として豊島氏を見出す手法が可能である。

……に対し、滅亡時に伝えられる豊島氏の持つ面影が、「上杉禅秀の乱」の時にはあらかた整っていたのか、それともその後、滅亡するまでのどこかの段階で形作られたのかが、正直よく判らない(^_^;)。

そこで、上にズラリと並べたこの先の関東の動乱を書く前に、やり残して気になっている事を今回は書いてみようと思う。

表題にある通り、江戸氏についてである。

鎌倉時代畠山氏、前回に見た通り、室町初期に武蔵平一揆河越氏がほぼ消滅し、豊島氏にとって同族として手を携え得るのは、江戸氏葛西氏ぐらいになったと思うからだ。

葛西氏は、鎌倉時代陸奥に行ってしまい、その活躍を関東に見る事は無くなった。
南北朝期、僅かに関東の戦歴に名を顕わすものの、その後は戦国期までやはり奥州探題として存在感を示すのみである。

(関東と東北の両方に拠点を置いて、行き来しながら両方の場を保ったと推測する向きもあるようだが、葛西氏については資料の混乱が著しいため、ここでは取り上げたくない)

江戸氏は、豊島氏や畠山氏と同じく、秩父平氏である。
だいたい、後の江戸城の辺りに平安末には本拠を構えていたと見られてきた。

源頼朝による平家追討の決起に伴ない、豊島氏葛西氏は早い内から頼朝に靡いたが、その本家筋とも見られる、畠山・河越・江戸の各氏はやや遅れを取った。
江戸重長などは石橋山合戦で頼朝と戦ったが、後に従った。

スグに靡かなかった畠山・河越・江戸の中では、頼朝は、この江戸重長を選んで使いを送った。
どういう意図かはよく判らないが、人柄か、他の二氏より御しやすいと思ったのかもしれない。
既に戦闘を行なった敵同志であったためか、なかなか応じない重長だったが、頼朝は同族の葛西清重を出して傘下に服させている。

江戸氏が、同族の畠山氏や河越氏のように表舞台に名を顕わさないのも、鎌倉幕府の権力の中枢に偶然、近くなかったからに思える。
承久の乱の活躍により、出雲国に地領を得ているものの、軍記文学などでは大層な富豪であるかのように描かれるフシも見受けるのは誇張で、江戸氏にそれほどの力を持ちうる要素はない。

江戸氏は鎌倉時代に入ると、早くも系譜が途絶えたと見られる。
畠山重忠を討伐する中に見られるのを最後に、以後、史上に名を顕わす「江戸氏」が、元の江戸氏とどう繋がるのかは解明されてない。

江戸氏には、武蔵七党猪俣氏の血が婚姻によって入り込んでおり、これは同血族の横山氏の名乗る小野氏と同祖を称している。
その関係からか、小野の名乗りが江戸氏に混在して出て来るようになる。
一方、この後に出て来る江戸氏は、畠山重忠の子孫が跡を継いだという説もあるようだ。
あるいは、江戸氏の庶氏の流れ(分家)と見る説もある。

系譜的には不明ながら、「江戸氏」はその後も史上に見られる。

ところでその江戸氏は、江戸時代には「喜多見氏」を名乗り、現在の世田谷区あたりに居たようである。

世田谷区には幼い頃と大人になってからの二度に渡って、長く住んだ事がある。
区役所だったかの待合室で、「世田谷区の歴史」みたいなビデオが上映され、「将軍家たる徳川氏の江戸城と同じ名乗りは恐れ多いと改名」という具合に紹介されてた覚えがある(^_^;)ゞ

しかし徳川家が江戸入府する前、確か太田道灌江戸城を作っていたハズだ。
道灌の江戸城は、太田氏独自の城か、道灌の主筋・扇谷上杉氏あるいは、そのさらに嫡流筋の山内上杉氏の物としてだったか、細かい所は置いといて( ^^)//、何しろ江戸氏の「え」の字も、その頃は出番が無い。

どういう具合にそうなったんだろう(^_^;)。
結論から言うと、実はよくわからない(爆)。

嘉元年間(1303年)、時宗の二代・他阿真教が宗祖・一遍の亡き後、法灯を受け継いで全国行脚を行なう最中、武蔵国柴崎村を訪れた。
この地に威勢を張っていたはずの江戸氏が衰えため、村が荒廃し、疫病が蔓延して、住民が平将門の祟りを恐れている様子に出会ったという。

その地はかつて、敗死した平将門を「築土明神」として祀っていたのだが、長い年月の間に、洪水あるいは津波などによって流されしまい、これによる祟りだと、住民たちが恐れているのだった。

つまりこの時点で既に、江戸氏は土地の主要勢力たりえてない感じが濃く漂っている(^_^;)。

他阿真教は平将門を祀る塚を修復し、「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して供養したところ、疫病が終息。
住民は喜び感謝して、真教に付近の日輪寺に留まって貰い、「柴崎(芝崎)道場」が出来た。

その後も真教の気配りが功を奏して、平将門慰霊の場となり、その後の「神田明神」へと発展した。
神田明神徳川家康の江戸入府にともない、現在地の御茶ノ水駅付近に移ったが、真教の「蓮阿弥陀仏」の塚は、今も大手町に、所謂「平将門首塚」として残されている)

この首塚は、現在の皇居のスグ近くにあり、皇居はかつての「江戸城」跡地だから、この城の名は「江戸氏の城があった」事に由来すると言われて来た。
ところが、豊島氏が攻め滅ぼされた頃には、太田道灌の城となっているので、「江戸氏はいつ江戸城を離れたのか」という疑問が生まれよう(^_^;)。

それより42年遡る、弘長元年(1261年)、江戸長重正嘉の飢饉で江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)が荒廃したため、経営が続かず、北条得宗に寄進して、江戸氏は得宗被官となったという。
(この寄進は、正和4年(1315年)までに得宗家から円覚寺に再寄進されたそうだ)


この荒廃と関係があるんじゃないか、と思う事にする(^_^;)。
この時、江戸城付近を離れたのか、一気に世田谷区付近に移ったのか、或は他を転々として後だったのか、その辺はよくわからない(^_^;)。


その後の江戸氏も追ってみよう。
鎌倉末期の鎌倉攻め(1333年)において、新田義貞の軍ではなく、足利尊氏の嫡男・千寿王(義詮)に加わったらしく、そのため南朝側に連れ込まれるリスクを追わずに済んだ(^_^A)。

にも関わらず、北条時行中先代の乱(1335年)には葛西氏と共に加わったようで、足利直義(尊氏の弟)の舅・渋川義季に鎮圧された。

大抵の新田傘下の南朝組は、一度、足利@北朝に下ると、そのまま足利政権に組み従えてゆくものだ。

……に対し、鎌倉制圧の時、足利氏に直接ツテがあったにも関わらず、後に南朝側に転じてゆく、この江戸氏など秩父平氏の動きには、やはり北条氏に支配されぬいた武蔵国の名残りが思われてならない。
特に江戸氏は北条得宗家の被官であったから、北条時行の支援を断る事は出来なかったのではないか。

前々から書いて来た通り、畠山重忠の滅亡や河越氏の衰退などで、武蔵国(埼玉県・東京都)には北条氏の勢力が伸び、北条氏の影響を強く受けた事が、南北朝以後の秩父平氏らの趨勢をある程度定めた感じがする。

だから鎌倉末~南北朝の動乱期、河越氏などと共に名の出る武蔵平一揆の「一揆」は、鎌倉期の惣領制が崩れ、戦国期のような大名による一円支配も成立してない頃、こうした小豪族らが連帯を組んで様々な外圧に対処したものと言える。

と同時に、私が以前、「尊氏の連れ込む勢力に簡単に従わない理由として、大抵は、足利直義の人柄に入れ込んだ関東武士達が多かったとされてるが、豊島氏を話す局面では、その頭から離れた方が良い」と言ったのは、同族・江戸氏・葛西氏のこういう経過があるからだ。

このように関東には、足利直義に服した勢力ばかりではなく、それに敵対した尊氏が連れ込む勢力に靡く(必要のある)武士たちも居たのだ。

(一方、南北朝の頃の江戸氏は、南朝側にも北朝側にも見られ、分裂しながら各々が続いたと見られる。この傾向はこの時代のどの武家にも多く見られる(^_^;))

北朝側についた江戸重村は、浅草流と目され、武蔵野合戦(1352年)でも尊氏方に参陣。泰重なる人物が戦死している。
重村は、当時の鎌倉御所であった足利千寿王入間川御陣(1353年~)を警固したようだ。

その3年後の文和4年(正平10年=1355年)の京都「東寺合戦」でも、江戸高良遠江守)と、その甥の冬長(下野守)、修理亮が油小路で奮戦したとされ、江戸氏もようやく足利政権の軌道に即した働きが見られるようになる(^_^A)

ところが、延文2年(正平12年=1357年)、江戸淡路守高重(江戸長門の子)が鶴岡八幡宮より豊島郡小具郷を押領したと訴えられている。

さらに江戸氏にとって重要と思われる出来事は、この後の延文3年(正平13年=1358年)に起きる。

武蔵野合戦の頃から、関東の執事(関東管領)として、足利尊氏に寄越された畠山国清は、前回までに述べて来た通り、河越氏など武蔵平一揆を配下として使いながら、足利義詮入間川御陣に君臨させ、その守備体制を敷いた。

武蔵野合戦の一連の流れで、足利尊氏方は、北条+南朝+直義方の連合軍に勝利し、北条時行などは捉えられ処刑されたものの、新田義貞の残党はその後もしばらく各地に潜伏していた。

そのうちの一人、義貞の次男・新田義興は、延文3年(正平13年=1358年)に足利尊氏が死去すると、時機到来とばかりに鎌倉に攻め込んだ。


これに対して足利方では、畠山国清足利基氏の下で迎撃の指揮を執った。
命じられ、新田義興の退治に出たのが、竹沢右京亮江戸高良・冬長などで、義興に美女を与えたりなどの策謀の果て、多摩川矢口謀殺したという。

この功により、竹沢氏や江戸氏は、足利基氏畠山国清に認められ、数カ所に恩賞地を得たのだが、江戸高良は、その恩賞地に向かう途中、義興を殺した矢口渡を通った際、落雷に遭って落馬し、狂死したという。

これが新田義興の怨霊の祟りと言われ、義興は「新田大明神」として祀られ(義興を騙すために利用された美女・少将局も殺され、こちらは「女塚神社」に祀られた)、江戸時代にはこの題材で「神霊矢口渡」なる人形浄瑠璃も上演されている。

又、この新田義興の謀殺に、蒲田氏が名を連ねてるそうだ。
この蒲田氏は江戸氏の分家筋と見られ、「12代・江戸長門の次男・正長から出た」という事で、この家は確かに新田義興の謀殺事件のちょっと前あたりから見られ、後の戦国時代以降、江戸氏と同等以上に勢力を持つ氏族となる。殆ど独立勢力と言える。

江戸氏はこの新田義興殺しの一件で、世間から「きたなき男のふるまい」とつまはじきされ、人望も勢力も失ったと言われ、これ以降、あまり評判の良い家として印象されてないんだとか……(^_^;)。

ただし、そういう印象は当時だけのものか、江戸期に改めて掘り起こされ演劇化されて定着したものではないか、という疑いは持ってた方がいいかもしれない。
つい10~20年前までの東京における中世史は、わりと江戸期の伝承に頼った部分が濃かったイメージが個人的にはある(^_^;)。

私見になるが、史跡巡り伝承巡りをしていると、平将門に関わる伝説と、南朝伝説の地が重なる現象によく出くわす(^_^;)。
その理由については、自論的に様々思う所があるが、このブログのテーマから外れるので今回は省く。

ただ江戸氏については、平将門の慰霊を怠ったかのように伝わっている事と、この新田氏の祟りで死去した伝説が、イメージ的に重なって江戸期に流布されてなかったかを疑っている(^_^;)。

康安元年(正平16年=1361年)、江戸氏らを用いていた畠山国清が失脚する。
畠山氏の被官だった江戸修理亮が捕えられ、龍口で斬られている。

そして応安元年(1368年)の武蔵平一揆では、一族の牛島氏と挙兵して敗れ、江戸氏は領地を減らした。
浅草流の江戸房重は乱後、何らかの忠勤を認められる書状も残っており、多少は戻したかもしれないが、概ね江戸氏は没落
あるいは他の庶流の台頭によって、惣領家の所領が縮小したとも考えられる。

 

至徳元年(1384年)には、江戸遠江守が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が、岩松直国の物となったのを、遠江守の子孫とみられる江戸氏を称する者などが、渋口郷の引き渡しを妨害したという。

この先、上杉禅秀の乱を迎えるので、そこは次回に譲って、その後に飛ぶと……。

太田道灌江戸城を築城したのは、長禄元年(1457年)頃と伝わる。
江戸氏はその頃は、とっくにその辺りから居なくなっていたと見られ、道灌の江戸築城にその名は一切出て来ない。

江戸重広の頃(と言われてもいつの時代か判らないけど(^_^;))、世田谷の木田見喜多見)に移ったとも、その「木田見」流自体が江戸氏の庶流で、江戸氏の系譜を継承したのだとも言われている。

いずれにせよ、この木田見・江戸氏は、世田谷城主の吉良氏の家臣になっており、江戸時代初頭には、世田谷区あたりに居た事は前述の通りである。

辿った過程は、古河公方に仕えた後、古河公方の勢力を吸収する形で発展した後北条氏にも仕え、後北条氏豊臣秀吉によって小田原に滅ぶと、主君・吉良氏の世田谷城も開城したが、代わって江戸に入府した徳川家康に仕えた(このパターンは関東に大変多い(^_^;))。

だから最終的に世田谷の喜多見に所領安堵は、徳川家による沙汰である。
この時、「江戸氏」から「喜多見氏」に姓を改めた。


喜多見氏の名は、九戸政実の乱、関ヶ原合戦大坂の陣にも顕れ、元和元年(1615年)に近江国郡代。翌年(1616年)堺奉行。茶人も輩出し、徳川五代綱吉の寵臣となって、天和3年(1683年)には旗本から譜代大名に出世。2万石の喜多見藩を持つまでに上り詰め、築城費を綱吉から与えられ、貞享2年(1685年)には綱吉の側用人となる。

が、城の落成を待たず、元禄2年(1689年)突然改易され、断絶した。
改易の理由は不明で、表向きは一族の中に近親同志で刃傷沙汰があったとされている。
が、将軍綱吉の生類憐みの令に苦言を呈し、綱吉の怒りを買っての失脚を指摘する説もあるという。
ただ子孫は松前藩に仕え、家名は続いた。

このように、江戸氏は早くも鎌倉末には没落し、土地に永らえられぬほど衰退したのに、後北条氏の戦国時代まで何とか生き残り、江戸期も続いた。
戦国時代を待たずに滅亡し、江戸期に名の知れた子孫らしきとの繋がりすら不明になってしまう豊島氏との大きな違いと言える。

その一方で、突然の改易を、刃傷沙汰を起こした身内の不肖を問われたかのように伝えられ、平将門新田義興の伝説で、問題があったかのようにイメージされる。

こうして、いつのまにか豊島氏と江戸氏は、光と影を交互に描く関係となりながら、関東史に溶かされ、後北条氏に、徳川氏にと、土地主の座を譲っていったように思う。

<つづく>

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」

8ヶ月以上も経ってしまった(^_^;)。
確定申告は4月には終わったが、残務片付けなどで5月が瞬く間に過ぎ(笑)、半年ぶりにここを開いて見た所……、
何を書こうとしていたか、すっかり忘れた

そいで、時間を作って、今まで書いたのを読み返そうとしたが、まとまった時間が取れず、又、前の集中力を取り戻す体力も減ってしまった気がする(笑)。

ただ、前回の最後の方で、鎌倉公方の初代・基氏が京から鎌倉に下向する所で、

が、実はそれまで鎌倉には、基氏の兄・義詮(千寿王)がいて、この義詮を「初代」に充てるべき、とする学説もある。
(次回、この「初代・義詮(千寿王)」の頃の鎌倉についても、ちょっと振り返れれば、と思う。今回は、ひとまず「上杉氏」に関わる話を優先する(^_^;))

↑と書いてあるのを読んだら、ウッスラと書こうとしてた一端を思い出したので、まずは、ここから取り掛かろう。(ナントいい加減な(^_^;))

義詮が居たと言っても、その当時の鎌倉は多分に戦闘や動乱の狭間にあったと思う。
特に前々回、縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」に述べた「中先代の乱」も起これば、後醍醐帝の命を受けた足利討伐隊の新田氏なども襲来する。

勿論、義詮(千寿王)自身は護衛の兵に囲まれて、命に別状をきたす程の目に遭い続けたわけではないかもしれないが、平穏の内に雅な生活を送った、といえる余裕があったとも思えない。

脱線しない内に、本筋の豊島氏に目を転じよう(笑)。
武蔵国に居する豊島氏・江戸氏など秩父平氏らは、これまでに書いて来た通り、惣領格河越氏畠山氏といった、武蔵北部に地盤する勢力の骨子を抜かれてしまった。
それゆえ、鎌倉時代を通して武蔵に勢力を進出させてきた前北条氏に、多くの影響を受けていたと思う。

だから豊島氏に南朝ゆかりの伝承(史実の信憑性はどうあれ)がつきまとうのも、北条残党となって暴れた北条時行に、親和的な要素があったからではないかと、個人的には合点してる。

こうした秩父平氏を中心とした人々が、前回の最後に言った「武蔵野合戦」には、今度は「一揆」を組んで姿を顕わし、南朝+北条残党の側を離れ、足利尊氏の陣に加わっている事が確認できる。

……ちょっと遡って確認させて貰うと(^_^;)ゞ。

観応元年(1350)、尊氏直義兄弟の不和から「観応の擾乱」が勃発している。
関東における直接的な衝突としては、正平6年/観応2年(1351年)の「薩埵峠の戦い」なんかは注目すべきだろう。
この戦いで尊氏・直義の兄弟対決は、尊氏の勝利と決し、直義は囚われの身となり、翌年2月に死去(尊氏方による暗殺とも言われる)。

こうした幕府勢力の分裂を好機と捉え、新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治は、正平七年(1352)10万余騎と称する兵を挙げた。
これが先ほど述べた「武蔵野合戦」で、尊氏が、これを迎え撃つために鎌倉を出立した陣に、豊島氏からも参加があったとされる(豊島弾正左衛門と言うが、系譜のどこに入るかは不明(^_^;))。


このように、足利氏自体、内部分裂を深めて来ていた。
高師直×足利直義の対立図が、足利尊氏×直義となって引き継がれ、直義死後は、直義派に属した外戚上杉氏が引き継いで、この「武蔵野合戦」では、ついに、足利尊氏×上杉憲顕(尊氏の母方の従兄弟同志)の対決となった。

ここまで前回のおさらい(^^ゞ。

さて、この辺りから、平一揆に与して足利陣営に加わっていった豊島氏は、この先は安泰だったかと言うと……そこはどうだろう(^_^;)。。

これはあくまでも私見だが……。

今回、7か月の間を空けて、しみじみと読み返し、前より強く思いを深めたのは、どうも、この辺りが、豊島氏が本流から外れていった分岐点じゃないかな、と(^_^;)。

最初に話した「平将門の乱」や「平忠常の乱」では、同族の叛乱に加わらなかったと見えて、その後は武蔵国総検校職世襲で勤める程の家格に上って行った。

鎌倉時代も、前北条氏の企ての前に、惣領格の畠山氏や河越氏が潰されていったものの、豊島氏は恐らく、お行儀よく前北条氏の覚え目出度い位置に居たようだ。
だから、千葉や佐竹のような大勢力を築く事も無い上、時にしくじりさえあっても、武蔵国時の政権の覚え目出度い古族として、基盤が大きく揺らぐことは無かった。

鎌倉末~南北朝の動乱期は、最初から足利方に就く事はなかったが、それは前北条を鎌倉に討つにあたって、新田義貞の南下に加わったからであって、この時点で足利氏に敵対したわけではない。

足利尊氏も、これらの新田追従組が行きがかりで敵味方となった事に理解を示していたと見え、北朝&足利の傘下に下れば、そう厳しい処置を取らぬ姿勢に思える。

……と言っても、尊氏の寛容姿勢は、特に豊島氏や秩父平氏らに対して取られた、というほどの意味はない。

足利尊氏は、広く一般的に、敵対した者達に厳しい処置を取ってない。
勢力関係が複雑な動乱時代に頂点に立つため、多くの妥協が必要だったからだろう。

南朝勢力に与しながらも、だんだん北朝&足利尊氏に下っていった者達は、大抵が大きなお咎め無しで、お家を維持したケースが少なくない。

しかしこの時、豊島氏を含む平一揆が、北朝足利尊氏に取るべきツテとしたのが、高重茂の催促に応じて、であった。

この高重茂は、あの高師直の弟と言われる。
師直が評判が悪いから、師冬に従う者が多くなかったというから、重茂も同様に見られていた可能性はある(^_^;)。

それでも、この「武蔵野合戦」で、初めは尊氏の劣勢となったのが、豊島氏なども加わった後は南朝勢力を押し返した。
長く暴れた、北条時行も、正平八年(1353)敗れて捕えられ、ついに鎌倉で斬られたのである。

その後、9年もの間、鎌倉公方初代・基氏(尊氏の子)は鎌倉ではなく、武蔵国入間川に陣し、「入間川御陣」と呼ばれる期間を経る。

まだ南朝の残党ことごとくを片付けきってはいないから、と言われている。

一方で尊氏は、弟・直義の残した観応の擾乱以来の勢力と影響を消すため、上杉憲顕追放して、代わりに畠山国清関東管領の座に就けた。

ここでも豊島氏と平一揆は、この畠山国清を支持し、その後も従ったようだ。
高重茂といい、畠山国清といい、将軍・足利尊氏から送られて来た者たちだから、尊氏に従うに日の浅い平一揆(や豊島氏)にとって、これらに従う事は当然と思えたからだろう。

私の見た所、この時、平一揆(河越氏を中心とする)などに近い路線に見えるのが、下野国宇都宮氏かと(^^ゞ。
この宇都宮氏の当主・高綱は、はじめ北条氏に従って楠木正成を討伐していたが、新田義貞が鎌倉を落とすと、後醍醐天皇に従い、以後、新田義貞と共に長く南朝に属した。

これに対し、高綱の子・氏綱は、この父と袂を分かち、足利方に就いた。
尊氏と直義の対立(観応の擾乱)においても、尊氏に与した。

これもやはり、後から尊氏に従ったので、尊氏派の畠山国清と直義派の上杉憲顕の対抗軸では、尊氏の打ち出した畠山国清主導(薩田山体制などと呼ばれる)に重きを置いて身を処したように思われる。

ただ、この畠山国清が、これまた東武士らのお眼鏡に適わない(^_^;)。
尊氏には逆らわないが、尊氏が配するナンバーツーには、高師直であれ師冬であれ重茂であれ、おいそれと従わない。
同じように、目付のように置いて行った畠山国清にも同じ態度だったんじゃないかな、と思える。

畠山国清と言えば、元は足利氏と出を同じくする、いわば連枝のお家柄である。
昔、武蔵北部にいた、あの畠山重忠の畠山ではなく、重忠の未亡人となった北条政子の妹が、足利氏に嫁いで再興した苗字である(^_^;)。

つまり足利一門に列する家柄と言ってよいから、足利氏の根本家来に過ぎない高師直高氏とはワケが違う(^_^;)。

そんな畠山国清が、最終的に鎌倉を追われる事となったのは、その直前に起きた政治的な対立劇や、京に行った幕府との難しい連絡など、直接的には関東武士の心象に関わりがあるとばかりは言い切れない出来事の延長線上にある。

また、畠山国清の行動が原因で、京に危険が及んだのも事実だ。
あげく、彼が身の危険を感じて知行する伊豆国に籠もったものの、地元の協力を得られず、最後は基氏に投降した挙句、晩年の記録が残らない。

ただこれらを、畠山国清にその程度の器量しか無かったから、とだけは思わない。

というのも、彼を罷免する要求が、直義派の武士達から出て来た事を見過ごせないからだ。

この後ずっと長く関東管領として戦国期の末に至るまで君臨する上杉氏ならば、同じ立場に至った場合、命懸けで助けてくれる関東武士がいっぱい居ただろうとも思うからだ。

上杉氏は足利尊氏・直義の母方外戚であるから、鎌倉的な伝統感から言うと、初代将軍の正室にして二代・三代将軍の母である北条政子北条氏を代々執権とした点と合致する。

しかし、「だから上杉氏なのだ」という理屈は、代々の関東管領職を上杉氏が勤めるようになった後に定着した意識と言えよう。

なぜなら、片や足利氏と出自を共にする畠山氏である。
足利兄弟の母方外戚の上杉氏と、家格の点で大きな違いがあるだろうか(^_^;)。

一方で、以下の見解もしばしば見る。

関東における観応の擾乱との関わりと言うと、わりとよく持ち出されるのが、関東武士の間で、直義への親和性が高かった点が言われる。

足利直義は、鎌倉に北条氏が滅んだ直後、後醍醐天皇の勅命によって、成良親王を奉じて鎌倉に下っており、自身は執権として鎌倉を守っていた。
その折、関東の武士たちと深い信頼関係を築いていた事から、あたかも「関東=直義派」のごとく書かれる文章も散見する。

その直義に味方し、死後も尚、その遺志を継いだかの如くが上杉氏だったから、上杉氏が特別視された……。

「わかりやすさ」に主眼を置けば、それも悪くないが、殊、豊島氏のいる武蔵国に焦点を当てると、それでは納得しにくくなる(^_^;)。

多くの関東武士が、高師直・師冬・重茂・畠山国清に反抗的だったのは、足利直義上杉憲顕を慕ってたからと言うより、恐らく、足利尊氏の寄越す者に従いたくなかったのではなかろうか。

では、足利尊氏を認めないのか、尊氏への反抗かと言えば、それも違うだろう。

心の奥底にうずもれる鎌倉武士の気持は、京の朝廷や幕府の思惑と全く違う、一つのベースを持っていたように思えてならない。

なぜ「鎌倉殿」なのに、尊氏は鎌倉に居ない
この思いが、鎌倉を誇りに命懸けで戦って来た鎌倉武士には、取ってつけたように、高氏だの畠山氏だの「尊氏の代わり」を寄越し押し付ける幕府の遣り方そのものが気に食わない。

それでも、尊氏の嫡子にして、足利氏の惣領後継なる義詮が鎌倉に居た時はまだいい。
これが京に召され、代わりにその弟・基氏が鎌倉に寄越される。

これは、何の事はない。
ハッキリと鎌倉が京の下に置かれた事に他ならない。

鎌倉公方・初代、基氏には、こういう関東武士らの不満がよく理解できていたのだろう。
父・尊氏が他界したと見るや、畠山国清を座から追い落とし、跡に上杉憲顕を迎え直して、関東管領を引き受けるよう要請する(^_^;)。

以上。
今回は、サブタイトルにも書いた通り、関東管領が上杉氏でないとダメだった理由を書いてみた。

こうした受け取りの中で、あくまでも畠山国清に従い、国清が謀叛に至る行動を取った時も、その手勢・支力に「武蔵平一揆(河越氏)」は居た。
尊氏の寄越した管領に忠義立てし、共に鎌倉諸勢を相手に戦った事が伺える。

だから、康安元年(1361)畠山が基氏に叛いて兵を挙げ、翌年降参した時も、そこに「豊島因幡守」の名が見えている。
例によって系譜との比定は不明だが(^_^;)、この時期の豊島氏の当主の可能性が強いのではなかろうか。

同年、畠山国清は失脚する。
一揆は、鎌倉公方・基氏について国清の討伐に加わった。
しかし平一揆は行きがかり上、関東管領上杉憲顕と対立し、鎌倉公方にとっても脅威と映ったため、応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を起こし、敗退の上、崩壊。
所領地は、関東管領・上杉氏に没収された。

この時の豊島氏への処置がどうであったかは判らないが、30年以上も後になって、所領地が戻されたようなので、連座とされたんだろうと思う。

畠山国清に従った勢力は、どうも主だった所では、この武蔵平一揆しか聞かないので、関東では孤立していたと見るべきだろう。

同じような立場に見える宇都宮氏というのも、実は地盤的に、上杉氏と相容れない関係にあり(^_^;)、こちらは対立に至る背景が浮き立って感じられる。

一揆も宇都宮氏も、元はと言えば、南朝勢力たる新田氏の残党と直面しやすい土地に居たとは言える。
だから、常陸陸奥あたりで南朝相手に戦った面々が、高師冬を遣わされて協調したがらなかった事とは、ちょっと事情も違う。

しかし例えば常陸北部を領する佐竹氏などは、動乱期を迎える以前より、一族に尊氏と懇意な者が出ており、意を通じやすい立場と見れなくもない。

比べて、南朝や北条残党との関係が見え隠れする秩父平氏たちは、尊氏やその側近とのツテが乏しかったためか、代官的に寄越された管領に忠義立てし、次の場面では、これを打つ側に廻らされ、あげく乱を起こすに追い込まれ、崩壊した。

こうして豊島氏の武蔵北部(埼玉県)の同族は、畠山に続いて河越も潰えた。
しかし、その分逆に、戦国期に見る豊島氏の輪郭が見えて来た感じがするのである。

……本日の所は、ちょいと準備体操みたいな感じだったかな(^^ゞ。

<つづく>

新型コロナウィルス・メニュー一覧(2020年版)

ええと、11月末頃から、自サイト更新作業のため、豊島氏についての連載を中止してました。
更新の方は、12月には終わったんですが、引き続いて、確定申告の作業に追われているので(^_^;)、休止続行してます。

今回は、そろそろツイッターのプロフィール(ツイフィール)の文字制限が……実はまだまだあるんですが(笑)、全体の半分を超えて来たので、年明けを期して、こちらに移しておこうと思いました。

移す事にしているのは、そこを利用してメニューを出していた「モーメント」の各URLです。

「ツイフィール」は千文字まで可なので、ツイッター側にも、今回こちらに移したメニューも一年スッカリ経過するまで残そうと思いますが、やがてツイフィール側は、順々に消していく手筈です(^_^;)ゞ
(代わりにこのブログのURLを貼っときます)

現状で、「モーメント」使用は、殆どが「新型コロナウィルス」に関する物で、最初は純粋にコロナのネタだけでしたが、政治との関わりが無視できないので、政治ネタ比重ものすごく多いです。

次に「モーメント」に利用しだしたのが、このブログで取り上げてる「としまえん」関連でして、ブログでは歴史ネタどっぷりですが(笑)、元は跡地問題に端を発していた事は、以前こちらのブログでも触れた通りです。

時々やる歴史ネタ関連ツイも、「としまえん」にくっつけて編集してます。

あと、表紙に使ってる写真は、以前旅行で行った時に撮った物で、コロナ以後は全く遠出が出来ないので、「せめて気分だけでも(^^ゞ」と表紙に使ってます。
ツイッターでの反応を見る限り、どうも、この写真の方がウケてる事を強く実感します(笑)。

以上。
このブログって、ツイッター以外から集客してる様子ほとんど無いような気がするので(そうしっかりチェックしてるわけでもありませんが(^_^;))、「わかってるよね(^。^)?」みたいな書き方だったらスイマセン(笑)。

<モーメント>(2020年~)

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この後も「モーメント」は続いてますが、2021年以降のは、又、来年にでも、こちらに移そうと思います。

横糸-1「室町初期・上杉氏の事(観応の擾乱と武蔵野合戦)」

こちらを書いてる合間に、自サイトも更新してます(^_^;)。
当分、そちらの作業が続くのと、そろそろ確定申告に向けて本業も加熱するので、こちらは間が空く事が増えると思います。

さて前回は、ちょうど「観応の擾乱」に入った所までだった φ(。。)m
今回は、初の「横糸」編として、豊島氏の終焉に関わって来る点について、この観応の擾乱の前後をスライスして見てみたい。

それと、今回から「室町期」に入る。

……実は、「南北朝時代」と「室町時代」は、その始まりは同じ建武3年(1336年)なんだけどね(^_^;)。

本当に時代を分けるなら、鎌倉・南北朝・室町、とするのは誤りで、
鎌倉時代(~1333年)」「建武時代(1333~37年)」「室町時代(1336年~)」
の三区分にすべきかなーと個人的には思う(^_^;)。

と言うのも、鎌倉幕府の終わりは、新田&足利による、京と鎌倉の討幕(北条氏の滅亡)のあった、元弘3年(1333年)だろう。
が、北朝はこの瞬間から登場するわけではない(^_^;)。

足利尊氏後醍醐天皇の討伐勢力に敗れて九州に逃げ延び、再び畿内まで押し戻し、持明院統から上皇天皇を擁して、「北朝」が成立(室町幕府が開始)するのが建武3年(1336年)である。

じゃ「室町時代」でいいじゃないか。なぜ「南北朝時代」という呼称が必要か……。

水戸史学や戦前戦後の史観の話は、今は置いときます( ^^)//<長くなるから
あくまでも、現代における使用について……。

一つには、鎌倉幕府が滅んだ元弘3年(1333年)から、北朝が成立する建武3年(1336年)までの3年間を、「鎌倉末」と呼ぶには、歴史学的に「鎌倉幕府は無い」時期なので、この三年を、その後の時代に含めて話す都合上、という感じがする(^_^;)。

二つ目には、「南北朝時代」の正式な終わりは、元中9年/明徳3年(1392年)の「南北合一」である。
そこまでの動乱時代を、特に指す意味合いからかと(^^ゞ。

でも実際には、そこを待たずに「室町時代」として記述されるケースが殆どに思う(^_^;)。
「だって、もう、室町時代はじまっちゃってるしっ(≧▽≦)!」

一方の南朝側も、南北合一の後も「後南朝」と呼ぶ経過を辿るため、ここで終えてしまえるものではない(^_^;)。

だから大抵の歴史の本は、後醍醐天皇の死去(1339年)あたりで区切りをつけ、その後の南朝の話は地域史に振り分け、全国史は「室町時代」の仕切りで語り始める感がある(^_^;)。

前置きが長くなった(^_^;)。

さて、前回書いた通り、観応の擾乱の12年も前から、関東では高師直高一族に対する反発感情が強かった。

実は、同じような事情が、当事者である足利尊氏(兄)・足利直義(弟)・高師直(執事)の三者にも長く続いていた。

観応の擾乱」は、正平5年/観応元年(1350年)に始まる、と年表には記されるが、その確執は、北畠親房常陸合戦が始まった、同じく12年前の、延元3年/暦応元年(1338年)には、この三者においても始まっていた(^_^;)。

豊島氏のいる武蔵国に関連する所に先に触れると、この三者の軋轢への一番強い影響関係に、上杉氏がいる、という事を強調したい。

この「上杉氏」こそが、やがて関東に強い影響力を持ち、豊島氏の終焉にも、強く深く関わるからである。

足利尊氏・直義の母・清子上杉氏の出身であり、清子の兄弟(すなわち尊氏らの伯父)に、重顕扇谷の祖)・憲房山内・犬懸の祖)がいる。

系図↓(例によって左から右→に見ます)

┌上杉重顕(扇谷の祖)
├上杉憲房┬=重能(養子・父・勧修寺道宏)
清子  ├憲藤(犬懸)
 |   └憲顕(山内)
 ├--┬尊氏-┬直冬
 |   └直義 ├義詮(母・北条守時の妹)
 |      └基氏(    〃   )
足利貞氏-高義(母・北条顕時の娘)

清子の前にも、上杉氏から足利氏に嫁入りした例はある。
また、上杉氏は元は藤原氏の出であるから、出自としては関東武士らより余程高い。
鎌倉幕府の六代将軍・宗尊親王が鎌倉へ下向の折、側近として付き従って来たのが、関東における上杉氏の始まりである)

が、鎌倉の武家社会においては、執権・北条氏の権威が何より優先される(^_^;)。
そのため、足利氏では代々、正室は北条氏から娶った。北条氏との縁談より前に妻帯してた場合は、先妻を離縁してまで、北条氏から正室を迎えた。

そんな事情もあって、↓下の系図を見ても、足利氏では、先に生れた男子が次々と独立して支流に出されたとおぼしき系図が続き、やっと最後に「足利」を名乗る家が出て来る事になる↓

源義家┬義親┬為義-義朝-頼朝┬頼家-┬公曉
   |  └義賢(木曽)  └実朝 └藤原頼経
   └義国┬義重┬義範(山名)
      |  ├義俊(里見)
      |  ├義兼(新田)-義房-政義-政氏-基氏-時氏-義貞┬義顕
      |  └義季(得川)                  ├義興
      └義康┬義清(仁木・細川)               └義宗
         └義兼┬義純(畠山)
            └義氏┬長氏(吉良・今川)
               └泰氏┬家氏(斯波)
                  ├義顕(渋川)
                  ├頼茂(石塔)
                  ├公深(一色)
                  └頼氏(足利)-家時-貞氏┬尊氏-┬直冬
                               └直義  ├義詮
                                   └基氏

一方、同じく「義国」から分枝した「新田」の方は、足利との著しい違いと指摘される通り、鎌倉幕府にも北条にも縁遠く鎌倉時代を経た(^_^;)。

それゆえ鎌倉末までに、両家の間には、幕府から受けた恩恵面で、かなりの差が生じて、足利氏の威勢は強まり、新田氏は、その下勢に甘んじる具合になった。
その両者が、南北朝の各々違う天を上に仰いで抗争しあう事となったのだ。

話は上杉氏に戻る。

尊氏の父・貞氏もやはり北条氏から正室を得たが、正室の生んだ男子が早くに亡くなったので、側室だった上杉清子の生んだ尊氏家督を継いだ。

しかし、そもそも母が北条の出でなければ庶流扱いを受ける時代だったから、尊氏や直義は、母方の上杉氏の庇護があって、鎌倉末までやってこられた。

鎌倉末の挙兵後も、特に清子の兄・憲房の功績は大きい。
そもそも尊氏が討幕行動に踏み切ったのも、この伯父の勧めに従ったから、とも言われている。
尊氏が朝敵認定を受け、京で北畠顕家新田義貞に敗れて九州に落ちた建武3年/延元元年(1336年)、尊氏を逃がすため、この憲房が身代わりに討死している。

憲房の子の内、憲藤も、尊氏の子・義詮の執事として鎌倉に残ったが、建武5年/延元3年(1338年)、尊氏に従って上洛し、摂津国北畠顕家との戦いで戦死した。
(子・朝宗、孫・氏憲は、後に「犬懸上杉氏」として頭角を顕わす)

今言った二人は、忘れてしまっても構わないが、同じく憲房の子で、憲顕は、この後もわりと出て来るので、覚えておいて貰えると助かる。

一方の高師直の高一族は、足利氏の執事格の家柄で、跡継ぎが尊氏であろうと無かろうと、足利氏内部において、気後れしないだけの立場があった。

当主の尊氏さえ色々と気苦労して動かす采配も、師直の一声で大勢が決してしまう局面もあったようで(^_^;)、師直と直義が戦いあった時などは、直義が負けて尊氏の館に逃げ込んでも、師直が尊氏ごと館を軍勢で取り巻いて、主君の尊氏の命すら危険に晒して憚らない事すらあった(汗)。。

主だった人物に、師直の兄弟・師泰重茂、従兄弟・師冬などがいる。
(他、宿敵になった上杉氏だが、先に戦死した憲房の娘は、この師泰に嫁いでいる)

延元3年/暦応元年(1338年)、上杉氏が政権から排除され、その地位を高師直やその一族が代わった事から、上杉氏高一族の間に抗争の根が起きた。
こんな中、尊氏の弟・直義は上杉氏の肩を持ち、上杉も終始、直義派として登場する。

前回も書いた、高師直の従兄弟・師冬が、北畠親房常陸合戦において指揮官となったのもこの年で、それまで関東執事だった尊氏らの従兄弟・憲顕(憲房の子)を交替させる強引な成り行きなどは、高一族の鼻息をあらわす事例の一つと言えよう(^_^;)。

直義と高師直が、ケンケンゴーゴー揉めて大乱闘を繰り広げる同じ頃、関東で北畠親房南朝扶植運動が展開されながら、多くの関東武家がスルーでいたのが、高師冬が司令官だったから、と書いたのには、こんな要素もある(^_^;)。

ただ、観応の擾乱の観応元年(1350年)より前は、あくまで足利直義高師直の間の抗争だったのが、この年から、いよいよ足利尊氏直義の間の、兄弟間闘争へと踏み込んだ、という違いはある。

この観応の擾乱の始まる前年、すなわち、正平4年/貞和5年(1349年)、鎌倉には尊氏の次男・基氏がやってくる。
これが「鎌倉公方」の「初代」とカウントされる初例だ。

が、実はそれまで鎌倉には、基氏の兄・義詮(千寿王)がいて、この義詮を「初代」に充てるべき、とする学説もある。
(次回、この「初代・義詮(千寿王)」の頃の鎌倉についても、ちょっと振り返れれば、と思う。今回は、ひとまず「上杉氏」に関わる話を優先する(^_^;))

鎌倉公方が、この設立以後、必ず「関東管領」とセットで存在するようになるのは、この時の基氏が9歳とまだ幼く、その補佐を必要とした経過が始まりである。

この関東管領は当初、二人体制を取ったとされる。
一人は先に言った、尊氏の従兄弟・上杉憲顕、もう一人は、高一族から師冬重茂が交互に出て勤めた。

……とされるが、鎌倉府設立の翌年には、観応の擾乱に突入している(^_^;)。
恐らく二人体制の実態は、高師直派と足利直義派から、互いに向こうを張ってねじ込んだ結果「二人が並び立ってしまった」と見るべきだろう(汗)。

というのも、この基氏の鎌倉下向の年、さっきも述べた、高師直らの軍に敗戦して逃げ込んだ直義を、師直らが尊氏の居館ごと取り囲む事件が起き(^_^;)、結局、直義が失脚して政界を去るに乗じ、上杉憲房の子の一人、重能は流刑の後、命を奪われてしまう。

この経過の果て、上杉憲顕高師冬が二人で仲良く関東管領を勤める……なんて事になるハズがない(^^;)。

師冬は、幼い鎌倉公方基氏を、憲顕追討のため鎌倉から連れ出したものの、石塔義房に奪回されてしまう。
師冬は甲斐国山梨県)に逃走するが、憲顕の子・上杉憲将に突き止められ、自害して果てた。

こうして上杉憲顕の座が固まり、関東管領として基氏の補佐を独占する初端を得た。
ところが憲顕の子・能憲が、先に殺された重能の仇として、高師直とその一族を死に追い込む。
これをキッカケに、尊氏と直義の兄弟同志が直接対決する段に及び、観応の擾乱となるのである。

観応の擾乱は、足利直義が死去(毒殺説あり)に至って、正平7年/観応3年(1352年)には終結する。

が、この同年、北朝・足利方がこの分断の最中にある痛手を突いて、南朝勢力が攻勢に出る。
京では北畠親房が、そして関東では新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治が、十万余騎と称する兵を挙げた。

関東における戦いを「武蔵野合戦」と呼び、この南朝・新田軍には、中先代の乱で大暴れした北条時行も加わり、上杉憲顕石塔義房という、元は足利方にいた者も加担しており、ここに観応の擾乱によるモツレが現れ出たのである。

これら新田軍を迎え撃つため、尊氏は鎌倉から出撃しており、この足利勢に豊島氏の名が見える。

尊氏は一度総崩れとなるが、この時、豊島氏は、秩父流の江戸氏河越氏と共に「一揆」を組んでおり、立て直して勝利に導く戦力となっている。

今回はここまでにしとこうかな(^^ゞ。

忙しくなってるのもあって、あまり集中して書けなかったが、この回で書こうとしてた半分も来れたかどうか……。
気の利いた写真の一枚も入れようと思ってたが、結局探す時間がなかったのと、わりと字で埋まっちゃったので、愛想ナシでスイマセン。

この後も頑張りたい(`・ω・)=3<ファイト

<つづく>

縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」

猛烈に多忙モードに入ってしまい、間が空いてるっ(>▽<)。。。

今回も流れ的には、時代に沿って行くが、話の内容的にはジワジワ「横糸」に入って行きたい。

豊島氏は、戦国期の初頭に江古田沼袋の乱太田道灌に敗れ、城攻めにおいても敗れて落城し、行方がわからぬままに歴史から名を消した。

後北条氏にその名乗りの者がいた形跡はうかがえるものの、石神井練馬城の豊島氏との繋がりは不明である。
太田道灌との戦いで滅亡してしまったのかもしれない。

だから、歴史資料館を作るのに、たとえば城郭風のデザインを建築に施すなどの場合は、その後の戦国時代など知らない人々の城、として設計すべきだろう。

では、その城の中に住む人の頭の中は、戦国期以降の人と何が違っていただろう?

前回、述べた通り、鎌倉が新田義貞に落とされても、関東の武士らは誰も「鎌倉幕府が滅んだ」「鎌倉時代が終わった」とは全く思ってない(笑)。

この感覚は、ナント驚くなかれ、豊島氏が歴史から名を消すその時まで継続した。
鎌倉幕府の後も、京の幕府以外に鎌倉府が存在し、その鎌倉府が焼き払われた後も、古河に公方一族は続いたからだ。

学校では、「鎌倉が陥落し、長い動乱の果てに、京に幕府が出来た」という具合に、一度時代を区切って教わった。

が、関東の武士たちは、私達にそう言われても、ピンと来ないに違いない。
彼らは、京の建武新政南北朝の動乱とは全く無関係に、「新田義貞足利尊氏どちらかが、次の鎌倉殿(将軍)になる」と思っていた。

二人が二人とも京の後醍醐天皇の元に行ってしまっても、程なくどっちかが戻って来て、鎌倉時代の再スタートになると思ってた人は多かったハズだ。

現に、足利尊氏は京に行って以降も「鎌倉殿」と呼ばれていたし、新田氏が発給した文書も、あたかも将軍家の発給書の如く存在した(偽書と解釈されて来た物も、近頃では再検討の提言がされている)

足利尊氏が、北条時行中先代の乱)の討伐のため鎌倉に行った流れで、後醍醐天皇に朝敵認定されても、新田義貞は朝廷軍に属してたので、そのままズルズルと新田軍に従った武士たちも少なくなかった。

南北朝時代豊島氏は、鎌倉攻略の元弘3年(1333年)から5年後の、暦応元年(1338年)頃には足利尊氏北朝の側にいた、とする一方、この北条時行やその子孫に同調して、正平7年(1352年)頃まで南朝にいた、とする伝説もあるらしい。

あるいは、同じ豊島氏の中に、南朝に着いた者と、北朝に着いた者がそれぞれいるような状態もあったかもしれない。
同族同志で南北朝に分かれ、各々別行動を取った氏族はとても多い(^_^;)ゞ

北条時行南朝に加担していた説は、現在では信憑性において疑問視されているらしいが、前回も述べた通り、

武蔵国の情勢や豊島氏の立ち位置から見て、
>私的には、北条氏への癒着性は強そうに思う(^_^;)。
>元ソースの史実性が脆弱なんだろうが(これもありがち:笑)、
>江戸期の調査に誤解があるとしたら、その誤解を支える要素はあると思う。

と私は思う。

前々回、縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」で、秩父流一族が、武蔵国北部において抹消されたのは、北条氏に目を付けられたから……と述べた。

そこから、北条への怨みの感情でも持ってそうに想像されたかもしれないが、埼玉県の中世を振り返ると、北条氏の進出によって荒地がドンドン開発され、石高もアップし、むしろ豊かになった事がわかる。

一方、南北朝・室町を経て、戦国期それも豊島氏など滅んだ後になると、後北条・上杉・武田の争奪戦に巻き込まれる。
特に武田氏の侵攻に対する恨みの感情を、土地に色濃く感じる。

そうした「時代の比較」論から、前時代の隆盛が偲ばれて、北条氏を懐かしむ論調になるのかもしれないが、北条氏の影響を受けた土地には、寺が建てられたり学問が広がるなど、文化的にも向上した形跡がうかがわれる。

そこから振り返ると、秩父流よりも、さらに優遇された豊島氏などになると、北条時代への郷愁感は、そこそこあったのではないかと思う。

占領下に置かれた地域が、占領者に反発感情を抱く事もあれば、逆に憧れの感情を持って、その文化に深く馴染む例もあると思う。

北条時行は、北条氏が滅んだ当時は、鎌倉におらず信濃にいたため一命を繋いだが、そこから残党を吸収しながら、この武蔵国まで来て、一時的にせよ連勝していたわけだ。

新田義貞の鎌倉攻めルートにある「女影」「小手指河原」は、北条時行による中先代の乱が、これを迎え撃った鎮圧軍を打ち破った地域と見事に重なる↓

前回も出した、新田義貞の鎌倉攻略ルートf:id:potatun:20201102115916j:plain

建武新政に不満を持った関東の一地域として、元の司令塔筋である北条氏に心通わせる者がいたとしても、そう不思議ではないし、土地に、何らかの互助勢力があったのでは、という見方も必要だろう。
北条時行は、この中先代の乱では足利尊氏に敗退するものの、後に南朝側に認められ、南朝勢力に加担したのも事実だ。

そうした点から、豊島氏に南朝伝承がつくのは、特に不思議と思わない。

この景村伝承を史実に反する、とする理由は、どうも、北条時行中先代の乱から、そう遠からぬ暦応元年(1338年)頃には、豊島景村の甥・朝泰が、すでに北朝に属していた証左に寄るように思われる。

朝泰やその子の宗朝に宛て、足利氏が発した着倒状や感状から、そう判明するようだ。
江戸・葛西・坂東八平氏・武蔵七党らも、尊氏方高重茂の催促に応じたという。

清光┬朝経(豊島)-有経-経泰-泰友┬泰景-朝泰-宗朝
  |               └景村-輝時-景則 
  └清重(葛西)

ただ時行やその子孫と深く関わったとされる豊島景村の存在と事跡に、近頃は信頼性が置かれない、とされる以上、この話はここに留めておく。
同様に、この景村が、足立郡新座郡多摩郡児玉郡に所領をもった、というのも疑っておく事にしよう(^_^;)。

ところで、この暦応元年(1338年・延元3年)は、新田義貞が戦死し、北畠親房陸奥に向かう海路に遭難し、常陸国茨城県)に漂着する年でもある。

新田義貞に従った人々が、どの段階から新田を離れ、足利方勢力に属していったかは、各氏によってマチマチだが、この延元3年(1338年)の前と後では違いがある。

義貞の生前は、北朝&足利方につくタイミングを取り損ねただけかもしれないが、その後、北関東に南朝扶植の努力をした北畠親房に呼応した者達になると、かなり筋金入り南朝と見て良いのではなかろうか。

この人々は、かつては北条氏を、そしてその後は足利氏を相手に戦わないとならない人々だったからだ。

北条氏は表向き、平氏を名乗ったものの、千葉や秩父や葛西などのように、ハッキリした系図を歴史上に確認できる家柄ではない。

北条政子が将軍夫人となり、代々執権となり、その内部から宗家、そのさらに内部から得宗と呼ばれる、究極の実権を握る存在を輩出し続けた。
それは何もかも、幕府将軍があって成り立つものであり、北条氏の掌握した所領地も、幕府を保護し強めるために必要な処置だった。

しかしやがて、幕府のためと言うより執権家のため、執権のためと言いながら、最後は得宗家の御内人なる北条氏の被官たちが、私腹をこやし、権威を私物化するに及んで、御家人たちは不満を溜め、新田義貞足利尊氏のクーデターに勝利をもたらしたのだ。

浸食され、圧迫を受けた人々は、かつての所領・権益を取り戻したいと思った。
奪われ続けたそれらを、やっと取り戻せると思ったら、北条氏の所領地は、後醍醐天皇によって、全て足利氏足利尊氏と、その弟・直義)に与えられてしまった(-_-;)。。

だから、北条氏に土地を取られた武士ほど、先には新田義貞に従って鎌倉を攻め落とし、後には、足利尊氏から取り戻そうと、北畠親房の指導する南朝勢力に属した。

この北畠親房に対して、京の足利尊氏からは、高師直の従兄弟・師冬の軍が差し向けられた。
師冬は鎌倉に着くと、北上して武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に入り、下総国常陸国茨城県)へと順路を取った。

ところが、この師冬に対して、関東じゅうから協力を名乗り出た者が、ビックリするぐらい少ない(^_^;)。

この時点で、既に足利尊氏朝敵ではない北朝側の総大将であるし、室町幕府創始者でもある。
にも関わらず、この非協力的な関東武士たちの態度には、高師直に対する嫌悪感があると言われている。

観応の擾乱」が起こるのは、これより12年も後だが、この時すでに関東では、鎌倉に戻って来ない足利尊氏に代わって、自分達に号令して来る相手を、「高師直やその縁類では嫌」という感情が起きていた。

ここは、鎌倉武士独特の感覚が関わる点であり特に武蔵国豊島氏を含めた豪族たちの、この後の展開に響く点でもあるので、よく留意したい。

栃木県鑁阿寺(足利邸跡)足利尊氏
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(↑北畠顕家は、北畠親房の長男で、後醍醐天皇の命令で、建武新政の実行のため陸奥入りしたが、足利尊氏との抗争の経過で戦死し、これを受けて父・親房陸奥を目指して遭難し、常陸入りとなった)

今回、上に述べて来た通り、先に滅んだ北条氏には良い施策面もあった一方、末期には、御内人なる北条氏の被官が、御家人らにあれこれ指図するほど増長した。

これがとんでもなく評判が悪かったから、同じ構図が、これより仰ぐべき足利氏にあったら、関東の武士たちが再び反感を持つのは当然だろう。
まさに高師直と、その一族・高氏は、そういう存在に見られた。

大の足利贔屓だった佐竹氏でさえ、北畠親房の攻略する同じ常陸国にいながら、神宮寺城・阿波崎城までは、積極的に出ていたのが、高師冬が来た途端、動きが止まり、駒城・小田城・関城・大宝城では、完全スルーになってしまう(・・;)。。

もっとヒドイのは下野国(栃木県)の小山氏で、北畠親房の攻略の間じゅう、その目の前という距離にいて、何度も親房に援軍を要請されたが、最初から最後まで曖昧な態度を繰り返した。

この北畠親房の、いわゆる「常陸合戦」は、このようにエンエンと大勢力が無視する狭間で、康永2年(1343年)まで、ナント5年もの歳月を費やして、何とかかんとか北畠親房を関東から追い払った(^_^;)。

そして、観応元年(1350)、「観応の擾乱」が勃発。
足利尊氏と、その弟・直義との間の対立であるが、先に触れた通り、元は、尊氏の執事・高師直と、直義を代表とする武士(元・御家人)達の間の摩擦が原因と言える。

長くなったんで、続きはまた次回! 次は室町時代に入りたい(^。^)

<つづく>

※ええと、次一回で終わらせるのは無理かと思います(^_^;)。
今回の話も鎌倉時代を書いた時と同様、一回で済ませるハズが二回に渡ったので、以前お断りした「13連載」は、取り合えず「14連載」に引き延ばしておくです、はい。
そこから連想すると、次の話かその次の話も、同様に二回に分ける回が出て来る気もしてます、はい(^_^;)。

縦糸-5「鎌倉末~南北朝期・新田義貞の鎌倉攻略」

今回は、鎌倉時代から南北朝時代まで行きたい(`・ω・)=3

豊島朝経の子の時光は、禁を破って土地を賭けた博打をし、幕府からとがめを受け、仁治2年(1241年)に所領の豊島郡犬喰名を没収されたようである。

この「時光」は系譜に見えないようだが、別名同人か庶子か誤記かはわからない(^_^;)。

問題の賭博事件だが……。
一見すると、「賭博」行為が不謹慎(武士が賭け事などけしからん!)と見なされたように感じがちだが、問題があるのは「土地」の方で(^_^;)、これの権利移動鎌倉幕府は強く禁じた。

理由は、鎌倉幕府が、未だ全国の武士を束ねる程の大きい組織でなかった点にある。
承久の乱(1221年)で、朝廷勢力を武力で完膚なきまでに叩きのめした鎌倉政府ではあったが、京の朝廷や公家の政治を否定するような規模も意識も、幕府を担う将軍や執権(北条氏)にはまだ無く、武士の身分は、まだまだ低いものであった。

だから、「これこれの土地は幕府に仕える御家人の物だが、それ以外は別」と、クッキリ区別をした。
これが、「御家人」と「御家人」なる、鎌倉時代独特の言葉を生む。

元は、鎌倉幕府が、特に朝廷の抱える公家の持ち分(本家領家などとも言います)との摩擦を避けたかったから、と言われている。

が、幕府は、所領安堵のみならず、御家人同志の揉め事については、イチイチ裁判を開いて審理し、勝者にも敗者にも判決を申し渡す制度を持っていた。

だから幕府としては、幕府がこなす仕事量を遥かに超えて、保証すべき御家人の範囲が広がる事も避けたかっただろうね(^_^;)。
御家人の土地を増やしたり減ったりせぬよう、土地の移動を厳しく禁止(制限)した。

ところが、何とか御家人の土地を手に入れようと、公家だの武士(非御家人)だの商売人だのが、婚姻売買賭博だので、やたらまとわりついた(苦笑)。
御家人の土地は狙われ、これに呼応して、御家人自身も土地を売ったり手放す事が増えた。

御家人から見れば、幕府が保証する権利が「お得(≧▽≦)!」と思われたからだろうが(笑)、御家人側の方の理由は、この時代、物凄く経済活動が活発化した事に関係があるように思える。

いわゆる金融業も盛んになり、生活に困窮する武士が土地を手放して生活の糧に変え始めたのだろう。
食い詰めた時、土地を手放して現金化するのは、現代人もよくやる事だもんね(^_^;)。

特に金融業者(高利貸しですね(^_^;))は、荘園の担い手から独立して営むパターンを踏み、その元手は、前回も話した、寺院や皇室や公家の荘園を、大寺院の僧兵などが暴力行為にモノ言わせて強引に手放させるなど、不法入手がまかり通った(^_^;)。

歴史の授業では、鎌倉幕府が滅ぶに至った(武士達に支持されなくなった)理由を、元寇(モンゴル軍の襲来、1274年~)への武功に報いられなかったから、と教わった。
外敵の襲来を追い払うのみで、侵略して土地をせしめるわけではないからだね(^_^;)。

なるほど、御家人は関東に多く、畿内や西国には少なかったから、元寇を防戦すべき九州の武士たちに「非御家人」が多かった点、防備にあたらせるに課題となったのは事実だろう。

ただ、非御家人からは「悪党」が出るなど、次第に社会の歪みを生じたし、幕府が出来て世代が進むと、皇族貴族からも、土地相続の問題解決を求められるなど、もはや幕府は内輪を守るだけでは済まない存在になっていた(^_^;)。

だから元寇が無くても、御家人と非御家人を分け、御家人にだけ恩賞や裁判を行う鎌倉幕府の制度は、遠からず破綻した、とか、商工業や流通・経済の仕組みに制度が追いつかなかった、という分析もあろうかと(^^ゞ。

さて、その後の豊島氏だが、実はこの後あたりから、最後の豊島泰経までの間が、局部的にしかハッキリしない(^_^;)。。

平塚城、石神井城、練馬城を築いた事、支流に赤塚、志村、板橋、宮城などの諸氏を輩出した事が知られるが、それらがいつの時代かは丸きり不明(^_^;)。
(そういう事を知るためにも、練馬城発掘調査はされるべきだと強く思うマジで(-_-メ))

鎌倉時代の終わり頃の紀行文には、豊島あたりの、沼地の雑草が背丈高く生い茂る風景がエンエンと続く様子が書かれるそうだ。

やがて鎌倉幕府に対する討幕活動が、後醍醐天皇を中心に起こる。
元弘2年(1332年)に楠木正成が挙兵すると、鎌倉の武士たちは幕府の指示に従って、これへの討伐軍に加わった。幕府軍は10万で包囲したという。
豊島氏からも従軍者があったようで、北条氏と共に自刃した者もいたらしい。

ところが翌・元弘3年(1333年)になると、討伐軍にあったハズの足利尊氏が、イキナリ幕府に叛旗を催し、六波羅探題を攻略。
と同時に、上野国群馬県)にあった新田義貞も、同じく幕府に叛旗して挙兵。

豊島氏もここでは、この新田義貞の陣に参加している。

新田義貞の鎌倉行軍ルート f:id:potatun:20201102115916j:plain


新田義貞は、↑まず生品神社に、大舘・堀口・里見・江田(世良田)など新田一族を中心とし、岩松・桃井など足利系の人々も併せて150騎で結集(05/08)、一度、高崎方面に西進し、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの新田一族ら2千騎と合流。

おもむろに南下を開始し、越後や信濃から後続してきた5千騎など、途中で加わる武士らを途中に待ち、あるいは加えながら鎌倉を目指した。

その途中に、「畠山」「菅谷」といった、元・畠山重忠の本拠地がある事に注目したい。
幕府および北条氏が、どうしても埼玉北部~中部を直接支配地(将軍家御分国)に置きたかった理由が、この新田義貞の進軍ルートを見ると、理解できるのではなかろうか。

上の地図はわかりやすく、県境を上から重ねてみた。
現在の埼玉県・東京都・神奈川県を南北に合わせて、やっと千葉県と同じ距離という事がお分かり頂けよう。

新田氏は長く鎌倉幕府にとって、反抗的とまでは言わないまでも、従属的とは言いにくい氏族であった。
このように攻め込まれる事を、特に北条氏が執権を独占しきらぬ頃には警戒していたのではないかと、この図から想像できる。

新田義貞のクーデターを知った幕府は、急ぎ軍を動員し、武蔵国南部(東京都)付近でようやく防戦に出る。
05/11、小手指ヶ原の戦い(埼玉県所沢市、05/12、久米川の戦い(東京都東村山市で、新田軍と幕府軍の最初の大衝突を迎えた。

この同日(05/12)、足利尊氏の嫡子・千寿王(当時3歳。後の2代将軍・義詮)の軍が、遅れて世良田に挙兵の旗を立て、新田義貞の後を猛追して来て、この久米川付近で新田軍と合流した。

この足利千寿王を擁した軍の方は、出発時には新田義貞と同じく、2百騎ていどだったようだが、この時点まで瞬く間に、20万7千騎にまで膨らんだと言うから、誇張があるにせよ、足利氏には、新田とは比べ物にならない大規模を募り得る能力が伺える(^_^;)。

さらに、この頃には、京においても足利尊氏六波羅探題を攻略・京を制覇した事が伝わって来ただろうから、これも新田&足利軍に兵力が急増した要因にあっただろう。

05/15~16は、分倍河原東京都府中市・関戸(東京都多摩市)の戦いとなる。
(二ヶ所は近くて、地図ではくっついてしまうので、上の地図には「分倍河原の戦」しか表示をつけてない(^_^;))

豊島氏が、江戸氏、葛西氏、河越氏とともに、新田義貞の陣に参加したのは、この辺りのようで、三浦氏の軍に入ってたようだ。

攻防は両陣営多くの犠牲者を出したが、幕府軍は敗退。新田&足利軍が優勢に進んだ。

あとは鎌倉に入るだけとなった所で、新田義貞は配置を整えるべく、一旦、進軍を止めて軍を三手に分ける。
05/18、極楽寺切通・小袋(巨福呂)坂・化粧坂の三方向から、鎌倉に進軍。

戦闘が続く中、05/21、新田義貞は、さらに西の稲村ケ崎から攻め込み、鎌倉を陥落させ、05/22、北条高時をはじめ、多くの北条氏一門は揃って自刃して果てる。
新田&足利軍によって、鎌倉は制圧された。

新田荘歴史資料館新田義貞

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私達は、歴史(日本史)の授業や教科書で、この時に「鎌倉幕府は滅んだ」「鎌倉時代は終わった」と習うが、それは後に見る社会学的な見解に基づくものであって、当時の人はそう思ってない

ここはわりと重要な所だ。

当時、特に多くの武士は、戦に敗れた(滅んだ)のは「北条氏」であって、その北条氏が担ぐ所の将軍は鎌倉を追われたが、新しい「鎌倉殿には、「新田義貞足利尊氏どちらかがなる」と思っていた。

その両者は、ともに後醍醐天皇の始めた建武の新政のため京にのぼるが、この新政は武士たちには不人気で、その隙を突くように、北条時行(鎌倉に滅んだ最後の執権・高時の子)が、建武2年(1335)、関東に侵攻。
鎌倉は、足利尊氏の弟・足利直義が守っていたが、これを破って、時行が鎌倉を奪取。
中先代の乱である。

尊氏はこれの討伐に鎌倉へ向かう流れで、後醍醐天皇から朝敵(^_^;)とされるに至り、新田義貞の追討を受ける事となる。
尊氏は新田義貞のみならず、後醍醐天皇の下で一度は味方となった楠木北畠も敵に廻し、九州と京を行き来しつつ、建武3年(1336年)、光厳上皇光明天皇を仰いで北朝と成し、足利幕府を開いた(南北朝時代)。

この時代、豊島氏では、泰景が若くして死去し、子の朝泰が幼少だったので、伯父の景村が代行を務めたとする伝説が残る。

清光┬朝経(豊島)-有経-経泰-泰友┬泰景-朝泰
  |               └景村-輝時-景則 
  └清重(葛西)

景村は動乱の時代、豊島宗家を守り、甥・朝泰に余す事なく相伝したとして、中興の祖の誉れを持つ伝承に彩られたものの、伝承も実在も史実に確認できず、作り話の疑いもあるとかで(^_^;)、最近では取り上げられる事がないとか……。

伝承てのは、南朝に属し、この北条時行の子・輝時を養子にしたが、輝時の子・景則で跡が絶えた、というもののようだ。

作り話を疑われる理由を知らないが、もしかしたら、江戸幕府徳川氏が新田氏系の子孫を自称・喧伝した風潮に相乗り……みたいな線(^_^;)?

養子云々はともかく、武蔵国の情勢や豊島氏の立ち位置から見て、私的には、北条氏への癒着性は強そうに思う(^_^;)。
元ソースの史実性が脆弱なんだろうが(これもありがち:笑)、江戸期の調査に誤解があるとしたら、その誤解を支える要素はあると思う。

……この辺で、いっぺん区切ろうかな(>▽<)。<長くなったし

次回は、いよいよ豊島氏の終焉に関わる時代に入る!
すなわち「横糸」に取り掛かりたい!

<つづく>