ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

横糸-3「鎌倉公方2代(小山氏の乱)~4代(上杉禅秀の乱)」

又々かなり間が空いた(^_^;)ゞ。
去年はあれから、例によって確定申告の時期に突入したので更新が止まっていた。

前回話した通り、これよりいよいよ「上杉禅秀の乱」から始まる関東の動乱期(~「永享の乱」~「享徳の大乱」)に入るっ!(`・ω・)=3 *鼻息*

先にあんちょこを言うと(^。^)、この先の動乱は、鎌倉公方足利氏関東管領上杉氏の戦いである。

上杉氏については、関東における登場の前史として、

横糸-1「室町初期・上杉氏の事(観応の擾乱と武蔵野合戦)」

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」でざっと述べた。
(今読み返すとだいぶ雑な文だったと思う、急ぐとロクな事ないわ、ごめんね(^_^;))


対する鎌倉公方については、わりと深く掘り下げて語らねば、この先の長い動乱話には、とてもついていけないと思う(^_^;)。

てわけで、今回は横糸編第三弾として、鎌倉公方2代~4代までを通して語る。


鎌倉公方というのは、

   
在位
生没
初代 基氏 1349~1367年 1340~1367年
二代 氏満 1367~1398年 1359~1398年
三代 満兼 1398~1409年 1378~1409年
四代 持氏 1409~1439年 1398~1439年
五代 成氏 1449~1455年 1434?~1497年


こんな感じ(^^ゞ。

最後の5代・成氏は、享徳の大乱の最中に、鎌倉(神奈川県)から古河(茨城県)に関東公方の座を遷したので、そこから先は「古河公方」と呼ばれ、これまたその子孫が、成氏を初代として5代(政氏・高基・晴氏・義氏)まで続く。

豊島氏太田道灌に敗れて滅んだのは、成氏の古河公方時代である。


(1)二代・氏満

上に出した鎌倉公方5代の表に対して、これまで追いかけて来た豊島氏の経過はどう相対してるか……。

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」
で書いた通り、↓

応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を起こし、敗退の上、崩壊。
所領地は、関東管領・上杉氏に没収された。

この時の豊島氏への処置がどうであったかは判らないが、30年以上も後になって、所領地が戻されたようなので、連座とされたんだろうと思う。」

↑こうですな。
つまり、初代・基氏が既に亡く、二代・氏満の代に入ってスグ、連座で所領地が没収された事になる。

……ここで訂正事項。
上の赤い文、「30年以上も後になって」と書いてるが、後の調べで、
「応永2年(1395年)になって同郷を還補(げんぽ = 所領返却)」
と判ったので、正確には「27年後」の返還であり、「30年近くも後になって」と言うべきだった(^_^;)<スイマセン
(元の文章の方も直しを入れておきました)

つまり、二代・氏満の代になって没収され、同じく氏満の代の内に返還もされた事が判る。

じゃあ氏満個人の意思が介在してるかと言うと、鎌倉公方に就任した時の氏満は9歳である(^_^;)。

当時の9歳は、今よりずっと大人びていたとは思う。
公方とか執権、管領といった家の幼君が、驚くような発言をするシーンが当時を記す史料や軍記に出て来るのを目にする(^_^;)。
今の子供の倍ぐらいの精神年齢だったかもしれない。

ただ、裏で補佐する大人の家来なり執事なりがいるから、そういう発言や行動が出来たのだろうし、誇張して大人っぽく伝えられてる部分もあるだろうとも思う。
すると鎌倉公方の場合、関東管領上杉氏か、或は奉行衆あたりの補佐で、没収や還補の決定や手続きが行われたのだろう。

関東管領というのも、血筋・家柄が何より大事な点、京や鎌倉の公方と何も変わらない。
だから、職に就く年齢がかなり幼い事もある(^_^;)。
その場合は、上杉家の執事が補佐するわけで、これは上杉禅秀の乱永享の乱享徳の乱にも重い影を落としていく事態になってゆくが、それはまだだいぶ先で……。

……今の所は、上杉禅秀の乱が起こる4代・持氏までの就任年齢や期間について、少し深掘りしておくに留めるにしよう。

まず、初代・基氏は9歳で鎌倉公方になり、18年間在位し、27歳の若さで亡くなる。
二代・氏満は、8歳で就任。31年間の長きに渡った後、39歳で亡くなる。
三代・満兼は、父氏満の長期政権を受け、20歳で就任。11年在位し、31歳で没。
四代・持氏は、父満兼の短命の後、11歳で就任。30年を経て、41歳で死去。

ここまで4代の中では、持氏が一番長生きだが、前三代が病死と思われるのに対し、永享の乱に敗れ、自害に至った点が、前三代との大きな違いである。

これより書こうとしてる「上杉禅秀の乱」は、この4代・持氏の時代に起こる。
これはさっきも言った「鎌倉公方足利氏関東管領上杉氏の戦い」の始まりと見れる。
犬懸上杉氏と山内上杉氏の違いは、そう大した違いと捉えない。犬懸上杉の子孫は、この乱の後もずっと上杉陣営に属しているからである)

この二氏のぶつかり合いは、「上杉禅秀の乱」が初めてではなく、二代・氏満、三代・満兼は、九州の大内氏の叛乱と通じ、南北挟み撃ちで京の幕府・足利宗家を倒す計画を持ち、どちらも時の上杉氏に諫められ、断念している。

(氏満と満兼がそれぞれ計画したと言うより、氏満の晩年に計画があり、大内氏とも通じていたのが、氏満の死去によって、その子の満兼が父氏満の野望を継いだと見られる)

ただ、ここまでの所、鎌倉公方管領上杉との間に、特段な武力衝突までは起きておらず、氏満の野心に対しては、上杉憲春切腹をもって諌止し、この事件が京に知らされるに至って、氏満は計画を思いとどまらざるを得ず、京の将軍・三代・義満に野心が無い事を書き記し、これを義満が了承して事なきを得た。

上記は、京幕府や京管領、あるいは各守護や宗派同志の対立と連動した動きに類するのだが、鎌倉は、その時々の動乱に乗じようとするだけで、他の勢力と深い経緯があるわけじゃないので、あらすじに留めた。
詳しい背景は「康暦の政変」(1379年)で検索して貰えれば(^^ゞ。

通常の通史だと、ここで次の満兼の代にスッと行くのだが、関東史…とりわけ豊島氏についてとなると、この辺りで「小山氏の乱」(1380~1397年)に触れておくのが適当だと思う。

(昔はこれを「小山義政の乱」(1380~1382年)と言ったが、その後、義政の子・若犬丸の代にも乱が継続されたと見なされ、「小山若犬丸の乱」(1386~1392年)が追加計上されたため、父子二代を「小山氏の乱」と総称するようになっている)

小山氏の乱は、小山氏宇都宮氏の対立に端を発する。
両者の亀裂は、元は領国の境界争いが発端と言われる一方、「下野守」をどちらが拝命するかというライバル関係にも所以はあった。

小山氏は、平将門を討伐した藤原秀郷の後裔である。
平安期までは、同じ秀郷流の奥州藤原氏藤姓足利氏に見劣りの感があったが、前者が滅亡し、後者も衰亡する中、早くから源頼朝に追従し、その乳母・寒河尼を娶った経緯もあって、鎌倉御家人の地位が確立すると、小山氏が秀郷流一位の上位に躍り出た。

対する宇都宮氏も、古くから下野国に続く名族で、小山氏に見劣りはしなかったが、南北朝の争乱においては、南朝に加担する要素が強かったため、室町時代の幕開けにおいて、小山氏に遅れを取る状態にあった。

宇都宮氏と小山氏はこうして互いに、足利氏に認められようと一進一退のしのぎを削り合うライバル関係になった。
宇都宮が優勢になる時もあれば、小山が優勢に出る時もあった。

ただ、小山義政が三代将軍・足利義満のお気に入りだったため、全体としては、小山氏がゆとりを見せる場面が多かった。

一方、関東管領の上杉氏は、尊氏の弟・直義派であったがために、尊氏とは最後まで仲たがいの間柄に終わった。

鎌倉公方初代・基氏の代は、兄の二代将軍義詮と揉め合う関係はないが、唯一、鎌倉が京幕府と対立的と見られるのは、尊氏と敵対した上杉氏関東管領に据えた事である。
父・尊氏が死ぬと、その子の基氏は上杉氏の力を頼り、関東管領の座に座らせた。

基氏が、上杉憲顕関東管領に就けさせようとした時、これを宇都宮氏綱が反対したので、基氏は宇都宮氏を攻めて降伏させている。

上杉氏はしばらくの間、京の幕府にとって気を緩めない相手だったが、基氏の子・氏満の時代も、氏満体制を支えた関東上杉氏では、上杉憲顕の子・憲方や、その弟の憲春も、この基氏の体制を引き継いでいく。

つまり宇都宮氏に対しては、京・鎌倉の足利陣営は共に討伐モードにあり、こうした全ての諸事情が、小山氏にとってライバル宇都宮氏を蹴落とすのに優位だった。

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀)
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定-憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

ところが先に見た通り、二代目の氏満は、比較的、在位期間の長い鎌倉公方となり、大人になるに従い、上杉が全権を握るこうした体制に不満を持った。

さらに、さっき話した「康暦の政変」(1379年)が起き、氏満は、京将軍の義満に、戦にもならぬ内に一方的な敗北を認めさせられてしまった。

そのため、義満に可愛がられている小山氏に対し、宇都宮氏を贔屓にするようになっていく。

氏満は、まず宇都宮氏と小山氏の双方に武力行使を制止した。

この禁を先に破ったのは小山義政で、宇都宮氏の領内に侵入。裳原合戦(1380年5月)となり、当主の宇都宮基綱戦死に至った。

同年6月には、この小山義政に対し、氏満が討伐軍を起こし、さんざんに小山を攻め、9月には小山義政からの降伏の使者が送られる。

氏満は降伏を認めて兵を引き上げたが、小山義政謝罪に来なかったので、氏満は翌年(1381年)1月に再討伐の軍を起こす。

……この辺りまで、小山義政は、鎌倉公方を舐めてた感じ(^_^;)。

そもそも、小山義政がなぜ禁を破って宇都宮氏との交戦に及んだかと言うと、やはり京の将軍・義満と親密である事に自信が深かったからだろう。
他の関東武士らが、「康暦の政変」で将軍に謝罪させられた鎌倉公方・氏満の心中を察して、京幕府への貢馬を見合わせる中、小山義政だけが堂々と続けた。

鎌倉に討伐軍を起こされて敗れたものの、小山義政の見立てでは、わざわざ鎌倉に謝罪に行かなくても、義満の使者あたりが執り成してくれると思ってたフシがある。
長い間、宇都宮氏に対して余裕を保ってきたし、鎌倉公方の氏満は上杉氏に牛耳られてる感もあった。

それら全ての見立てが甘かった。。

外野戦が繰り広げられ、小山氏の数々の城でも戦いが起こる中、義政は鷺城に籠もったが、ここも攻め込まれ、12月には再び義政から降伏の使者が発って、今度は義政が出家する事になった。
小山氏の城は悉く鎌倉方に接収され、義政(永賢と号す)は祇園に移った。

永徳2年(1382年)3月、義政は祇園城に火を放って脱出。
糟尾(下野国)山中の城に立て籠もったが、ここも攻められ、4月、義政はついに自害に及んだ。

しかし義政の遺児・若犬丸は逃亡し、4年後の至徳3年(1386年)、突然戻って来て祇園城を占拠した。
鎌倉軍が討伐に向かい、下野国下総国の境にある古河で戦闘。

若犬丸は下野、下総、陸奥で抵抗を続けたが、さらに11年後の応永4年(1397年)、会津自害
若犬丸の二人の遺児は、武蔵国六浦(横浜市)で処刑され、家系は断絶した。

鎌倉公方に攻められ、三度も敗れたあげく自害に追い込まれた義政を、義満は助けようとしなかった。
鎌倉に対して咎めた話も聞かない。
つまり小山氏三代は、京将軍義満と京幕府に見捨てられたのだ。

これに対して、一族を全員死に至らしめた氏満の執念は凄まじい。
小山氏を三代に渡って滅亡に追いやるのに、朝廷や将軍のお墨付きを貰った形跡も聞いた事が無い(^_^;)。

南朝だったわけでも、観応の擾乱で敵対しあったワケでもないから、そうした許可が出ないのは当然なんだが、全くの「私戦」で片づけ切ってしまった(^_^;)。

小山氏滅亡した。
その後の関東史に名の続く「小山氏」は、鎌倉期に小山氏から分家した「結城氏」から養子を出して継がせたような形にして、小山氏の領地を引き継ぎ、小山氏の当主となりかわって家臣らの命脈を繋いだのであって、元の小山氏から見れば遠縁に過ぎる(^_^;)。

小山氏を滅亡にまで追いやった理由を、「鎌倉足利の間を確保するため」と見立てる専門家がおり、私はこれが一番「現実的足利氏の意図」ではないかと思っている。

足利鎌倉の間や周辺に位置する小山氏・豊島氏の位置

左上「足利邸跡」に現在は「鑁阿寺」があり、ここは元、足利氏邸の跡地として、後世は寺となり、足利氏先祖の墓所として中核的位置にある。(赤色)

その遠からぬ位置に、小山氏の「鷺城」「祇園」がある。(青色)
乱の最中は小山父子が、下野国の山野に立て籠もったり、隠れ潜んだりもしたので、足利やその近隣まで余波が及んだかもしれない。

さらに、足利氏の先祖地と鎌倉公方の居する鎌倉御所地のちょうど中間地に、豊島氏の「石神井」「練馬城」がある事がお判り頂けるかと。(黄色)

前も出した「新田義貞の鎌倉行軍ルート」も比較対象として再提示 

下野国足利(古くは足利荘)」は、京幕府と鎌倉公方の双方にとって「出身の地」であり、「苗字の地」「先祖墳墓の地」である。
ここと鎌倉を思うように行き来できない事、そしてその足元を見るような地方豪族の傲慢不遜な態度は、足利氏(京・鎌倉)の総意として抑え込んでおく必要があったのではないか。

(江戸期も、時の将軍の日光参拝の各街道は実に注意深く警備の配慮がされ、それが幕府の安定要素たりえた。将軍の先祖墓参には、そういう意味あいがある)

豊島氏に旧領が返還された、応永2年(1395年)が、小山若犬丸の長い抵抗(1386~1397年)の最終段階に当たる。

勿論、豊島氏への還補と小山若犬丸の討伐に関係があるかは判らない(^_^;)。
しかし私が今回ブログを起こした理由は、前も述べた通り、「東京に居ては目が向かない周辺史から、豊島氏の面影を追う」事にある。

これが「小山氏の乱」に長く言及した所以である。
この先、豊島氏が滅ぶまでの間、特に北方との地勢関係に目を向ける意識は重要だと思う。

鎌倉公方二代・氏満は、若犬丸を滅ぼした翌年(応永5年・1398年)に死去した。


(2)三代・満兼


次の満兼の代になって、いよいよ大内義弘が叛乱(「応永の乱」1399年)を起こすが、京の幕府に察知され、大内義弘は上洛させられて尋問を受け、京幕府と京管領の討伐軍によって、逗留していた堺城を攻められ、20日余りで陥落、義弘は戦死した。

満兼はこの乱に加担しており、その証拠すら残っているが、大内義弘の早々の敗死によって継続達成を断念せざるを得ず、関東の動きを察知した京幕府に問い合わせを受ける羽目となった。

この時、京幕府と鎌倉の満兼の間に入って両者を調停したのが、山内上杉憲定だった。

と言っても、時の関東管領は憲定ではなく、犬懸上杉朝宗上杉禅秀の父)だったが、憲定の山内上杉氏は宗家にあったので、京の義満に対して、知己も上手に事を収める信頼も得ていたと考えられる。
その一方で、鎌倉の満兼に対しては、諫言して、聞き入れさせるだけの力も持っていた。

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀)
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定-憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

上杉憲定は、義満からは書状で指示を与えられ、満兼には武蔵国の陣を解かせる事に成功している。
結局事態は、満兼が義満に謝罪文を書いて届ける形で無事を得た。

(……ちなみに、京の将軍は既にこの乱の5年前(1394年)に、四代・義持が就任しており、当時を伝える履歴に義持の名が顕れる事もあるが、実権はその父・義満(三代)に掌握されていたと見られ、京側の意思決定の主体は義満にあったと考えておく)

鎌倉公方の歴史を見ていると、なぜそんなに京将軍を凌ごうとするのか、その熱意の強さに驚く(・・;)。。

祖父と父の二代に渡って京に謀叛を企んだが、二度とも上杉氏が諌死したり、調停に入って執り成して、せっかく無罪を勝ち取ってるんだから、もうやめとけばいいような気がするんだが、四代・持氏も、又々物凄く京将軍にライバル心メラメラの鎌倉公方へと成長するのだ(汗)。。

個人的には、鎌倉公方がそのように京宗家の将軍に対抗していく根拠に、鎌倉(関東)よりさらに北の奥州との軋轢がありそうに思っている。

この応永の乱が起こる前年(1398年)、満兼は、自分の弟二人陸奥国の二ヶ所に派遣させた。
一人は満貞で、福島県須賀川市に「稲村御所」を設立。
もう一人は満直、同県郡山市に「篠川御所」を設けた。

これは小山若犬丸会津に滅んだ翌年だから、若犬丸の潜伏を長年に渡って許したのは、奥州に匿う勢力があるから、という推測があったのかもしれない。

若犬丸は常陸国小田氏宍戸氏に匿われた。さらに北部の佐竹氏なども怪しい。
小田氏はその罪を鎌倉府に問われる羽目になったにも関わらず、若犬丸は捕まらずに、さらに奥州に逃げ延びている。
表向きは鎌倉の討伐軍に協力しながら、裏では若犬丸を逃がした勢力があったと見る方が自然だ。

若犬丸は自害し、小山氏は滅亡に至ったが、二度と再びこのような謀叛人を出さないためにも、奥州に抑えの連枝(身内)を送り込んでおく必要性はありそうだ。

ところで、京将軍・義満は、二代に渡る鎌倉公方の謀叛の企てに、流石に警戒を強く持ったようで、乱の二年後(1401年)も「関東調伏」を祈念するなど、心を許さぬ様子が濃い(^_^;)。

それゆえか、乱の翌年(1400年)には、この二つの陸奥御所に対して、伊達政宗蘆名満盛ら、奥州大名の陰謀が露見。
この陰謀劇が、どうも、京の義満の差し金であったらしく(^_^;)、義満は奥州の在地勢力と挟み撃ちの形で、鎌倉を牽制する策に出たようだ。

企ては失敗したと見え、二氏は逃亡したが、稲村御所・満貞がこの退治を、結城白河満朝に命じている。
満朝は満兼に感状を得ているので、奥州征伐に向かってある程度の成果を認められたのだろうが、満兼はその2年後の応永9年(1402年)、改めて本格的な奥州征伐隊を送っている。

この征伐軍を指揮したのが、関東管領犬懸上杉朝宗の子・氏憲……すなわち、後の上杉禅秀である。

このように宗家の山内上杉氏に対し、分家とは言え、犬懸上杉氏朝宗関東管領職に就いており、その子・氏憲(禅秀)も、このような奥州に大規模な軍事活動を経て、東国における大きな影響力を持つ系譜となっていく。

鎌倉公方三代・満兼は、応永16年(1409年)に病死した。

死去の直前、新田義貞の孫・貞方が決起を企てている事が露見し、満兼の死後、貞方は鎌倉で千葉氏に捕らえられ、嫡子と共に斬られた。

南北和合を経た後も、南朝の分子が隠れ潜み反撃を企てる可能性を排除できずに来た。
足利氏がこれと対峙するには、東西の公方が争い合うを避け、協力しあう必要はあった。
が、ここに南朝新田氏は滅び、その必要性が消えた。


(3)四代・持氏


京将軍・義満の死去が応永15年(1408年)であり、一方の鎌倉・満兼はその翌年(1409年)に亡くなっているので、ここで京・鎌倉ともに、新公方にチェンジ。

京は四代・義持、鎌倉も四代・持氏をそれぞれ主に迎える。

ただし義持の方が12歳年上である。それを言うと、その父同志も、義満の方が満兼より20歳年上だった。(満兼の父・氏満は義満より一歳年下で、世代としては合っていた。)
こうした経過で、常に鎌倉公方の方が京将軍より年下で、幼少期に公方になる傾向も強いため、こういう事も、鎌倉では関東管領の強さが際立っていく事情に関係してたかもしれない。

年齢の話をすると、実は上杉氏においても内部に世代の差が出来ており、11歳で新鎌倉公方となった持氏の意識に影響したのではないか、と思っている。

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀)
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定-憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

山内上杉憲方(1335~1394年)には、憲孝(1366~1394年?)という嫡男が居た(系図から省いててスイマセン(^_^;)ゞ)が、管領職を譲って二年で憲孝が死去してしまったため、犬懸上杉朝宗(1337~1414年)が代わって関東管領の座に就いた。

朝宗は憲方と同世代。
朝宗の子・氏憲は生年不詳(?~1417年)だが、憲孝とほぼ同世代だろう。

憲孝の弟・房方(1367~1421年)も同世代だが、これは越後の上杉氏を継いでいる。
この時代、まだ南朝新田氏は各地に潜んでおり、その強固な地盤である越後を守る事は重要視されていたに違いない。

その次の弟が、憲定(1375~1413年)で、二人の兄に比べてグッと年齢が若くなる。
むしろ満兼(1378~1409年)と同世代と言える。

憲定の子・憲基(1392~1418年)と、鎌倉公方の満兼の子・持氏(1398~1439年)も、そこそこ同世代と言える。

憲孝が若くして死去した時(1394年?)、歳が離れてるとは言え、憲定は20歳には達していた。
管領に就くに不足ではなかっただろうが、犬懸上杉朝宗が就任したのは、鎌倉公方二代・氏親、三代・満兼の信任が厚かったためと推察できる。

朝宗も宗家が山内上杉氏である事を軽く見てなかったから、自分が辞した後は、山内の憲定に管領職を譲ったのだろう。
そして満兼の死を受けると、自身も出家隠遁している。(もっとも72歳の大長老になってたが(^_^;))
二代の公方が見込むだけの人物だったように思う。

ただ、その子の氏憲になると、前公方の満兼までは、奥州に派遣するなど信頼の度合いが感じられるが、持氏の代になると、時の管領は山内の憲定になっていた。

先述通り、父同志(満兼・憲定)、子同志(持氏・憲基)が同世代という見方が、持氏の世代には通常運転に感じられていただろう。
それが突然、憲定が管領職から失墜し、かなり年嵩に感じられたであろう犬懸上杉氏憲が代わって関東管領に就く、という出来事に会った。

これには持氏の叔父、満隆(稲村御所や篠川御所とはまた別の満兼の弟)が謀叛を疑われた事件が関係すると見られている。

持氏はこの時、まだ幸王丸と呼ばれる少年で、政務を執るには未熟だったので、後見役だった伯父の満隆が実務に当たっており、これと犬懸上杉氏憲(禅秀)は近しかった。
以後、満隆と氏憲の二人体制で、鎌倉は当面を進ませていた。

応永19年(1413年)、前管領山内上杉憲定が死去。持氏15歳。
同21年(1414年)、前々管領犬懸上杉朝宗が死去。持氏16歳。

満兼時代を支えた関東管領は、こうして世を去って行き、持氏は成長してゆく。

その間、応永20年(1413年)、奥州の伊達氏に反乱の企てがあると知れ、持氏は畠山国詮を討伐に出し、年末には結城白河氏にも軍勢催促を出した。

伊達氏は籠もっていた大仏城をすぐ撤退したが、結城白河氏が参戦してなかった事を持氏が咎め、戦勝し凱旋してきた畠山氏にも、戦況の遅滞を理由に出仕禁止を下す。

奥州に御所を設えて奥州勢に備えているはずの、稲川御所・篠川御所の動向は聞こえず、伊達氏の謀叛に機能してた形跡も判らない。

さらに同年、甲州にも反乱勢が現れたようで、武州一揆中に持氏からの軍勢催促が出されている。

こんな流れの後に、応永22年(1415年)、いよいよ上杉禅秀の乱前哨と言える、持氏による越幡六郎所領没収事件が起こるのだ。

……続きは次に送るが、ここまでで一つ首を傾げるのは、やはり討伐に出した畠山氏が戦勝して戻ったにも関わらず、持氏に出仕禁止という極めて厳しい処分を下されてる点かと……(^_^;)。

これが持氏の公方就任初期から抱えた「鎌倉府の困難」に原因するのか、持氏「個人の性格」に起因するかは何とも言えない。
が、上杉禅秀が次回に起こす乱で、歴代の鎌倉公方の野望を、歴代の関東管領が処して来た前例を、明らかに逸脱する事を予告して、今回は終わろう。

<つづく>