ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」

今ごろの夏休みで、しばしお休みモードで過ごした(^_^A)。
GoToトラベルにイートに商店街だの、経済政策が取られてるが、どうもこのコロナ禍で、仕事でもないのに県外を超えての移動……というのに違和感を覚えて、県内ドライブに留めてしまったが(^_^;)。。

さて、ブログ続行(`・ω・)

>ところが、武蔵国に関してはそうではなかった(・・;)。。
>いや、むしろ、ここから試練が始まった、と言っても過言でない。

↑そう、ここからだった。
頼朝の死後は、妻・政子の実家・北条氏が、ガチッ└(`皿´)┘と幕府の権力を握り始める。
この北条氏に目を付けられた場所……それが、武蔵国(埼玉県・東京都)なのだ。

まず、この時期の豊島氏を先に振り返ってみよう。

建仁元年(1201年)には、豊島氏は土佐国守護に任じられたようだ。
時の当主は朝経なので、任じられたのも彼かと……。
が、この朝経は、建仁3年(1203年)に比叡山の僧兵と戦って戦死した……と、wikiにはあるφ(。。)m。

まず、土佐に行ったかどうかだが、このぐらいの時期は、葛西氏の例でも話した通り、代理の誰か(支族や家臣)を行かせて、本人は鎌倉にいた例をよく見る。

ただ、その二年後に比叡山に行かされてた事を見ると、畿内・西国に居たか縁があって、出兵させられたのだろうか?

この、建仁3年の「比叡山における戦死」というのは、恐らく同年に起きた、学生(がくしょう)と堂衆の諍いが合戦に発展した事件じゃなかろうか。

堂衆とは、寺院に仕え、雑役や下働きをこなす段階にある下級僧たちで、平安末ごろは大層な力を持つ存在となったものの、延暦寺ではあくまで学生が上位の姿勢を取ったため、堂衆側の反発から暴力沙汰が起こり、両者の対立となった。

この、畿内周辺における比叡山延暦寺だの興福寺だの園城寺だのは、しょっちゅうこういう騒動を起こして、そのたび、平家や源氏が武士を派遣させられては、神矢に触っただの神輿をどかしただのイチャモンつけられ、一方的に不利を被る図式は、鎌倉幕府が出来てもしばらく続いた(^_^;)。

この時は、堂衆側が荘園よりの勢力を駆り、一方の学生側には上層部の加護もあって官軍が投入され、合戦騒動が長引いた。
官軍と言っても、平家が滅亡してるから、こういう場合に武力を貸してくれるのは、鎌倉の幕府から派遣される武士か、のいわゆる北面の武士みたいな人々ではないかと……。

豊島氏が堂衆側についたり、学生側でも「院の北面云々」というのは、ちょっと想像が及ばないので(この時期だと有り得なくはないが(^_^;))、まぁ幕府から行かされたんじゃないかと思う。

堂衆らは、高所から矢を射たり落石したりで戦死者が出たというから、その中に豊島朝経も入ってたのかもしれない。

この時期を、関東(鎌倉)における時代背景、わけても、武蔵国(埼玉県・東京都)をめぐる状況に照らして、さらに見て行こう。

実は、この事件の4年前、建久10年(1199年)に源頼朝が死去している。

頼朝の跡を継いだのは、頼朝の長男・頼家だった(二代将軍)。
頼家には、乳母の比企氏一族がベッタリ張り付いて、頼家の妻に乳母(比企尼)の孫娘が宛がわれたりして、北条氏の二番煎じ路線を突っ走っていた ε=(┌ ̄_)┘
頼家に対して、その母・北条政子ですら介入しにくくなった程だ。

……というストーリーの果てに来るのが、北条氏が主導で行われた「比企氏の乱」である。(wiki見ると「比企能員の変」となってる。今はそう呼ぶのかも(^^ゞ)

この辺の話は、きっと再来年の大河ドラマ鎌倉殿の13人」で詳しく描かれるんじゃないかと(^。^)<お楽しみに

ここでは結果だけ書く(笑)。
要するにこの時期の闘争は、北条氏が、思い通りにならない頼家を廃し、頼家の弟・実朝(三代将軍)を擁立して、外戚としての実権を取り戻そうとする図式にある。
(頼家の乳母勢力は比企氏、実朝は北条政子の妹夫婦と、比企VS北条の構図があった)

勿論、十三人の合議だとか、梶原景時御家人らが追い出したあげく討ち果たした件などからわかる通り、比企氏や頼家の主導する二代目政権への不満が、御家人全体に鬱積してたのは事実だろう。

(……もしかしたら、豊島氏が比叡山の鎮圧か警護に行かされたのも、頼家の恣意的・強権的な言動から出た命令だったり……?)

だから、頼家に不満を持つ御家人らの意見を巧みに吸い上げた結果、北条氏の実権存続へと繋がった事、これも恐らく間違いなかろう

殆どについては、それで説明がつくのだが、一つだけ首を傾げるのが、その後の武蔵国の仕置きじゃないかと、個人的には思う(^_^;)。

これも結論から言うと、武蔵国の名だたる豪族は次々と始末され、その跡地はドンドン北条氏の権益下になっていったからだ。

秩父神社
古代・知知夫神に、秩父平氏妙見信仰を併せた武蔵国の総鎮守f:id:potatun:20201026160800j:plain

まず比企氏は、武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族だった。藤原秀郷の子孫であるらしい。
……ちなみに、この秀郷流というのも、とんでもなく北関東じゅうに広く多く根を張っており、いかに平将門の討伐が関東にとって大きな功績だったか、を物語り得る。
余談はこの程度にしておこう(話すと長くなる(^_^;))。

この「比企氏の乱」の起こった建仁3年(1203年)が、先ほど、豊島朝経が比叡山で戦死したのと同年なのだ。

疑り深い見方をすれば、武蔵国の動乱に関係しそう者を、遠い場所に行かせている最中だと、いっそ比企氏を滅ぼしやすい、と見えなくもない(・・;)。
(例えば、房総の上総広常が討たれた時、同族の千葉氏は平家や源義仲との戦に駆り出されて遠ざけられている)

何しろ、その比企氏を滅ぼしてしまうと、武蔵国の北部(埼玉県)の大きな地域が、ポコリと空いて、そのさらに北部に所領を持っていた畠山氏が、今度は大変に目立つ存在に見えて来る(^_^;)。

畠山重忠は、先に義経がらみで河越氏がどかされた後、河越氏の遺領を任されていた。
埼玉県の中央を、北部が畠山と熊谷、中部を比企、南部を河越で分けていたと言えば、わかりやすいだろうか。

この当時は、まだ一円支配の時代じゃないから、勿論そんな単純じゃないけど、だいたい今言った感じで見ると、武蔵国北部(埼玉県)において、比企の遺領分を、畠山氏が取り巻いてるような具合になる(^_^;)。

吾妻鏡』では、畠山重忠滅亡劇を、畠山重忠の子・重保と、平賀朝雅の口論を原因としている。
平賀朝雅の妻が、北条時政(政子の父)と、その後妻・牧の方の間に生れた娘だったので、北条氏は平賀の肩を持って、畠山氏に武力攻撃を加え、重忠一家を滅亡させた。

ただ、この時政や継母・牧の方のやり方に、政子・義時の姉弟は心から納得したわけではなく、畠山重忠を討ち取った後、義時は他の御家人たちと手を組んで、突然、実父・時政と継母・牧の方を相手にクーデターを起こし、父母を追放する。

これらを、北条氏に都合の良い脚色か捏造のように言う向きも無くは無いけど、私は、だいたいこういった事は本当にあったんだろう、と思っている(^^ゞ。

ただ、河越氏や比企氏を屠った時の状況に比べると、この畠山氏の滅亡劇については、畠山氏本人に討伐されるべき要因が見当たらず、さらにこの一連の事件で、連座的に立場を追われた人物に、武蔵国関係者の関与が濃厚な点など、首を傾げる所が多い。

武蔵国関係者」というのは、一人は、畠山重保と口論したという平賀朝雅で、武蔵国国司であった。
畠山重忠の乱には、この平賀朝雅→平賀の妻→平賀妻の生母・牧の方(北条時政の後妻)→北条時政と、讒言リレーがあったと想像され、そこから討伐が決定されている。

当然、平賀自身も畠山重忠の乱には、北条側として参戦しているが、元を辿ると、平賀朝雅の母は、比企尼の娘であり、疑えば、この平賀氏と北条氏の婚姻からして、武蔵国における比企氏遺領を狙う北条氏の意図を感じなくもない。

さらにもう一人、稲毛重成の関与が怪しい。
稲毛重成は、畠山重忠の叔父(重忠の父・重能の弟)で、重忠が河越氏・江戸氏とともに、長井の渡しで頼朝軍に参加した時、稲毛重成も一緒に参加した。

稲毛重成は畠山重忠の討伐に先立って、畠山重保(重忠の子)を闇討ち同様に大勢で取り囲んで殺そうがため、重保を武蔵国から鎌倉へと誘い出している。
剛勇で知られた重忠も、この嫡子の突然死によって、逃亡や籠城を選択せず、潔く散る事を覚悟してしまう。

又、稲毛は、「畠山重忠が謀反を企てている」と讒言を振りまいたとも言われる。

そして、その畠山重忠がおびき出された二俣川で、多勢に無勢で討たれた直後、畠山重忠に謀反の形跡が無かった事が判明するや、稲毛重成は、北条義時らと示し合わせた三浦義村に、その夜の内に討ち果たされてしまう。

さらに、平賀朝雅も、時政後妻・牧の方が、実朝を殺して新将軍に就けようと企てたカドにより、時を置かず、在京中に鎌倉の手の者によって討たれた。

この稲毛重成も平賀朝雅も、そして畠山重忠も、北条時政の娘を妻に得ている。
稲毛重成になると、甥の畠山重忠の跡地でも保証されて、無実の甥・重忠抹殺に加わり、口封じのため、その日の内に消されたのかとすら思えてしまう。

ただ残念ながら、この武蔵国をそっくり北条氏に明け渡すかの如く、一連にして一瞬の騒動は、印象としては、そう大きいものでもない感じがする(^_^;)。

なぜと言うに、初代・頼朝生前の上総広常に始まり、特にその死後、二代・頼家の幽閉と暗殺から三代・実朝政権になっても尚、梶原景時阿野全成、比企一族仁田忠常、二代将軍・頼家畠山一族北条時政夫妻和田一族、さらには三代将軍・実朝、その甥・公暁と、次々と追放され、粛清され、暗殺されてゆく劇の一コマに過ぎないからだ。

ただ、武蔵国における、秩父平氏らに、河越や畠山の獲得した地場が戻った形跡は皆無である。
畠山重忠の謀反が冤罪であった事を、北条義時が父・時政を追放してまで証明したと言うのに、畠山氏は滅亡し、その縁類に領地を引き継がせる処置は取られてない。

辛うじて、「畠山」という苗字のみ、畠山重忠夫人だった政子の妹(義時の姉妹)が、足利氏庶子に嫁いで、そこに継がせて、室町以降まで名を響かせたが、これもその後の流れから見ると、畠山重忠が片付けられた一瞬に決した、その余韻と言えよう。

武蔵国北条氏に目を付けられた、それが、その後のあらゆる点に影響してゆく。
この事は、このあと江戸時代に至る頃まで、この地に長く残存した構図として、記憶に留めて損は無いと思う(^_^;)。

秩父神社・境内。神社は「夜祭」で有名f:id:potatun:20201027071950j:plain

ちなみに、この畠山討伐については、葛西清重の名も先頭を切った部類に見えるので、当然ながら勝ち組に属したと言えよう。
同族の豊島氏も、ほぼ同じような立場ではなかったかと……。(朝経の戦死後、間もないので、動きは無かったかもしれないが)

承久の乱(1221年)でも豊島氏は幕府軍にあり、一族らしき名が見られる。
……先ほど、比叡山の学生×堂衆の騒動で、豊島氏戦死の疑問を話したが、承久の乱を経た後は、幕府も京に六波羅探題を設置したので、ここから鎮圧の武士を遣わす連絡機能を果たしただろう。

次回は、いよいよ南北朝に行けるかなっ(^O^)

<つづく>