ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」

猛烈に多忙モードに入ってしまい、間が空いてるっ(>▽<)。。。

今回も流れ的には、時代に沿って行くが、話の内容的にはジワジワ「横糸」に入って行きたい。

豊島氏は、戦国期の初頭に江古田沼袋の乱太田道灌に敗れ、城攻めにおいても敗れて落城し、行方がわからぬままに歴史から名を消した。

後北条氏にその名乗りの者がいた形跡はうかがえるものの、石神井練馬城の豊島氏との繋がりは不明である。
太田道灌との戦いで滅亡してしまったのかもしれない。

だから、歴史資料館を作るのに、たとえば城郭風のデザインを建築に施すなどの場合は、その後の戦国時代など知らない人々の城、として設計すべきだろう。

では、その城の中に住む人の頭の中は、戦国期以降の人と何が違っていただろう?

前回、述べた通り、鎌倉が新田義貞に落とされても、関東の武士らは誰も「鎌倉幕府が滅んだ」「鎌倉時代が終わった」とは全く思ってない(笑)。

この感覚は、ナント驚くなかれ、豊島氏が歴史から名を消すその時まで継続した。
鎌倉幕府の後も、京の幕府以外に鎌倉府が存在し、その鎌倉府が焼き払われた後も、古河に公方一族は続いたからだ。

学校では、「鎌倉が陥落し、長い動乱の果てに、京に幕府が出来た」という具合に、一度時代を区切って教わった。

が、関東の武士たちは、私達にそう言われても、ピンと来ないに違いない。
彼らは、京の建武新政南北朝の動乱とは全く無関係に、「新田義貞足利尊氏どちらかが、次の鎌倉殿(将軍)になる」と思っていた。

二人が二人とも京の後醍醐天皇の元に行ってしまっても、程なくどっちかが戻って来て、鎌倉時代の再スタートになると思ってた人は多かったハズだ。

現に、足利尊氏は京に行って以降も「鎌倉殿」と呼ばれていたし、新田氏が発給した文書も、あたかも将軍家の発給書の如く存在した(偽書と解釈されて来た物も、近頃では再検討の提言がされている)

足利尊氏が、北条時行中先代の乱)の討伐のため鎌倉に行った流れで、後醍醐天皇に朝敵認定されても、新田義貞は朝廷軍に属してたので、そのままズルズルと新田軍に従った武士たちも少なくなかった。

南北朝時代豊島氏は、鎌倉攻略の元弘3年(1333年)から5年後の、暦応元年(1338年)頃には足利尊氏北朝の側にいた、とする一方、この北条時行やその子孫に同調して、正平7年(1352年)頃まで南朝にいた、とする伝説もあるらしい。

あるいは、同じ豊島氏の中に、南朝に着いた者と、北朝に着いた者がそれぞれいるような状態もあったかもしれない。
同族同志で南北朝に分かれ、各々別行動を取った氏族はとても多い(^_^;)ゞ

北条時行南朝に加担していた説は、現在では信憑性において疑問視されているらしいが、前回も述べた通り、

武蔵国の情勢や豊島氏の立ち位置から見て、
>私的には、北条氏への癒着性は強そうに思う(^_^;)。
>元ソースの史実性が脆弱なんだろうが(これもありがち:笑)、
>江戸期の調査に誤解があるとしたら、その誤解を支える要素はあると思う。

と私は思う。

前々回、縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」で、秩父流一族が、武蔵国北部において抹消されたのは、北条氏に目を付けられたから……と述べた。

そこから、北条への怨みの感情でも持ってそうに想像されたかもしれないが、埼玉県の中世を振り返ると、北条氏の進出によって荒地がドンドン開発され、石高もアップし、むしろ豊かになった事がわかる。

一方、南北朝・室町を経て、戦国期それも豊島氏など滅んだ後になると、後北条・上杉・武田の争奪戦に巻き込まれる。
特に武田氏の侵攻に対する恨みの感情を、土地に色濃く感じる。

そうした「時代の比較」論から、前時代の隆盛が偲ばれて、北条氏を懐かしむ論調になるのかもしれないが、北条氏の影響を受けた土地には、寺が建てられたり学問が広がるなど、文化的にも向上した形跡がうかがわれる。

そこから振り返ると、秩父流よりも、さらに優遇された豊島氏などになると、北条時代への郷愁感は、そこそこあったのではないかと思う。

占領下に置かれた地域が、占領者に反発感情を抱く事もあれば、逆に憧れの感情を持って、その文化に深く馴染む例もあると思う。

北条時行は、北条氏が滅んだ当時は、鎌倉におらず信濃にいたため一命を繋いだが、そこから残党を吸収しながら、この武蔵国まで来て、一時的にせよ連勝していたわけだ。

新田義貞の鎌倉攻めルートにある「女影」「小手指河原」は、北条時行による中先代の乱が、これを迎え撃った鎮圧軍を打ち破った地域と見事に重なる↓

前回も出した、新田義貞の鎌倉攻略ルートf:id:potatun:20201102115916j:plain

建武新政に不満を持った関東の一地域として、元の司令塔筋である北条氏に心通わせる者がいたとしても、そう不思議ではないし、土地に、何らかの互助勢力があったのでは、という見方も必要だろう。
北条時行は、この中先代の乱では足利尊氏に敗退するものの、後に南朝側に認められ、南朝勢力に加担したのも事実だ。

そうした点から、豊島氏に南朝伝承がつくのは、特に不思議と思わない。

この景村伝承を史実に反する、とする理由は、どうも、北条時行中先代の乱から、そう遠からぬ暦応元年(1338年)頃には、豊島景村の甥・朝泰が、すでに北朝に属していた証左に寄るように思われる。

朝泰やその子の宗朝に宛て、足利氏が発した着倒状や感状から、そう判明するようだ。
江戸・葛西・坂東八平氏・武蔵七党らも、尊氏方高重茂の催促に応じたという。

清光┬朝経(豊島)-有経-経泰-泰友┬泰景-朝泰-宗朝
  |               └景村-輝時-景則 
  └清重(葛西)

ただ時行やその子孫と深く関わったとされる豊島景村の存在と事跡に、近頃は信頼性が置かれない、とされる以上、この話はここに留めておく。
同様に、この景村が、足立郡新座郡多摩郡児玉郡に所領をもった、というのも疑っておく事にしよう(^_^;)。

ところで、この暦応元年(1338年・延元3年)は、新田義貞が戦死し、北畠親房陸奥に向かう海路に遭難し、常陸国茨城県)に漂着する年でもある。

新田義貞に従った人々が、どの段階から新田を離れ、足利方勢力に属していったかは、各氏によってマチマチだが、この延元3年(1338年)の前と後では違いがある。

義貞の生前は、北朝&足利方につくタイミングを取り損ねただけかもしれないが、その後、北関東に南朝扶植の努力をした北畠親房に呼応した者達になると、かなり筋金入り南朝と見て良いのではなかろうか。

この人々は、かつては北条氏を、そしてその後は足利氏を相手に戦わないとならない人々だったからだ。

北条氏は表向き、平氏を名乗ったものの、千葉や秩父や葛西などのように、ハッキリした系図を歴史上に確認できる家柄ではない。

北条政子が将軍夫人となり、代々執権となり、その内部から宗家、そのさらに内部から得宗と呼ばれる、究極の実権を握る存在を輩出し続けた。
それは何もかも、幕府将軍があって成り立つものであり、北条氏の掌握した所領地も、幕府を保護し強めるために必要な処置だった。

しかしやがて、幕府のためと言うより執権家のため、執権のためと言いながら、最後は得宗家の御内人なる北条氏の被官たちが、私腹をこやし、権威を私物化するに及んで、御家人たちは不満を溜め、新田義貞足利尊氏のクーデターに勝利をもたらしたのだ。

浸食され、圧迫を受けた人々は、かつての所領・権益を取り戻したいと思った。
奪われ続けたそれらを、やっと取り戻せると思ったら、北条氏の所領地は、後醍醐天皇によって、全て足利氏足利尊氏と、その弟・直義)に与えられてしまった(-_-;)。。

だから、北条氏に土地を取られた武士ほど、先には新田義貞に従って鎌倉を攻め落とし、後には、足利尊氏から取り戻そうと、北畠親房の指導する南朝勢力に属した。

この北畠親房に対して、京の足利尊氏からは、高師直の従兄弟・師冬の軍が差し向けられた。
師冬は鎌倉に着くと、北上して武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に入り、下総国常陸国茨城県)へと順路を取った。

ところが、この師冬に対して、関東じゅうから協力を名乗り出た者が、ビックリするぐらい少ない(^_^;)。

この時点で、既に足利尊氏朝敵ではない北朝側の総大将であるし、室町幕府創始者でもある。
にも関わらず、この非協力的な関東武士たちの態度には、高師直に対する嫌悪感があると言われている。

観応の擾乱」が起こるのは、これより12年も後だが、この時すでに関東では、鎌倉に戻って来ない足利尊氏に代わって、自分達に号令して来る相手を、「高師直やその縁類では嫌」という感情が起きていた。

ここは、鎌倉武士独特の感覚が関わる点であり特に武蔵国豊島氏を含めた豪族たちの、この後の展開に響く点でもあるので、よく留意したい。

栃木県鑁阿寺(足利邸跡)足利尊氏
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(↑北畠顕家は、北畠親房の長男で、後醍醐天皇の命令で、建武新政の実行のため陸奥入りしたが、足利尊氏との抗争の経過で戦死し、これを受けて父・親房陸奥を目指して遭難し、常陸入りとなった)

今回、上に述べて来た通り、先に滅んだ北条氏には良い施策面もあった一方、末期には、御内人なる北条氏の被官が、御家人らにあれこれ指図するほど増長した。

これがとんでもなく評判が悪かったから、同じ構図が、これより仰ぐべき足利氏にあったら、関東の武士たちが再び反感を持つのは当然だろう。
まさに高師直と、その一族・高氏は、そういう存在に見られた。

大の足利贔屓だった佐竹氏でさえ、北畠親房の攻略する同じ常陸国にいながら、神宮寺城・阿波崎城までは、積極的に出ていたのが、高師冬が来た途端、動きが止まり、駒城・小田城・関城・大宝城では、完全スルーになってしまう(・・;)。。

もっとヒドイのは下野国(栃木県)の小山氏で、北畠親房の攻略の間じゅう、その目の前という距離にいて、何度も親房に援軍を要請されたが、最初から最後まで曖昧な態度を繰り返した。

この北畠親房の、いわゆる「常陸合戦」は、このようにエンエンと大勢力が無視する狭間で、康永2年(1343年)まで、ナント5年もの歳月を費やして、何とかかんとか北畠親房を関東から追い払った(^_^;)。

そして、観応元年(1350)、「観応の擾乱」が勃発。
足利尊氏と、その弟・直義との間の対立であるが、先に触れた通り、元は、尊氏の執事・高師直と、直義を代表とする武士(元・御家人)達の間の摩擦が原因と言える。

長くなったんで、続きはまた次回! 次は室町時代に入りたい(^。^)

<つづく>

※ええと、次一回で終わらせるのは無理かと思います(^_^;)。
今回の話も鎌倉時代を書いた時と同様、一回で済ませるハズが二回に渡ったので、以前お断りした「13連載」は、取り合えず「14連載」に引き延ばしておくです、はい。
そこから連想すると、次の話かその次の話も、同様に二回に分ける回が出て来る気もしてます、はい(^_^;)。