今後は逆に、一気に平安期に戻り、豊島氏発祥より前の時代に行く。
桓武天皇-葛原親王┬高棟……平時子(平清盛妻)
└高見王-高望王┬国香┬貞盛-(北条・伊勢平氏・伊勢=後北条)
| └繁盛-(城・岩城・大掾)
├良兼
├良将-将門
├良文-忠頼┬将常┬武基(秩父・畠山・河越)
| | └武常(豊島・葛西)
| └忠常(上総・千葉・相馬)
└良茂-良正┬公義(三浦・和田・佐原)
└到成(鎌倉・大庭・梶原)
↑ワープロは横書きが主流なので、系図が横向きになってスイマセン(^_^;)。。
→→→左から右に見て下さい→→→
豊島氏の発祥は桓武天皇に遡る。
その曾孫・高望王の時、親王任国の制度によって、関東に下向し、国香・良兼・良将・良文・良茂以下の子孫を広げた。
(上の系図では、良茂流として書いたが、三浦・和田・鎌倉・大庭・梶原も、良文流と解釈する向きが近頃では多い)
はじめは任官先の上総国(千葉県)に来たものと思われる。任官は、寛平元年(898年)という。
上総国(千葉県)の後は、常陸国(茨城県)・武蔵国(東京都)・下総国(千葉県・茨城県)の順に領したと考えられる。
が、国香と、その弟・良将の子、将門との間に武力衝突が起き、将門が国香を討ち果たしてより、いわゆる「平将門の乱」が起きる(承平の乱・935年~)。
国香の死後、国香の弟・良兼や良茂(『将門記』には良正とある)、国香の子・貞盛が騒乱を引き継いで、将門との敵対を続け、戦いは長引いた。
やがて、平将門の存在は関東に鳴り響くようになり、騒動の芽が、将門の住まう下総国(千葉県・茨城県)から外にも点火して、一族同志の戦いにとどまらず、乱は関東全体を巻き込み、広がった(天慶の乱・939年~)。
ついに将門は、京の朝廷からも敵視されるに至り、討伐の兵を差し向けられた。
が、京軍の到着を待たず、貞盛と藤原秀郷の連合軍によって、将門は討たれる。
(※ 平将門については、この「将門の乱」という史実より、「死後の祟り」なるオカルト話の方が数倍もボリュームがある感アリ。が、ここでは割愛させて貰う(^_^;))
これが「一族の戦い」であるにも関わらず、豊島氏に続く「良文」だけは、この乱に全く名を見せない(^_^;)。
しかしこの良文からは、氏族・子孫が極めて多く輩出されてゆき、同じ良文流からは、その威勢の強さや広がりを示すべく、後に「坂東八平氏」と呼称されるまでに発展した。
しかも同じ東京にある、あの有名な神田明神で、平将門は祭神であり、大手町には首塚もあるから、この乱と良文の関わりが気になる人も多いのではなかろうか(^o^)
古くは、良文の子・忠頼について、「平将門の乱に立てた功績により、武蔵押領使・陸奥守となった」とされてたようだ。
ところが、その当時を確認できる史料に裏付けが見当たらないため、この功績の根拠は、後世付会か創作(誤伝・自称)が疑われ、歴史学的には信用を置かれてなかった。
その一方、同じく良文の子・忠頼から出た相馬氏(千葉氏の支族)には、「良文と将門は共に手を組んで、国香たちを相手に戦った」とする縁起話が伝わる。
良文・忠頼の父子は、将門の敵か味方か、どちらが正しいのだろう(^_^;)。
そこに近年、「将門の死去を京に知らせたのが、良文ではないか」とする資料が発表された。
私も同史料は確認した。(確証するには至れてないが(^_^;))
そこで改めて、相馬氏に伝わった伝説を詳らかに見てみると……φ(。。)m。
同伝の妙見縁起には、「はじめは良文と将門は手を組んだ」が、後日、「妙見が将門を離れ、良文の家に来た」というのだ。
(「下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻」1662年)
すると……。
身内同志の戦い「承平の乱」では、良文は他の兄弟と袂を分かち、むしろ将門に味方した。
が、さらに拡大した「天慶の乱」では、「妙見の加護を得られない→将門の味方は出来ない」と判断。
そこで良文は、積極的に将門に敵対はしなかったが、合力もせず、その死去の報を朝廷側に伝える程度の働きをし、功績が認められた……と、こうではなかろうか(^_^;)。
この「平将門」に属する話は、後にまた登場させるとして、今回は先に進むが、以上の推測を元に考えれば、良文の時点では、それほど大きな功績と認められたとは受け取れない。
続く忠頼については、どうだろうか。
実は忠頼は、先に書いた、国香の次男(貞盛の弟)・繁盛と鋭く対立していた。
繁盛が太政官に宛てて、「比叡山に納経しようとするのを忠頼が邪魔をする」として、朝廷に討伐を要求しているのだ。
忠頼と繁盛の間のこの確執を、さらに子である忠常と維幹が引き継いだ対立図の上に、忠頼の次子・忠常は、房総(千葉県)において、続いて起きた騒乱「平忠常の乱」(1028年~)で、都から謀叛者と認定され、本当に討伐を差し向けられたため、房総はその後長く、亡国・亡弊国と呼ばれるほど衰退するに至るのだ。
高望王┬国香┬貞盛-維将-維時-直方
| └繁盛-維幹(維基)
├良将-将門
└良文-忠頼-(千葉)忠常
この「平忠常の乱」は、良文流と国香流の子孫同志が争いあってる点から、将門の乱の延長とも、あるいは将門の乱による勝ち組同志の内輪揉めとも受け取れる。
(良文・忠頼の父子が、将門や国香と、どの時点で敵味方であったかが、重要だろう)
しかも朝廷から向けられた討伐の大将には、繁盛・維幹に近い直方が配置された。
これが、忠常側から見て、なかなか終戦したくない(戦が長引いた)事情にあったと見られている。
この事情を裏付けるかのように、ここに平忠常の主君であった、清和源氏・河内流の源頼信(頼光の弟)が討伐に来ると、途端に、忠常は自分から進んで降伏し、乱はあっけなく終息した。
忠常は護送中の美濃国(岐阜県)で病没したが、忠常の子孫は、上総氏、千葉氏として枝を伸ばし、後に、豊島氏と太田道灌との戦いにも登場するのである。
一方、同じく忠頼の子(長子)で、豊島氏の祖・将常(将恒とも)は、この平忠常の兄であったが、忠常の側について朝廷に歯向かった形跡は無く、その後も武蔵国に安泰だっただろう。
武蔵権守となったとされ、武蔵国秩父郡中村郷(埼玉県秩父市)に土着し、秩父氏を名乗った。
ただ、一説によると、将常と忠常は平将門の娘を母に持つとする伝えもあるようで、将常の子孫(江戸氏など)と忠常の子孫(千葉氏・相馬氏)が、平将門の慰霊や祭祀を行ったと伝えられる事と関係があるのかもしれない。
この江戸氏、↑上の系図には狭くて書き込めなかったが、「豊島氏」に枝分かれする直前に分かれた「秩父氏」の一族である。
ただ、将門の血筋を云々する事情には、平安末に向って荘園勢力の進出等に伴い、地場確保のための喧伝、という要素も指摘されている事は述べておこう。
ちょくちょく朝敵クラスの有名人の子孫が、その血筋や系譜を主張する傾向がみられるのは、相続アピールが絡んでいるからと見られる事が多い(身も蓋もない言い方(^_^;))。
秩父氏は、将常の長子・武基に受け継がれる一方、将常の次男、武常が、治安3年(1023年)に武蔵国で、武蔵介・藤原真枝なる国司が兵を構えたのを討った功で、武蔵国(東京都)豊島郡と下総国(千葉県)葛飾郡葛西を賜った。
他に駿河国(神奈川)・上総国(千葉県)にも恩賞地を得たともいう。
この武常の系譜が、豊島氏に繋がってゆくのである。
東京都北区豊島が豊島氏発祥の地とされ、平塚神社が豊島舘跡と伝わるそうだ。
「平忠常の乱」をキッカケに、降参した忠常ばかりでなく、他の多くの坂東武士たちも源頼信に与し、頼信以降の清和源氏と、長く主従関係を築く将来へと繋がってゆく。
と同時に、源頼信の子孫も、本格的に関東へ進出してゆく。
頼信の子、頼義と、さらに子の義家(八幡太郎)は、「前九年の役」(1051~1062年)に、多くの坂東武士を従えて、陸奥の安倍討伐に向かっている。
武常も、この源頼義・義家の父子に従って、奥州で戦死した。
この「前九年の役」は、多くの関東武士の戦歴の初段にカウントされる事が多い。
「平忠常の乱」では、反目しあっていた国香流と良文流の子孫たちも、源頼信の家臣となり、「源氏を棟梁に掲げる」事によって、その下で争い合わず、共存する道を新たに開拓したのである。
その最初の軍事動員が「前九年の役」だった点は、関東武士にとって小さくなかった。
武常の後は、常永-康家(これより豊島氏)-清光と続く。
(豊島氏の系図は、手持ちの資料とネット上に見る物と、ちょっと違うので、後で検証された物の方が正しかろうと思い、Wikipedia等の情報に従う事とします(^_^;))
秩父氏では、武基の子・武綱が「後三年の役」(1083~87年)に、源義家方として参陣してる。豊島氏では常永が、ほぼ同世代と見れようか。
「保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)」にも豊島氏は出陣したと見え、保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に、豊島氏の名がみえるらしい。
(源氏の方は、義家の後、義親-為義-義朝-頼朝と続く)
治承4年(1180年)、伊豆で源頼朝(義朝の子)が挙兵。頼朝は石橋山の戦いで敗れ、安房国で再挙した。
この頼朝に、豊島権守清光(清元)は小山氏・下河辺氏・葛西氏らとともに呼応、子の清重をつれて参加。関東平定戦に従軍し、以後、代々鎌倉幕府に仕えた。
以上、良文流にも色々苦難はあったが、豊島氏に受け継がれる武蔵国の流れには、戦死など悲しむべき出来事はあれど、概ね大過なく来た感じが伺える(^_^A)。
しかし、これも鎌倉時代に入ると、中々そうはいかないのである。。
以降は、次回に引き継ごう(^O^)ノ