ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

縦糸-1「江戸期の豊島氏」

前回からの繋がりから、江戸時代の豊島氏を先に書こうかと思う。

ただ、前回も書いた通り、残念ながら、どれも石神井や練馬の「豊島泰経」との繋がりが不明である。

石神井や練馬の「豊島泰経」には繋がらなくても、そもそも豊島氏は平安期から続く家系で、「豊島」に枝分かれしたのも早い時期なので、相当根元から分かれても「豊島氏」を名乗る可能性はある。

しかし、これから書く江戸期の豊島氏は、どちらも「豊島泰経の子孫」を称しているようだ(^_^;)。

そこはやはり、江戸のある武蔵国に、徳川の来る前時代、勢力を誇った「豊島氏」との繋がりを持ち出す方が分があった、という事になろう。

ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏相馬氏などに対する憧れ感情が、地元に強かった形跡が伺われる。
(ありもしない)「合戦があった」とする作り話まで伝わっている(^_^;)。

そういった意味での「伝統」として見れば、やはり「豊島氏」の痕跡は、練馬城や石神井城のある練馬区に残していかなければならないのではないかと思う。

では、早速、江戸期の豊島氏の話をする。

まずは、布川豊島氏というのがいる。
千葉県から茨城県利根川(県境)を越えて入って、スグの所に「布川城跡」がある。
戦国期については後で話そうと思ってるが、下総における合戦にも名を顕わして来る。

落城前は、後北条氏に召し抱えられた勢力だったが、これが小田原に滅んだ後は、江戸入りしてきた家康の徳川家に仕え、旗本になったようだ。

が、三代将軍・徳川家光の時代、江戸城内で刃傷事件を起こし、断絶となった。

この事件は、後に、浅野長矩(内匠頭)が松の廊下で、吉良義央(上野介)を相手に起こした刃傷事件の折、その前例として参考にされたんじゃないか、と思う。

松の廊下事件との違いは、斬り付けられた相手(井上正就)が絶命している事、斬り付けた豊島信満はその場で切腹した事が違う。
この切腹、後ろから取り押さえにかかった青木義精という侍まで、その刃が貫通し、共に死に至ったというから、物凄い(*_*)。。

こう聞くと、今の時代の人は「残酷な(*o*)」と、良い印象を持たないかもしれない。
私も最初にこの話を聞いた時は、あまり詳細を知らなかったのもあって、浅野内匠頭みたいなノイローゼかな?とか思った(^_^;)。

しかし、よく内容を見ると、そうではなさそうだ。

元禄の頃の浅野と吉良の刃傷事件では、相手を討ち果たせない点を、浅野内匠頭がその場で押さえつけられた事とあわせて、「武士道にもとる」と酷評されるシーンを、しょっちゅうテレビドラマになる「赤穂浪士の討ち入り」では、よく見る。

小説家の味付けが引き継がれてるのか、当時の記録に、学者らの意見として記録されてるのか、正直この時代にあまり詳しくないので、出典についてはよく知らない(^_^;)。

しかし、江戸時代の感覚は、何となくわかる。
私自身は中世史好きだが、江戸時代にも歴史学は盛んに行われており、現在の歴史観にも多少の影響を与えている。
このように、江戸時代の人の感覚は、歴史を学ぶ折々に沁み込んで来るのだ。

その点から見ると、江戸時代は、下手すると、戦国時代以上に「武士とはこうあるべき!」と律せられた時代と言える。

そういう時代なのだ。
武士が刀を抜くからには、目的(殺害)を達成し、自らの命も顧みない覚悟を求められた。

だから、罪状的には「有罪」であり、表面的には「凶悪犯」であったとしても、受け取る人々の心情的には「よくやった」「相手を討ち取ってこそ武士」であり、さらにその場での切腹も「潔し」「清し」と、高潔に写ったんじゃないかという気がする。

また、怨恨の原因が、豊島信満が仲人であった縁談を、井上正就が一方的に破談した事に原因があった。

これも、豊島氏にとって、そこそこ評判が悪くなかったと思う(^_^;)。
仲人と言うからには、信満自身も不名誉を浴びただろうが、破談にされた家の娘の体面を守りたかったと、言葉には出さずとも皆が納得したんじゃないかな、と。

時代劇で言うと、「晴れせぬ恨み晴らしてみせた」、必殺シリーズみたいな事を、豊島信満はやってのけたわけだ。

井上に断られた縁談相手は、大坂の町奉行だった。
対して、新しい縁談相手は、徳川家譜代家臣・鳥居家で、当時江戸城における実力トップの春日局の口利きだったと言うから、斬られた被害者とは言え、井上正就の破談と再縁は、出世目当てと思われて仕方ない。
徳川の元に治世され、幕閣の権力もドンドン大きく成長してゆく時代だったからだ。

それと、家光ぐらいの時代だと、まだ戦国ムード満載で、特に江戸っ子たちには、自分達の住む江戸に元いた豊島氏の名に、一種の憧れの気持を持ってたと思う。

ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏や相馬氏などに対する憧れ感情が強かった事は先に述べた。

そういう時代だから、豊島氏の刃傷事件は、ウケが悪くなかったと推察する。
だから、これと浅野&吉良の刃傷事件の内容は、遠慮なく比較されたと思う。

こういう前時代もあって、赤穂浪士は無理をしてでも、主君が果たせなかった吉良上野介殺しを、何としても果たさなければならなかったんじゃないかなぁ……。

と、かように愚考している。

信満の子、吉継切腹となった。
この点も、お預けの身とは言え、浅野家は長矩の弟、長広(大学)は存命を許されたから、違う点だろう。
ただ、その後、どうも豊島氏は姓を変えて、紀州徳川家に召し抱えられたらしい。

もう一個、江戸期に伝わる豊島氏の子孫話があって、絵島生島事件の「絵島」(江島)である。
私は「絵島が豊島氏の子孫」と聞いたんだが、wikiで調べると、どうも絵島の養父(母の再婚相手)、白井久俊というのがそうらしい(^^ゞ。

絵島は、七代将軍・徳川家継の生母・月光院に仕え、大奥年寄にまで出世した、大奥きっての実力者だった。
寺社参詣(将軍の正室・側室は外出が適わないので、代理で参詣する通例があった)の帰りに芝居小屋に寄って、門限に遅れた事から尋問を受け、芝居役者・生島新五郎との密通嫌疑で逮捕・拷問され、遠島となって、大奥に戻る事はなかった。

しかし遠島後、8年ほどで、厳重な獄牢状態が緩和され、ほぼ赦免者として老後を送ったらしいんだよね(^^ゞ。

だからか、絵島の密通は実は冤罪で、月光院の力を削ぐために、密通をでっち上げられ、月光院から引き離された、とする説も散見する。

(その一方、この事件を時代劇などで取り上げる場合、必ず、絵島と生島が(プラトニックであれ)恋愛感情を持ってた具合に描かれるけどね:笑)。

ところで、この絵島と豊島氏については、絵島の弟が豊島姓を名乗っている事が目をひく。(常慶と言うらしい)
絵島の兄は、養父の「白井」姓を名乗ってるようだ。

豊島姓を再興する必要から、復姓したのか、単に兄が親の名を継いだので、弟は分家の都合上、別姓を名乗ったのか、それとも、やはり豊島氏の名が惜しまれる時代背景ゆえか、殊、豊島氏に関するブログを書く以上、特筆しておこうと思った(^o^)v