前回は、治承の乱(源平合戦)スタート時の、頼朝の伊豆挙兵で終わった。
今回は鎌倉時代より先の話をする(`・ω・)
まず最近、「鎌倉時代」の開始時期というのが諸説ありすぎて(^_^;)、昔みたいに「いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)」と覚えればいいわけじゃない点が厄介(笑)。
まぁしかし、感覚的に「ざっと、頼朝が史上に登場した辺りから」と皆さん思っておられるだろうから(^。^)、私もだいたいその線で行かして貰うッス。
前回は、高望王が関東下向して、国香・良兼・良将・良文・良茂という男子から、子孫を広げていった事、このうちの「良文」が、豊島氏に繋がる事を書いた。↓
(系図1)
良文-忠頼┬将常┬武基(秩父)-武綱
| └武常(豊島・葛西)
└忠常(千葉氏)
そして、豊島氏の方に繋がる、武常-常永-康家と来て、清光が、頼朝の求めに応じて、子の清重と共に参陣した事を書いた。↓
(系図2)
┌武基(秩父氏)-武綱-重綱 ┌朝経(豊島氏)
└武常-常永(常家)-康家-清光(清元)┴清重(葛西氏)
上の系図を見ての通り、この代から、長子・朝経が豊島郡に住んで「豊島氏」、次子(三男とも)・清重が葛西に住み、葛西御厨を継いで「葛西氏」と、それぞれ称して分かれた。
しかし今回はここらで、豊島氏に分かれる以前の、秩父氏族が経た、「頼朝陣営への参加劇」に始まり、その後の経過と末路について述べる。
というのも、豊島氏についての記述を読むだけだと、後半の「横糸」あたりに近づいて来るにつれ、フツフツと疑問感が沸いて来そうに思うから(^_^;)。。
豊島氏はわりとスンナリ頼朝の「御家人」になり、その後も真っすぐその道を辿ったが、他の秩父流は必ずしもそうとは言えない。
そこから押さえないと、なぜ戦国初頭、イキナリ没落に至ったかにも迫り切れない気がした。
というわけで、豊島氏・葛西氏に繋がる「武常」の方ではなく、秩父氏に繋がる「武基」の系譜を見て貰いたい。
(系図3)
武基(秩父)-武綱-重綱┬重弘-(畠山)重能-重忠-重保-重国
├重澄(重隆)-(河越)能隆-重頼-重員-重輔-真重
└(江戸)重継-重長-忠重
武基の子・武綱が「後三年の役」(1083~1087年)に参加した事は、前回書いた通りである。
その後は、上記の通りに展開し、頼朝の伊豆挙兵を迎えるまでに、秩父氏は「畠山」「河越」「江戸」の三氏に分かれている。
(スイマセンが、この三氏の名を、今覚えて下さい(^_^;))
三氏の中でも惣領格は、畠山氏だったと見られ、武綱の子・重綱から畠山重忠に至るまで、代々、武蔵国の総検校職(そうけんぎょうしき)などを勤め、これは秩父氏が、武蔵国衙の在庁官人であった事を示す。
ところで……。頼朝が挙兵するまで、世の趨勢は圧倒的に伊勢平氏にあった。
有名な「平清盛」を長とした「平家一門」だね(^^ゞ。
この伊勢平氏こそ、「平将門の乱」でも、「平忠常の乱」でも、将門や良文、そして良文の子・忠頼、忠頼の子、忠常に至るまでが敵対して戦った、国香流の子孫である。
しかし国香の子・貞盛の流れが「伊勢平氏」と言われる点を見ても察せられる通り、平将門の討伐で手柄を立てた後、本拠を伊勢に移している。
と言っても、キッパリ関東(当時は坂東と呼ばれた)と手を切ったわけではなく、貞盛の弟・繁盛以降の系譜は、以前のまま常陸国(茨城県)に居残り、常陸平氏として、多くの氏族を広げた。
中でも、「大掾氏」というのが、常陸平氏らの中核的氏族と言えよう。
(一般的に、「平家」は清盛を中心とする一家の事を指し、「平氏」というと、常陸平氏や良文流の秩父平氏・房総平氏・相模平氏なども含める事が多い。あと実は、高望王より前に枝分かれした桓武平氏も「平氏」ではある)
ただ前回も話した通り、「平忠常の乱」の終息時、忠常が源頼信に従って降参した時、それまで内乱状態を続けていた国香流も良文流も、頼信の下に等しく、後の「御家人」の初端を掴んだ。
その後の「前九年の役」「後三年の役」では、かつての敵も味方も無く、そろって頼信以降の源氏の下に従った。前回書いた通りだ。
だから、ずっと反目しあってたわけではなく、この鎌倉幕府創成期に名の上がる、関東の御家人たちは、横同志の婚姻なども行われて、それなり強固な基盤が出来ていた(^^ゞ。
あとは、上に頼朝が乗っかり、行政手腕に詳しい京下りの下級貴族(大江・三善など)が加われば、「幕府」が出来てしまう程度に、既に頼朝政権を支える土壌が、関東に根深く広く形成されていたのだ。
ところが、ここに再び、坂東武士達と伊勢平氏との因縁が再燃する(^_^;)。
それが、「平治の乱」(1160年)以降、この「治承の乱」(1180年~)に至る過程だった。
「平治の乱」については、詳細は省くね(^_^;)。
必要な経過だけ書くと、その前に行われた「保元の乱」(1156年)では、平清盛も源義朝(頼朝の父)も勝ち組だったのだが、次の「平治の乱」では、清盛は勝ち組となったが、源義朝は負けてしまい、逃亡中に殺されてしまう。
義朝の子・頼朝は捕まったが、少年だった事もあって、一命を許され伊豆国(静岡県)に配流となる。
一方、秩父氏族のいた武蔵国(埼玉県・東京都)は、平治の乱後、平知盛の知行国となった。
平家の台頭というのは実に急で、下の表でわかる通り、僅か10年の内に、瞬く間に清盛一家が日本じゅうに地場を広げ切っている。
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頼盛
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経盛
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頼盛
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教盛
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重盛
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重盛
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基盛
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頼盛
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頼盛
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頼盛
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頼盛
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頼盛
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経盛
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経盛
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経盛
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大和
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基盛
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基盛
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基盛
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教盛
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播磨
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清盛
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清盛
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清盛
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淡路
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教盛
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教盛
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教盛
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教盛
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教盛
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基盛
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宗盛
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伊予
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重盛
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重盛
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重盛
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安芸
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清盛
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頼盛
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頼盛
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清盛
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清盛
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清盛
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清盛
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清盛
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清盛
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武蔵国は、この平家の影響が強かったと見られ、秩父流は平家方に加担してたようだ。
これは、総検校職という国衙組織に属す立場上、仕方ない事でもあっただろう。
当時の平家は、国家(政府)そのものだったからだ(^_^;)。
これより治承の乱(1180年~)までには、さらに20年あるので、特に畠山重忠のような若者は、平家の勢いに靡いたんだろう。今の若者が長らく自民安倍政権しか知らない(からそれを支持してしまう)のと同じような現象と言えよう。
一方の頼朝は、北条政子と駆け落ち結婚した後、北条氏など在地の武士に協力を得て、挙兵したわけだが、これは、畿内の動きに連動してのもので、慌てた分、お世辞にも勝機に恵まれた挙兵とは言えなかった(^_^;)。
挙兵戦の奇襲だけは上手くいったが、前回も述べた通り、その後の「石橋山合戦」では、味方3百騎に対し、敵方は3千余騎、10倍以上!(((( ;゚Д゚)))
この時、頼朝らが戦った相手は、大庭や伊東といった相模国における平家方の勢力だったが、同時期、頼朝の味方だった三浦氏の居城・衣笠城でも籠城戦が行われており、これの平家方の相手が、先に言った秩父流の三氏・河越重頼・畠山重忠・江戸重長だった。
頼朝も三浦氏もボロ負けし、味方してくれた北条氏や三浦氏から戦死者を出しながら、頼朝主従は何とか伊豆半島を脱出、海路を安房国(千葉県南部)に渡った。
房総で、まとまった勢力で迎えてくれたのが、前回も書いた千葉氏であり、さらに大勢力を率いて、千葉氏と同族の上総氏も合流。
そのため頼朝も、下総国(千葉県)から武蔵国(東京都)に渡る頃には、だいぶ余裕を持つに至り、そこに新たに合流したのが、秩父流の三氏・河越重頼・畠山重忠・江戸重長だった。
もはや関東における頼朝の威勢は不動と踏み、ここで平家を捨てて頼朝(鎌倉幕府)への帰順に至るのだが、ここからはちょっと詳しめに書く事にしよう(`・ω・)
まず頼朝は、09/28、三者の内で、長老格だった河越重頼も、惣領家格らしき畠山重忠も無視して、江戸重長を呼びつけた。
江戸重長は様子見をしていたが、頼朝は彼をおびき出して殺そうとまで考えた。
10/02、頼朝が武蔵国に乗り込む。
これに対し、豊島清光(清元)と葛西清重が参加した。
……さっきも書いた通りだね(^^ゞ。
二日遅れて10/04、河越重頼・畠山重忠・江戸重長が、長井の渡しで頼朝に帰服。
豊島・葛西が比較的、頼朝から厚遇を受けたのは、恐らく平家方に加わってなかったからではないかと思われるが、見ようによっては、この「僅か2日」の差も小さくなかったかも(^_^;)。。
頼朝という男は、頭の中にスパコン富岳が入ってんのかと疑う程、記憶力が素晴らしく(笑)、後々まで、この当時の一連の戦いで、誰が早く味方に駆け付けたか、そうせず様子見をしていたか、幕府が出来た後も尚、敵対していたのは誰か……といった点を、その後も甲乙の点数表にしていたフシが窺える(^_^;)。
これが、後に「いざ鎌倉」「すわ鎌倉」と合言葉化し、武士たるもの御家人たるものは、鎌倉に異変があった時は真っ先に駆け付け、「鎌倉殿」(最初は将軍ではなかったので)のために働きを見せる。
これこそが、関東武士に求められる第一条件となった。
さて、いわゆる源平合戦も本格化してゆく。
寿永3年(1184年)には、京にいた義仲軍に対し、鎌倉からは頼朝の弟・範頼と義経がそれぞれ一軍づつ率いて、その追討を担う。
豊島清重も、範頼に従って九州まで渡り、平氏追討で武功をあげている。
その子・豊島朝経は、元号かわって、元暦元年(1184年)に紀伊国守護に任ぜられた。
そして、ついに平家が壇ノ浦に滅ぶ(1185年)と、ほぼ同時に、今度は頼朝の弟・義経の追討と探索が始まる。
まずこれで、義経の舅(妻の実家)だった秩父流の河越氏が連座の罪に問われる(^_^;)。あげく、重頼とその子・重房は誅殺されてしまう!
この、平家滅亡後しばらくの間、鎌倉幕府は、奥州藤原氏(岩手県)を主な脅威と感じて体勢と行動を取ったように思われる。
そうした奥州への間にある、佐竹氏(常陸国=茨城県北部)、新田氏(上野国南部=群馬県)など、不穏な構えや曖昧な態度を取り続ける豪族たちに、頼朝らは始終神経を尖らせていたから、秩父流が監視対象にあったとしても、やむを得ない部分はあっただろう。
問題の義経自身は、頼朝に叛旗を翻したが兵が集まらず、エンエン逃げ回って、最後は奥州に隠れたが、奥州藤原泰衡に討たれた。
そして、ついに奥州藤原氏も、幕府の奥州征伐によって滅びる(1189年)。
この奥州藤原氏征伐(奥州合戦)には、抜け駆け争いに豊島氏の名も見え(笑)、皆とても張り切っていた。
中でも、葛西清重は活躍し、その平定により、奥州総奉行に任ぜられた。
以後、葛西氏は奥州で大勢力をなし、陸奥の大名に成長していくのである。
(と言っても、大抵は支族か家来を現地に置いて管理を任せ、当主は鎌倉に戻って、幕府の家人として仕えるものであり、葛西氏の場合も同じで、本格的に奥州に本拠を移すのは、四代後の清経、又はその子・清宗からであったようだ)
勿論、あの畠山重忠も、平家との戦いにも、この奥州征伐にも参加して、武功をカウントされたから、今や、鎌倉参加前の平家寝返り組といった前歴からは解放され、奥州にバッチリ所領をゲットした。
建久元年(1190年)、頼朝の上洛には、多くの豊島氏一族が供奉している。
これも鎌倉武士・幕府の御家人にとっては、これ以上ないぐらい栄えある舞台であり、畠山重忠も、この誇り高い行列に、晴れがましい先陣の役目を担った。
普通なら、取り合えずここで、一先ず安泰を得たと思える所だ(^_^A)。
事実、頼朝はこの上洛後、ついに征夷大将軍に任命され、幕府は半ば正式の公的機関となった\(^O^)/。(これが「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年ね(^^ゞ)
ところが、武蔵国に関してはそうではなかった(・・;)。。
いや、むしろ、ここから試練が始まった、と言っても過言でない。
<つづく>
(ちょっと12連載じゃ済まないかも。13連載は行く感じ(^_^;))