ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」

8ヶ月以上も経ってしまった(^_^;)。
確定申告は4月には終わったが、残務片付けなどで5月が瞬く間に過ぎ(笑)、半年ぶりにここを開いて見た所……、
何を書こうとしていたか、すっかり忘れた

そいで、時間を作って、今まで書いたのを読み返そうとしたが、まとまった時間が取れず、又、前の集中力を取り戻す体力も減ってしまった気がする(笑)。

ただ、前回の最後の方で、鎌倉公方の初代・基氏が京から鎌倉に下向する所で、

が、実はそれまで鎌倉には、基氏の兄・義詮(千寿王)がいて、この義詮を「初代」に充てるべき、とする学説もある。
(次回、この「初代・義詮(千寿王)」の頃の鎌倉についても、ちょっと振り返れれば、と思う。今回は、ひとまず「上杉氏」に関わる話を優先する(^_^;))

↑と書いてあるのを読んだら、ウッスラと書こうとしてた一端を思い出したので、まずは、ここから取り掛かろう。(ナントいい加減な(^_^;))

義詮が居たと言っても、その当時の鎌倉は多分に戦闘や動乱の狭間にあったと思う。
特に前々回、縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」に述べた「中先代の乱」も起これば、後醍醐帝の命を受けた足利討伐隊の新田氏なども襲来する。

勿論、義詮(千寿王)自身は護衛の兵に囲まれて、命に別状をきたす程の目に遭い続けたわけではないかもしれないが、平穏の内に雅な生活を送った、といえる余裕があったとも思えない。

脱線しない内に、本筋の豊島氏に目を転じよう(笑)。
武蔵国に居する豊島氏・江戸氏など秩父平氏らは、これまでに書いて来た通り、惣領格河越氏畠山氏といった、武蔵北部に地盤する勢力の骨子を抜かれてしまった。
それゆえ、鎌倉時代を通して武蔵に勢力を進出させてきた前北条氏に、多くの影響を受けていたと思う。

だから豊島氏に南朝ゆかりの伝承(史実の信憑性はどうあれ)がつきまとうのも、北条残党となって暴れた北条時行に、親和的な要素があったからではないかと、個人的には合点してる。

こうした秩父平氏を中心とした人々が、前回の最後に言った「武蔵野合戦」には、今度は「一揆」を組んで姿を顕わし、南朝+北条残党の側を離れ、足利尊氏の陣に加わっている事が確認できる。

……ちょっと遡って確認させて貰うと(^_^;)ゞ。

観応元年(1350)、尊氏直義兄弟の不和から「観応の擾乱」が勃発している。
関東における直接的な衝突としては、正平6年/観応2年(1351年)の「薩埵峠の戦い」なんかは注目すべきだろう。
この戦いで尊氏・直義の兄弟対決は、尊氏の勝利と決し、直義は囚われの身となり、翌年2月に死去(尊氏方による暗殺とも言われる)。

こうした幕府勢力の分裂を好機と捉え、新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治は、正平七年(1352)10万余騎と称する兵を挙げた。
これが先ほど述べた「武蔵野合戦」で、尊氏が、これを迎え撃つために鎌倉を出立した陣に、豊島氏からも参加があったとされる(豊島弾正左衛門と言うが、系譜のどこに入るかは不明(^_^;))。


このように、足利氏自体、内部分裂を深めて来ていた。
高師直×足利直義の対立図が、足利尊氏×直義となって引き継がれ、直義死後は、直義派に属した外戚上杉氏が引き継いで、この「武蔵野合戦」では、ついに、足利尊氏×上杉憲顕(尊氏の母方の従兄弟同志)の対決となった。

ここまで前回のおさらい(^^ゞ。

さて、この辺りから、平一揆に与して足利陣営に加わっていった豊島氏は、この先は安泰だったかと言うと……そこはどうだろう(^_^;)。。

これはあくまでも私見だが……。

今回、7か月の間を空けて、しみじみと読み返し、前より強く思いを深めたのは、どうも、この辺りが、豊島氏が本流から外れていった分岐点じゃないかな、と(^_^;)。

最初に話した「平将門の乱」や「平忠常の乱」では、同族の叛乱に加わらなかったと見えて、その後は武蔵国総検校職世襲で勤める程の家格に上って行った。

鎌倉時代も、前北条氏の企ての前に、惣領格の畠山氏や河越氏が潰されていったものの、豊島氏は恐らく、お行儀よく前北条氏の覚え目出度い位置に居たようだ。
だから、千葉や佐竹のような大勢力を築く事も無い上、時にしくじりさえあっても、武蔵国時の政権の覚え目出度い古族として、基盤が大きく揺らぐことは無かった。

鎌倉末~南北朝の動乱期は、最初から足利方に就く事はなかったが、それは前北条を鎌倉に討つにあたって、新田義貞の南下に加わったからであって、この時点で足利氏に敵対したわけではない。

足利尊氏も、これらの新田追従組が行きがかりで敵味方となった事に理解を示していたと見え、北朝&足利の傘下に下れば、そう厳しい処置を取らぬ姿勢に思える。

……と言っても、尊氏の寛容姿勢は、特に豊島氏や秩父平氏らに対して取られた、というほどの意味はない。

足利尊氏は、広く一般的に、敵対した者達に厳しい処置を取ってない。
勢力関係が複雑な動乱時代に頂点に立つため、多くの妥協が必要だったからだろう。

南朝勢力に与しながらも、だんだん北朝&足利尊氏に下っていった者達は、大抵が大きなお咎め無しで、お家を維持したケースが少なくない。

しかしこの時、豊島氏を含む平一揆が、北朝足利尊氏に取るべきツテとしたのが、高重茂の催促に応じて、であった。

この高重茂は、あの高師直の弟と言われる。
師直が評判が悪いから、師冬に従う者が多くなかったというから、重茂も同様に見られていた可能性はある(^_^;)。

それでも、この「武蔵野合戦」で、初めは尊氏の劣勢となったのが、豊島氏なども加わった後は南朝勢力を押し返した。
長く暴れた、北条時行も、正平八年(1353)敗れて捕えられ、ついに鎌倉で斬られたのである。

その後、9年もの間、鎌倉公方初代・基氏(尊氏の子)は鎌倉ではなく、武蔵国入間川に陣し、「入間川御陣」と呼ばれる期間を経る。

まだ南朝の残党ことごとくを片付けきってはいないから、と言われている。

一方で尊氏は、弟・直義の残した観応の擾乱以来の勢力と影響を消すため、上杉憲顕追放して、代わりに畠山国清関東管領の座に就けた。

ここでも豊島氏と平一揆は、この畠山国清を支持し、その後も従ったようだ。
高重茂といい、畠山国清といい、将軍・足利尊氏から送られて来た者たちだから、尊氏に従うに日の浅い平一揆(や豊島氏)にとって、これらに従う事は当然と思えたからだろう。

私の見た所、この時、平一揆(河越氏を中心とする)などに近い路線に見えるのが、下野国宇都宮氏かと(^^ゞ。
この宇都宮氏の当主・高綱は、はじめ北条氏に従って楠木正成を討伐していたが、新田義貞が鎌倉を落とすと、後醍醐天皇に従い、以後、新田義貞と共に長く南朝に属した。

これに対し、高綱の子・氏綱は、この父と袂を分かち、足利方に就いた。
尊氏と直義の対立(観応の擾乱)においても、尊氏に与した。

これもやはり、後から尊氏に従ったので、尊氏派の畠山国清と直義派の上杉憲顕の対抗軸では、尊氏の打ち出した畠山国清主導(薩田山体制などと呼ばれる)に重きを置いて身を処したように思われる。

ただ、この畠山国清が、これまた東武士らのお眼鏡に適わない(^_^;)。
尊氏には逆らわないが、尊氏が配するナンバーツーには、高師直であれ師冬であれ重茂であれ、おいそれと従わない。
同じように、目付のように置いて行った畠山国清にも同じ態度だったんじゃないかな、と思える。

畠山国清と言えば、元は足利氏と出を同じくする、いわば連枝のお家柄である。
昔、武蔵北部にいた、あの畠山重忠の畠山ではなく、重忠の未亡人となった北条政子の妹が、足利氏に嫁いで再興した苗字である(^_^;)。

つまり足利一門に列する家柄と言ってよいから、足利氏の根本家来に過ぎない高師直高氏とはワケが違う(^_^;)。

そんな畠山国清が、最終的に鎌倉を追われる事となったのは、その直前に起きた政治的な対立劇や、京に行った幕府との難しい連絡など、直接的には関東武士の心象に関わりがあるとばかりは言い切れない出来事の延長線上にある。

また、畠山国清の行動が原因で、京に危険が及んだのも事実だ。
あげく、彼が身の危険を感じて知行する伊豆国に籠もったものの、地元の協力を得られず、最後は基氏に投降した挙句、晩年の記録が残らない。

ただこれらを、畠山国清にその程度の器量しか無かったから、とだけは思わない。

というのも、彼を罷免する要求が、直義派の武士達から出て来た事を見過ごせないからだ。

この後ずっと長く関東管領として戦国期の末に至るまで君臨する上杉氏ならば、同じ立場に至った場合、命懸けで助けてくれる関東武士がいっぱい居ただろうとも思うからだ。

上杉氏は足利尊氏・直義の母方外戚であるから、鎌倉的な伝統感から言うと、初代将軍の正室にして二代・三代将軍の母である北条政子北条氏を代々執権とした点と合致する。

しかし、「だから上杉氏なのだ」という理屈は、代々の関東管領職を上杉氏が勤めるようになった後に定着した意識と言えよう。

なぜなら、片や足利氏と出自を共にする畠山氏である。
足利兄弟の母方外戚の上杉氏と、家格の点で大きな違いがあるだろうか(^_^;)。

一方で、以下の見解もしばしば見る。

関東における観応の擾乱との関わりと言うと、わりとよく持ち出されるのが、関東武士の間で、直義への親和性が高かった点が言われる。

足利直義は、鎌倉に北条氏が滅んだ直後、後醍醐天皇の勅命によって、成良親王を奉じて鎌倉に下っており、自身は執権として鎌倉を守っていた。
その折、関東の武士たちと深い信頼関係を築いていた事から、あたかも「関東=直義派」のごとく書かれる文章も散見する。

その直義に味方し、死後も尚、その遺志を継いだかの如くが上杉氏だったから、上杉氏が特別視された……。

「わかりやすさ」に主眼を置けば、それも悪くないが、殊、豊島氏のいる武蔵国に焦点を当てると、それでは納得しにくくなる(^_^;)。

多くの関東武士が、高師直・師冬・重茂・畠山国清に反抗的だったのは、足利直義上杉憲顕を慕ってたからと言うより、恐らく、足利尊氏の寄越す者に従いたくなかったのではなかろうか。

では、足利尊氏を認めないのか、尊氏への反抗かと言えば、それも違うだろう。

心の奥底にうずもれる鎌倉武士の気持は、京の朝廷や幕府の思惑と全く違う、一つのベースを持っていたように思えてならない。

なぜ「鎌倉殿」なのに、尊氏は鎌倉に居ない
この思いが、鎌倉を誇りに命懸けで戦って来た鎌倉武士には、取ってつけたように、高氏だの畠山氏だの「尊氏の代わり」を寄越し押し付ける幕府の遣り方そのものが気に食わない。

それでも、尊氏の嫡子にして、足利氏の惣領後継なる義詮が鎌倉に居た時はまだいい。
これが京に召され、代わりにその弟・基氏が鎌倉に寄越される。

これは、何の事はない。
ハッキリと鎌倉が京の下に置かれた事に他ならない。

鎌倉公方・初代、基氏には、こういう関東武士らの不満がよく理解できていたのだろう。
父・尊氏が他界したと見るや、畠山国清を座から追い落とし、跡に上杉憲顕を迎え直して、関東管領を引き受けるよう要請する(^_^;)。

以上。
今回は、サブタイトルにも書いた通り、関東管領が上杉氏でないとダメだった理由を書いてみた。

こうした受け取りの中で、あくまでも畠山国清に従い、国清が謀叛に至る行動を取った時も、その手勢・支力に「武蔵平一揆(河越氏)」は居た。
尊氏の寄越した管領に忠義立てし、共に鎌倉諸勢を相手に戦った事が伺える。

だから、康安元年(1361)畠山が基氏に叛いて兵を挙げ、翌年降参した時も、そこに「豊島因幡守」の名が見えている。
例によって系譜との比定は不明だが(^_^;)、この時期の豊島氏の当主の可能性が強いのではなかろうか。

同年、畠山国清は失脚する。
一揆は、鎌倉公方・基氏について国清の討伐に加わった。
しかし平一揆は行きがかり上、関東管領上杉憲顕と対立し、鎌倉公方にとっても脅威と映ったため、応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を起こし、敗退の上、崩壊。
所領地は、関東管領・上杉氏に没収された。

この時の豊島氏への処置がどうであったかは判らないが、30年以上も後になって、所領地が戻されたようなので、連座とされたんだろうと思う。

畠山国清に従った勢力は、どうも主だった所では、この武蔵平一揆しか聞かないので、関東では孤立していたと見るべきだろう。

同じような立場に見える宇都宮氏というのも、実は地盤的に、上杉氏と相容れない関係にあり(^_^;)、こちらは対立に至る背景が浮き立って感じられる。

一揆も宇都宮氏も、元はと言えば、南朝勢力たる新田氏の残党と直面しやすい土地に居たとは言える。
だから、常陸陸奥あたりで南朝相手に戦った面々が、高師冬を遣わされて協調したがらなかった事とは、ちょっと事情も違う。

しかし例えば常陸北部を領する佐竹氏などは、動乱期を迎える以前より、一族に尊氏と懇意な者が出ており、意を通じやすい立場と見れなくもない。

比べて、南朝や北条残党との関係が見え隠れする秩父平氏たちは、尊氏やその側近とのツテが乏しかったためか、代官的に寄越された管領に忠義立てし、次の場面では、これを打つ側に廻らされ、あげく乱を起こすに追い込まれ、崩壊した。

こうして豊島氏の武蔵北部(埼玉県)の同族は、畠山に続いて河越も潰えた。
しかし、その分逆に、戦国期に見る豊島氏の輪郭が見えて来た感じがするのである。

……本日の所は、ちょいと準備体操みたいな感じだったかな(^^ゞ。

<つづく>