ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

縦糸-7「江戸氏の事」

前回から再開したが、お断りしなければならない事に気付いた(`・ω・)=3

連載の回数である。
当初12回と言ったのを、後から13回とか、14回とか、引き延ばして告げてる内に、8ヶ月以上もの休止状態に突入してたようだ(^_^;)ゞ。

前回が、その「14回」目に当たるんだが、終わらないどころじゃない(笑)。

この先どれぐらい続くか……φ(-ω-;)m<ウーン
今回の入れて6回は行くんじゃないかなー。
(当初の「12回」なる目算の甘さ……( ̄∇ ̄;))

ただ、時間をかけただけあって、拙速に終わらせようとした視点を一度離れて、少し視野を広く持てる気持ちになれたように思う。それを世間は「負け惜しみ」といふ。

さて、この後の豊島氏が史実に顕れるのは、応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」となる。
この乱については次回以降、詳しく書こうと思うが、ここでイキナリ、滅亡時(1478年)の豊島氏の所領地を振り返ってみたい。

その本拠は石神井とされ、そこに立つ石碑によると、その当時の豊島氏の勢力範囲は、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区板橋区、足立区、練馬区とその周辺に及んだ、という。

ズラズラ書くと大層な勢力に思えようが、そう広い範囲とは言えない(^_^;)。
でも戦国時代において、そこそこの勢威を世に知らしめる程度の存在感はあろう。

これほどの領域を一円確保した時代を、いつの時点に見出すか……。
これはちょっとした課題じゃないだろうか。

結論から言うと、私はそれを、次回話す予定の「上杉禅秀の乱」ではないか、と思っている。

上杉禅秀の乱の後の関東は、永享の乱(1438~)、結城合戦(1441~)と続き、畿内では、嘉吉の変(1441~)が起こる。
そして関東には、享徳の大乱(1455~)という長い戦争の時代を迎え、この乱の最中に、畿内では応仁の乱(1467~)が起き、関東は享徳の大乱も終わらぬ内に、長尾景春の乱(1476~)が勃発。
この二重三重の乱の最中に、豊島氏は太田道灌との戦いに敗れ滅亡(1478)に至る事となる。

つまり、最初の「上杉禅秀の乱」から最後の「長尾景春の乱」に至るまでは、関東動乱史の中に身を置いた一豪族として豊島氏を見出す手法が可能である。

……に対し、滅亡時に伝えられる豊島氏の持つ面影が、「上杉禅秀の乱」の時にはあらかた整っていたのか、それともその後、滅亡するまでのどこかの段階で形作られたのかが、正直よく判らない(^_^;)。

そこで、上にズラリと並べたこの先の関東の動乱を書く前に、やり残して気になっている事を今回は書いてみようと思う。

表題にある通り、江戸氏についてである。

鎌倉時代畠山氏、前回に見た通り、室町初期に武蔵平一揆河越氏がほぼ消滅し、豊島氏にとって同族として手を携え得るのは、江戸氏葛西氏ぐらいになったと思うからだ。

葛西氏は、鎌倉時代陸奥に行ってしまい、その活躍を関東に見る事は無くなった。
南北朝期、僅かに関東の戦歴に名を顕わすものの、その後は戦国期までやはり奥州探題として存在感を示すのみである。

(関東と東北の両方に拠点を置いて、行き来しながら両方の場を保ったと推測する向きもあるようだが、葛西氏については資料の混乱が著しいため、ここでは取り上げたくない)

江戸氏は、豊島氏や畠山氏と同じく、秩父平氏である。
だいたい、後の江戸城の辺りに平安末には本拠を構えていたと見られてきた。

源頼朝による平家追討の決起に伴ない、豊島氏葛西氏は早い内から頼朝に靡いたが、その本家筋とも見られる、畠山・河越・江戸の各氏はやや遅れを取った。
江戸重長などは石橋山合戦で頼朝と戦ったが、後に従った。

スグに靡かなかった畠山・河越・江戸の中では、頼朝は、この江戸重長を選んで使いを送った。
どういう意図かはよく判らないが、人柄か、他の二氏より御しやすいと思ったのかもしれない。
既に戦闘を行なった敵同志であったためか、なかなか応じない重長だったが、頼朝は同族の葛西清重を出して傘下に服させている。

江戸氏が、同族の畠山氏や河越氏のように表舞台に名を顕わさないのも、鎌倉幕府の権力の中枢に偶然、近くなかったからに思える。
承久の乱の活躍により、出雲国に地領を得ているものの、軍記文学などでは大層な富豪であるかのように描かれるフシも見受けるのは誇張で、江戸氏にそれほどの力を持ちうる要素はない。

江戸氏は鎌倉時代に入ると、早くも系譜が途絶えたと見られる。
畠山重忠を討伐する中に見られるのを最後に、以後、史上に名を顕わす「江戸氏」が、元の江戸氏とどう繋がるのかは解明されてない。

江戸氏には、武蔵七党猪俣氏の血が婚姻によって入り込んでおり、これは同血族の横山氏の名乗る小野氏と同祖を称している。
その関係からか、小野の名乗りが江戸氏に混在して出て来るようになる。
一方、この後に出て来る江戸氏は、畠山重忠の子孫が跡を継いだという説もあるようだ。
あるいは、江戸氏の庶氏の流れ(分家)と見る説もある。

系譜的には不明ながら、「江戸氏」はその後も史上に見られる。

ところでその江戸氏は、江戸時代には「喜多見氏」を名乗り、現在の世田谷区あたりに居たようである。

世田谷区には幼い頃と大人になってからの二度に渡って、長く住んだ事がある。
区役所だったかの待合室で、「世田谷区の歴史」みたいなビデオが上映され、「将軍家たる徳川氏の江戸城と同じ名乗りは恐れ多いと改名」という具合に紹介されてた覚えがある(^_^;)ゞ

しかし徳川家が江戸入府する前、確か太田道灌江戸城を作っていたハズだ。
道灌の江戸城は、太田氏独自の城か、道灌の主筋・扇谷上杉氏あるいは、そのさらに嫡流筋の山内上杉氏の物としてだったか、細かい所は置いといて( ^^)//、何しろ江戸氏の「え」の字も、その頃は出番が無い。

どういう具合にそうなったんだろう(^_^;)。
結論から言うと、実はよくわからない(爆)。

嘉元年間(1303年)、時宗の二代・他阿真教が宗祖・一遍の亡き後、法灯を受け継いで全国行脚を行なう最中、武蔵国柴崎村を訪れた。
この地に威勢を張っていたはずの江戸氏が衰えため、村が荒廃し、疫病が蔓延して、住民が平将門の祟りを恐れている様子に出会ったという。

その地はかつて、敗死した平将門を「築土明神」として祀っていたのだが、長い年月の間に、洪水あるいは津波などによって流されしまい、これによる祟りだと、住民たちが恐れているのだった。

つまりこの時点で既に、江戸氏は土地の主要勢力たりえてない感じが濃く漂っている(^_^;)。

他阿真教は平将門を祀る塚を修復し、「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して供養したところ、疫病が終息。
住民は喜び感謝して、真教に付近の日輪寺に留まって貰い、「柴崎(芝崎)道場」が出来た。

その後も真教の気配りが功を奏して、平将門慰霊の場となり、その後の「神田明神」へと発展した。
神田明神徳川家康の江戸入府にともない、現在地の御茶ノ水駅付近に移ったが、真教の「蓮阿弥陀仏」の塚は、今も大手町に、所謂「平将門首塚」として残されている)

この首塚は、現在の皇居のスグ近くにあり、皇居はかつての「江戸城」跡地だから、この城の名は「江戸氏の城があった」事に由来すると言われて来た。
ところが、豊島氏が攻め滅ぼされた頃には、太田道灌の城となっているので、「江戸氏はいつ江戸城を離れたのか」という疑問が生まれよう(^_^;)。

それより42年遡る、弘長元年(1261年)、江戸長重正嘉の飢饉で江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)が荒廃したため、経営が続かず、北条得宗に寄進して、江戸氏は得宗被官となったという。
(この寄進は、正和4年(1315年)までに得宗家から円覚寺に再寄進されたそうだ)


この荒廃と関係があるんじゃないか、と思う事にする(^_^;)。
この時、江戸城付近を離れたのか、一気に世田谷区付近に移ったのか、或は他を転々として後だったのか、その辺はよくわからない(^_^;)。


その後の江戸氏も追ってみよう。
鎌倉末期の鎌倉攻め(1333年)において、新田義貞の軍ではなく、足利尊氏の嫡男・千寿王(義詮)に加わったらしく、そのため南朝側に連れ込まれるリスクを追わずに済んだ(^_^A)。

にも関わらず、北条時行中先代の乱(1335年)には葛西氏と共に加わったようで、足利直義(尊氏の弟)の舅・渋川義季に鎮圧された。

大抵の新田傘下の南朝組は、一度、足利@北朝に下ると、そのまま足利政権に組み従えてゆくものだ。

……に対し、鎌倉制圧の時、足利氏に直接ツテがあったにも関わらず、後に南朝側に転じてゆく、この江戸氏など秩父平氏の動きには、やはり北条氏に支配されぬいた武蔵国の名残りが思われてならない。
特に江戸氏は北条得宗家の被官であったから、北条時行の支援を断る事は出来なかったのではないか。

前々から書いて来た通り、畠山重忠の滅亡や河越氏の衰退などで、武蔵国(埼玉県・東京都)には北条氏の勢力が伸び、北条氏の影響を強く受けた事が、南北朝以後の秩父平氏らの趨勢をある程度定めた感じがする。

だから鎌倉末~南北朝の動乱期、河越氏などと共に名の出る武蔵平一揆の「一揆」は、鎌倉期の惣領制が崩れ、戦国期のような大名による一円支配も成立してない頃、こうした小豪族らが連帯を組んで様々な外圧に対処したものと言える。

と同時に、私が以前、「尊氏の連れ込む勢力に簡単に従わない理由として、大抵は、足利直義の人柄に入れ込んだ関東武士達が多かったとされてるが、豊島氏を話す局面では、その頭から離れた方が良い」と言ったのは、同族・江戸氏・葛西氏のこういう経過があるからだ。

このように関東には、足利直義に服した勢力ばかりではなく、それに敵対した尊氏が連れ込む勢力に靡く(必要のある)武士たちも居たのだ。

(一方、南北朝の頃の江戸氏は、南朝側にも北朝側にも見られ、分裂しながら各々が続いたと見られる。この傾向はこの時代のどの武家にも多く見られる(^_^;))

北朝側についた江戸重村は、浅草流と目され、武蔵野合戦(1352年)でも尊氏方に参陣。泰重なる人物が戦死している。
重村は、当時の鎌倉御所であった足利千寿王入間川御陣(1353年~)を警固したようだ。

その3年後の文和4年(正平10年=1355年)の京都「東寺合戦」でも、江戸高良遠江守)と、その甥の冬長(下野守)、修理亮が油小路で奮戦したとされ、江戸氏もようやく足利政権の軌道に即した働きが見られるようになる(^_^A)

ところが、延文2年(正平12年=1357年)、江戸淡路守高重(江戸長門の子)が鶴岡八幡宮より豊島郡小具郷を押領したと訴えられている。

さらに江戸氏にとって重要と思われる出来事は、この後の延文3年(正平13年=1358年)に起きる。

武蔵野合戦の頃から、関東の執事(関東管領)として、足利尊氏に寄越された畠山国清は、前回までに述べて来た通り、河越氏など武蔵平一揆を配下として使いながら、足利義詮入間川御陣に君臨させ、その守備体制を敷いた。

武蔵野合戦の一連の流れで、足利尊氏方は、北条+南朝+直義方の連合軍に勝利し、北条時行などは捉えられ処刑されたものの、新田義貞の残党はその後もしばらく各地に潜伏していた。

そのうちの一人、義貞の次男・新田義興は、延文3年(正平13年=1358年)に足利尊氏が死去すると、時機到来とばかりに鎌倉に攻め込んだ。


これに対して足利方では、畠山国清足利基氏の下で迎撃の指揮を執った。
命じられ、新田義興の退治に出たのが、竹沢右京亮江戸高良・冬長などで、義興に美女を与えたりなどの策謀の果て、多摩川矢口謀殺したという。

この功により、竹沢氏や江戸氏は、足利基氏畠山国清に認められ、数カ所に恩賞地を得たのだが、江戸高良は、その恩賞地に向かう途中、義興を殺した矢口渡を通った際、落雷に遭って落馬し、狂死したという。

これが新田義興の怨霊の祟りと言われ、義興は「新田大明神」として祀られ(義興を騙すために利用された美女・少将局も殺され、こちらは「女塚神社」に祀られた)、江戸時代にはこの題材で「神霊矢口渡」なる人形浄瑠璃も上演されている。

又、この新田義興の謀殺に、蒲田氏が名を連ねてるそうだ。
この蒲田氏は江戸氏の分家筋と見られ、「12代・江戸長門の次男・正長から出た」という事で、この家は確かに新田義興の謀殺事件のちょっと前あたりから見られ、後の戦国時代以降、江戸氏と同等以上に勢力を持つ氏族となる。殆ど独立勢力と言える。

江戸氏はこの新田義興殺しの一件で、世間から「きたなき男のふるまい」とつまはじきされ、人望も勢力も失ったと言われ、これ以降、あまり評判の良い家として印象されてないんだとか……(^_^;)。

ただし、そういう印象は当時だけのものか、江戸期に改めて掘り起こされ演劇化されて定着したものではないか、という疑いは持ってた方がいいかもしれない。
つい10~20年前までの東京における中世史は、わりと江戸期の伝承に頼った部分が濃かったイメージが個人的にはある(^_^;)。

私見になるが、史跡巡り伝承巡りをしていると、平将門に関わる伝説と、南朝伝説の地が重なる現象によく出くわす(^_^;)。
その理由については、自論的に様々思う所があるが、このブログのテーマから外れるので今回は省く。

ただ江戸氏については、平将門の慰霊を怠ったかのように伝わっている事と、この新田氏の祟りで死去した伝説が、イメージ的に重なって江戸期に流布されてなかったかを疑っている(^_^;)。

康安元年(正平16年=1361年)、江戸氏らを用いていた畠山国清が失脚する。
畠山氏の被官だった江戸修理亮が捕えられ、龍口で斬られている。

そして応安元年(1368年)の武蔵平一揆では、一族の牛島氏と挙兵して敗れ、江戸氏は領地を減らした。
浅草流の江戸房重は乱後、何らかの忠勤を認められる書状も残っており、多少は戻したかもしれないが、概ね江戸氏は没落
あるいは他の庶流の台頭によって、惣領家の所領が縮小したとも考えられる。

 

至徳元年(1384年)には、江戸遠江守が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が、岩松直国の物となったのを、遠江守の子孫とみられる江戸氏を称する者などが、渋口郷の引き渡しを妨害したという。

この先、上杉禅秀の乱を迎えるので、そこは次回に譲って、その後に飛ぶと……。

太田道灌江戸城を築城したのは、長禄元年(1457年)頃と伝わる。
江戸氏はその頃は、とっくにその辺りから居なくなっていたと見られ、道灌の江戸築城にその名は一切出て来ない。

江戸重広の頃(と言われてもいつの時代か判らないけど(^_^;))、世田谷の木田見喜多見)に移ったとも、その「木田見」流自体が江戸氏の庶流で、江戸氏の系譜を継承したのだとも言われている。

いずれにせよ、この木田見・江戸氏は、世田谷城主の吉良氏の家臣になっており、江戸時代初頭には、世田谷区あたりに居た事は前述の通りである。

辿った過程は、古河公方に仕えた後、古河公方の勢力を吸収する形で発展した後北条氏にも仕え、後北条氏豊臣秀吉によって小田原に滅ぶと、主君・吉良氏の世田谷城も開城したが、代わって江戸に入府した徳川家康に仕えた(このパターンは関東に大変多い(^_^;))。

だから最終的に世田谷の喜多見に所領安堵は、徳川家による沙汰である。
この時、「江戸氏」から「喜多見氏」に姓を改めた。


喜多見氏の名は、九戸政実の乱、関ヶ原合戦大坂の陣にも顕れ、元和元年(1615年)に近江国郡代。翌年(1616年)堺奉行。茶人も輩出し、徳川五代綱吉の寵臣となって、天和3年(1683年)には旗本から譜代大名に出世。2万石の喜多見藩を持つまでに上り詰め、築城費を綱吉から与えられ、貞享2年(1685年)には綱吉の側用人となる。

が、城の落成を待たず、元禄2年(1689年)突然改易され、断絶した。
改易の理由は不明で、表向きは一族の中に近親同志で刃傷沙汰があったとされている。
が、将軍綱吉の生類憐みの令に苦言を呈し、綱吉の怒りを買っての失脚を指摘する説もあるという。
ただ子孫は松前藩に仕え、家名は続いた。

このように、江戸氏は早くも鎌倉末には没落し、土地に永らえられぬほど衰退したのに、後北条氏の戦国時代まで何とか生き残り、江戸期も続いた。
戦国時代を待たずに滅亡し、江戸期に名の知れた子孫らしきとの繋がりすら不明になってしまう豊島氏との大きな違いと言える。

その一方で、突然の改易を、刃傷沙汰を起こした身内の不肖を問われたかのように伝えられ、平将門新田義興の伝説で、問題があったかのようにイメージされる。

こうして、いつのまにか豊島氏と江戸氏は、光と影を交互に描く関係となりながら、関東史に溶かされ、後北条氏に、徳川氏にと、土地主の座を譲っていったように思う。

<つづく>