ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

横糸-1「室町初期・上杉氏の事(観応の擾乱と武蔵野合戦)」

こちらを書いてる合間に、自サイトも更新してます(^_^;)。
当分、そちらの作業が続くのと、そろそろ確定申告に向けて本業も加熱するので、こちらは間が空く事が増えると思います。

さて前回は、ちょうど「観応の擾乱」に入った所までだった φ(。。)m
今回は、初の「横糸」編として、豊島氏の終焉に関わって来る点について、この観応の擾乱の前後をスライスして見てみたい。

それと、今回から「室町期」に入る。

……実は、「南北朝時代」と「室町時代」は、その始まりは同じ建武3年(1336年)なんだけどね(^_^;)。

本当に時代を分けるなら、鎌倉・南北朝・室町、とするのは誤りで、
鎌倉時代(~1333年)」「建武時代(1333~37年)」「室町時代(1336年~)」
の三区分にすべきかなーと個人的には思う(^_^;)。

と言うのも、鎌倉幕府の終わりは、新田&足利による、京と鎌倉の討幕(北条氏の滅亡)のあった、元弘3年(1333年)だろう。
が、北朝はこの瞬間から登場するわけではない(^_^;)。

足利尊氏後醍醐天皇の討伐勢力に敗れて九州に逃げ延び、再び畿内まで押し戻し、持明院統から上皇天皇を擁して、「北朝」が成立(室町幕府が開始)するのが建武3年(1336年)である。

じゃ「室町時代」でいいじゃないか。なぜ「南北朝時代」という呼称が必要か……。

水戸史学や戦前戦後の史観の話は、今は置いときます( ^^)//<長くなるから
あくまでも、現代における使用について……。

一つには、鎌倉幕府が滅んだ元弘3年(1333年)から、北朝が成立する建武3年(1336年)までの3年間を、「鎌倉末」と呼ぶには、歴史学的に「鎌倉幕府は無い」時期なので、この三年を、その後の時代に含めて話す都合上、という感じがする(^_^;)。

二つ目には、「南北朝時代」の正式な終わりは、元中9年/明徳3年(1392年)の「南北合一」である。
そこまでの動乱時代を、特に指す意味合いからかと(^^ゞ。

でも実際には、そこを待たずに「室町時代」として記述されるケースが殆どに思う(^_^;)。
「だって、もう、室町時代はじまっちゃってるしっ(≧▽≦)!」

一方の南朝側も、南北合一の後も「後南朝」と呼ぶ経過を辿るため、ここで終えてしまえるものではない(^_^;)。

だから大抵の歴史の本は、後醍醐天皇の死去(1339年)あたりで区切りをつけ、その後の南朝の話は地域史に振り分け、全国史は「室町時代」の仕切りで語り始める感がある(^_^;)。

前置きが長くなった(^_^;)。

さて、前回書いた通り、観応の擾乱の12年も前から、関東では高師直高一族に対する反発感情が強かった。

実は、同じような事情が、当事者である足利尊氏(兄)・足利直義(弟)・高師直(執事)の三者にも長く続いていた。

観応の擾乱」は、正平5年/観応元年(1350年)に始まる、と年表には記されるが、その確執は、北畠親房常陸合戦が始まった、同じく12年前の、延元3年/暦応元年(1338年)には、この三者においても始まっていた(^_^;)。

豊島氏のいる武蔵国に関連する所に先に触れると、この三者の軋轢への一番強い影響関係に、上杉氏がいる、という事を強調したい。

この「上杉氏」こそが、やがて関東に強い影響力を持ち、豊島氏の終焉にも、強く深く関わるからである。

足利尊氏・直義の母・清子上杉氏の出身であり、清子の兄弟(すなわち尊氏らの伯父)に、重顕扇谷の祖)・憲房山内・犬懸の祖)がいる。

系図↓(例によって左から右→に見ます)

┌上杉重顕(扇谷の祖)
├上杉憲房┬=重能(養子・父・勧修寺道宏)
清子  ├憲藤(犬懸)
 |   └憲顕(山内)
 ├--┬尊氏-┬直冬
 |   └直義 ├義詮(母・北条守時の妹)
 |      └基氏(    〃   )
足利貞氏-高義(母・北条顕時の娘)

清子の前にも、上杉氏から足利氏に嫁入りした例はある。
また、上杉氏は元は藤原氏の出であるから、出自としては関東武士らより余程高い。
鎌倉幕府の六代将軍・宗尊親王が鎌倉へ下向の折、側近として付き従って来たのが、関東における上杉氏の始まりである)

が、鎌倉の武家社会においては、執権・北条氏の権威が何より優先される(^_^;)。
そのため、足利氏では代々、正室は北条氏から娶った。北条氏との縁談より前に妻帯してた場合は、先妻を離縁してまで、北条氏から正室を迎えた。

そんな事情もあって、↓下の系図を見ても、足利氏では、先に生れた男子が次々と独立して支流に出されたとおぼしき系図が続き、やっと最後に「足利」を名乗る家が出て来る事になる↓

源義家┬義親┬為義-義朝-頼朝┬頼家-┬公曉
   |  └義賢(木曽)  └実朝 └藤原頼経
   └義国┬義重┬義範(山名)
      |  ├義俊(里見)
      |  ├義兼(新田)-義房-政義-政氏-基氏-時氏-義貞┬義顕
      |  └義季(得川)                  ├義興
      └義康┬義清(仁木・細川)               └義宗
         └義兼┬義純(畠山)
            └義氏┬長氏(吉良・今川)
               └泰氏┬家氏(斯波)
                  ├義顕(渋川)
                  ├頼茂(石塔)
                  ├公深(一色)
                  └頼氏(足利)-家時-貞氏┬尊氏-┬直冬
                               └直義  ├義詮
                                   └基氏

一方、同じく「義国」から分枝した「新田」の方は、足利との著しい違いと指摘される通り、鎌倉幕府にも北条にも縁遠く鎌倉時代を経た(^_^;)。

それゆえ鎌倉末までに、両家の間には、幕府から受けた恩恵面で、かなりの差が生じて、足利氏の威勢は強まり、新田氏は、その下勢に甘んじる具合になった。
その両者が、南北朝の各々違う天を上に仰いで抗争しあう事となったのだ。

話は上杉氏に戻る。

尊氏の父・貞氏もやはり北条氏から正室を得たが、正室の生んだ男子が早くに亡くなったので、側室だった上杉清子の生んだ尊氏家督を継いだ。

しかし、そもそも母が北条の出でなければ庶流扱いを受ける時代だったから、尊氏や直義は、母方の上杉氏の庇護があって、鎌倉末までやってこられた。

鎌倉末の挙兵後も、特に清子の兄・憲房の功績は大きい。
そもそも尊氏が討幕行動に踏み切ったのも、この伯父の勧めに従ったから、とも言われている。
尊氏が朝敵認定を受け、京で北畠顕家新田義貞に敗れて九州に落ちた建武3年/延元元年(1336年)、尊氏を逃がすため、この憲房が身代わりに討死している。

憲房の子の内、憲藤も、尊氏の子・義詮の執事として鎌倉に残ったが、建武5年/延元3年(1338年)、尊氏に従って上洛し、摂津国北畠顕家との戦いで戦死した。
(子・朝宗、孫・氏憲は、後に「犬懸上杉氏」として頭角を顕わす)

今言った二人は、忘れてしまっても構わないが、同じく憲房の子で、憲顕は、この後もわりと出て来るので、覚えておいて貰えると助かる。

一方の高師直の高一族は、足利氏の執事格の家柄で、跡継ぎが尊氏であろうと無かろうと、足利氏内部において、気後れしないだけの立場があった。

当主の尊氏さえ色々と気苦労して動かす采配も、師直の一声で大勢が決してしまう局面もあったようで(^_^;)、師直と直義が戦いあった時などは、直義が負けて尊氏の館に逃げ込んでも、師直が尊氏ごと館を軍勢で取り巻いて、主君の尊氏の命すら危険に晒して憚らない事すらあった(汗)。。

主だった人物に、師直の兄弟・師泰重茂、従兄弟・師冬などがいる。
(他、宿敵になった上杉氏だが、先に戦死した憲房の娘は、この師泰に嫁いでいる)

延元3年/暦応元年(1338年)、上杉氏が政権から排除され、その地位を高師直やその一族が代わった事から、上杉氏高一族の間に抗争の根が起きた。
こんな中、尊氏の弟・直義は上杉氏の肩を持ち、上杉も終始、直義派として登場する。

前回も書いた、高師直の従兄弟・師冬が、北畠親房常陸合戦において指揮官となったのもこの年で、それまで関東執事だった尊氏らの従兄弟・憲顕(憲房の子)を交替させる強引な成り行きなどは、高一族の鼻息をあらわす事例の一つと言えよう(^_^;)。

直義と高師直が、ケンケンゴーゴー揉めて大乱闘を繰り広げる同じ頃、関東で北畠親房南朝扶植運動が展開されながら、多くの関東武家がスルーでいたのが、高師冬が司令官だったから、と書いたのには、こんな要素もある(^_^;)。

ただ、観応の擾乱の観応元年(1350年)より前は、あくまで足利直義高師直の間の抗争だったのが、この年から、いよいよ足利尊氏直義の間の、兄弟間闘争へと踏み込んだ、という違いはある。

この観応の擾乱の始まる前年、すなわち、正平4年/貞和5年(1349年)、鎌倉には尊氏の次男・基氏がやってくる。
これが「鎌倉公方」の「初代」とカウントされる初例だ。

が、実はそれまで鎌倉には、基氏の兄・義詮(千寿王)がいて、この義詮を「初代」に充てるべき、とする学説もある。
(次回、この「初代・義詮(千寿王)」の頃の鎌倉についても、ちょっと振り返れれば、と思う。今回は、ひとまず「上杉氏」に関わる話を優先する(^_^;))

鎌倉公方が、この設立以後、必ず「関東管領」とセットで存在するようになるのは、この時の基氏が9歳とまだ幼く、その補佐を必要とした経過が始まりである。

この関東管領は当初、二人体制を取ったとされる。
一人は先に言った、尊氏の従兄弟・上杉憲顕、もう一人は、高一族から師冬重茂が交互に出て勤めた。

……とされるが、鎌倉府設立の翌年には、観応の擾乱に突入している(^_^;)。
恐らく二人体制の実態は、高師直派と足利直義派から、互いに向こうを張ってねじ込んだ結果「二人が並び立ってしまった」と見るべきだろう(汗)。

というのも、この基氏の鎌倉下向の年、さっきも述べた、高師直らの軍に敗戦して逃げ込んだ直義を、師直らが尊氏の居館ごと取り囲む事件が起き(^_^;)、結局、直義が失脚して政界を去るに乗じ、上杉憲房の子の一人、重能は流刑の後、命を奪われてしまう。

この経過の果て、上杉憲顕高師冬が二人で仲良く関東管領を勤める……なんて事になるハズがない(^^;)。

師冬は、幼い鎌倉公方基氏を、憲顕追討のため鎌倉から連れ出したものの、石塔義房に奪回されてしまう。
師冬は甲斐国山梨県)に逃走するが、憲顕の子・上杉憲将に突き止められ、自害して果てた。

こうして上杉憲顕の座が固まり、関東管領として基氏の補佐を独占する初端を得た。
ところが憲顕の子・能憲が、先に殺された重能の仇として、高師直とその一族を死に追い込む。
これをキッカケに、尊氏と直義の兄弟同志が直接対決する段に及び、観応の擾乱となるのである。

観応の擾乱は、足利直義が死去(毒殺説あり)に至って、正平7年/観応3年(1352年)には終結する。

が、この同年、北朝・足利方がこの分断の最中にある痛手を突いて、南朝勢力が攻勢に出る。
京では北畠親房が、そして関東では新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治が、十万余騎と称する兵を挙げた。

関東における戦いを「武蔵野合戦」と呼び、この南朝・新田軍には、中先代の乱で大暴れした北条時行も加わり、上杉憲顕石塔義房という、元は足利方にいた者も加担しており、ここに観応の擾乱によるモツレが現れ出たのである。

これら新田軍を迎え撃つため、尊氏は鎌倉から出撃しており、この足利勢に豊島氏の名が見える。

尊氏は一度総崩れとなるが、この時、豊島氏は、秩父流の江戸氏河越氏と共に「一揆」を組んでおり、立て直して勝利に導く戦力となっている。

今回はここまでにしとこうかな(^^ゞ。

忙しくなってるのもあって、あまり集中して書けなかったが、この回で書こうとしてた半分も来れたかどうか……。
気の利いた写真の一枚も入れようと思ってたが、結局探す時間がなかったのと、わりと字で埋まっちゃったので、愛想ナシでスイマセン。

この後も頑張りたい(`・ω・)=3<ファイト

<つづく>