ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

縦糸-5「鎌倉末~南北朝期・新田義貞の鎌倉攻略」

今回は、鎌倉時代から南北朝時代まで行きたい(`・ω・)=3

豊島朝経の子の時光は、禁を破って土地を賭けた博打をし、幕府からとがめを受け、仁治2年(1241年)に所領の豊島郡犬喰名を没収されたようである。

この「時光」は系譜に見えないようだが、別名同人か庶子か誤記かはわからない(^_^;)。

問題の賭博事件だが……。
一見すると、「賭博」行為が不謹慎(武士が賭け事などけしからん!)と見なされたように感じがちだが、問題があるのは「土地」の方で(^_^;)、これの権利移動鎌倉幕府は強く禁じた。

理由は、鎌倉幕府が、未だ全国の武士を束ねる程の大きい組織でなかった点にある。
承久の乱(1221年)で、朝廷勢力を武力で完膚なきまでに叩きのめした鎌倉政府ではあったが、京の朝廷や公家の政治を否定するような規模も意識も、幕府を担う将軍や執権(北条氏)にはまだ無く、武士の身分は、まだまだ低いものであった。

だから、「これこれの土地は幕府に仕える御家人の物だが、それ以外は別」と、クッキリ区別をした。
これが、「御家人」と「御家人」なる、鎌倉時代独特の言葉を生む。

元は、鎌倉幕府が、特に朝廷の抱える公家の持ち分(本家領家などとも言います)との摩擦を避けたかったから、と言われている。

が、幕府は、所領安堵のみならず、御家人同志の揉め事については、イチイチ裁判を開いて審理し、勝者にも敗者にも判決を申し渡す制度を持っていた。

だから幕府としては、幕府がこなす仕事量を遥かに超えて、保証すべき御家人の範囲が広がる事も避けたかっただろうね(^_^;)。
御家人の土地を増やしたり減ったりせぬよう、土地の移動を厳しく禁止(制限)した。

ところが、何とか御家人の土地を手に入れようと、公家だの武士(非御家人)だの商売人だのが、婚姻売買賭博だので、やたらまとわりついた(苦笑)。
御家人の土地は狙われ、これに呼応して、御家人自身も土地を売ったり手放す事が増えた。

御家人から見れば、幕府が保証する権利が「お得(≧▽≦)!」と思われたからだろうが(笑)、御家人側の方の理由は、この時代、物凄く経済活動が活発化した事に関係があるように思える。

いわゆる金融業も盛んになり、生活に困窮する武士が土地を手放して生活の糧に変え始めたのだろう。
食い詰めた時、土地を手放して現金化するのは、現代人もよくやる事だもんね(^_^;)。

特に金融業者(高利貸しですね(^_^;))は、荘園の担い手から独立して営むパターンを踏み、その元手は、前回も話した、寺院や皇室や公家の荘園を、大寺院の僧兵などが暴力行為にモノ言わせて強引に手放させるなど、不法入手がまかり通った(^_^;)。

歴史の授業では、鎌倉幕府が滅ぶに至った(武士達に支持されなくなった)理由を、元寇(モンゴル軍の襲来、1274年~)への武功に報いられなかったから、と教わった。
外敵の襲来を追い払うのみで、侵略して土地をせしめるわけではないからだね(^_^;)。

なるほど、御家人は関東に多く、畿内や西国には少なかったから、元寇を防戦すべき九州の武士たちに「非御家人」が多かった点、防備にあたらせるに課題となったのは事実だろう。

ただ、非御家人からは「悪党」が出るなど、次第に社会の歪みを生じたし、幕府が出来て世代が進むと、皇族貴族からも、土地相続の問題解決を求められるなど、もはや幕府は内輪を守るだけでは済まない存在になっていた(^_^;)。

だから元寇が無くても、御家人と非御家人を分け、御家人にだけ恩賞や裁判を行う鎌倉幕府の制度は、遠からず破綻した、とか、商工業や流通・経済の仕組みに制度が追いつかなかった、という分析もあろうかと(^^ゞ。

さて、その後の豊島氏だが、実はこの後あたりから、最後の豊島泰経までの間が、局部的にしかハッキリしない(^_^;)。。

平塚城、石神井城、練馬城を築いた事、支流に赤塚、志村、板橋、宮城などの諸氏を輩出した事が知られるが、それらがいつの時代かは丸きり不明(^_^;)。
(そういう事を知るためにも、練馬城発掘調査はされるべきだと強く思うマジで(-_-メ))

鎌倉時代の終わり頃の紀行文には、豊島あたりの、沼地の雑草が背丈高く生い茂る風景がエンエンと続く様子が書かれるそうだ。

やがて鎌倉幕府に対する討幕活動が、後醍醐天皇を中心に起こる。
元弘2年(1332年)に楠木正成が挙兵すると、鎌倉の武士たちは幕府の指示に従って、これへの討伐軍に加わった。幕府軍は10万で包囲したという。
豊島氏からも従軍者があったようで、北条氏と共に自刃した者もいたらしい。

ところが翌・元弘3年(1333年)になると、討伐軍にあったハズの足利尊氏が、イキナリ幕府に叛旗を催し、六波羅探題を攻略。
と同時に、上野国群馬県)にあった新田義貞も、同じく幕府に叛旗して挙兵。

豊島氏もここでは、この新田義貞の陣に参加している。

新田義貞の鎌倉行軍ルート f:id:potatun:20201102115916j:plain


新田義貞は、↑まず生品神社に、大舘・堀口・里見・江田(世良田)など新田一族を中心とし、岩松・桃井など足利系の人々も併せて150騎で結集(05/08)、一度、高崎方面に西進し、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの新田一族ら2千騎と合流。

おもむろに南下を開始し、越後や信濃から後続してきた5千騎など、途中で加わる武士らを途中に待ち、あるいは加えながら鎌倉を目指した。

その途中に、「畠山」「菅谷」といった、元・畠山重忠の本拠地がある事に注目したい。
幕府および北条氏が、どうしても埼玉北部~中部を直接支配地(将軍家御分国)に置きたかった理由が、この新田義貞の進軍ルートを見ると、理解できるのではなかろうか。

上の地図はわかりやすく、県境を上から重ねてみた。
現在の埼玉県・東京都・神奈川県を南北に合わせて、やっと千葉県と同じ距離という事がお分かり頂けよう。

新田氏は長く鎌倉幕府にとって、反抗的とまでは言わないまでも、従属的とは言いにくい氏族であった。
このように攻め込まれる事を、特に北条氏が執権を独占しきらぬ頃には警戒していたのではないかと、この図から想像できる。

新田義貞のクーデターを知った幕府は、急ぎ軍を動員し、武蔵国南部(東京都)付近でようやく防戦に出る。
05/11、小手指ヶ原の戦い(埼玉県所沢市、05/12、久米川の戦い(東京都東村山市で、新田軍と幕府軍の最初の大衝突を迎えた。

この同日(05/12)、足利尊氏の嫡子・千寿王(当時3歳。後の2代将軍・義詮)の軍が、遅れて世良田に挙兵の旗を立て、新田義貞の後を猛追して来て、この久米川付近で新田軍と合流した。

この足利千寿王を擁した軍の方は、出発時には新田義貞と同じく、2百騎ていどだったようだが、この時点まで瞬く間に、20万7千騎にまで膨らんだと言うから、誇張があるにせよ、足利氏には、新田とは比べ物にならない大規模を募り得る能力が伺える(^_^;)。

さらに、この頃には、京においても足利尊氏六波羅探題を攻略・京を制覇した事が伝わって来ただろうから、これも新田&足利軍に兵力が急増した要因にあっただろう。

05/15~16は、分倍河原東京都府中市・関戸(東京都多摩市)の戦いとなる。
(二ヶ所は近くて、地図ではくっついてしまうので、上の地図には「分倍河原の戦」しか表示をつけてない(^_^;))

豊島氏が、江戸氏、葛西氏、河越氏とともに、新田義貞の陣に参加したのは、この辺りのようで、三浦氏の軍に入ってたようだ。

攻防は両陣営多くの犠牲者を出したが、幕府軍は敗退。新田&足利軍が優勢に進んだ。

あとは鎌倉に入るだけとなった所で、新田義貞は配置を整えるべく、一旦、進軍を止めて軍を三手に分ける。
05/18、極楽寺切通・小袋(巨福呂)坂・化粧坂の三方向から、鎌倉に進軍。

戦闘が続く中、05/21、新田義貞は、さらに西の稲村ケ崎から攻め込み、鎌倉を陥落させ、05/22、北条高時をはじめ、多くの北条氏一門は揃って自刃して果てる。
新田&足利軍によって、鎌倉は制圧された。

新田荘歴史資料館新田義貞

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私達は、歴史(日本史)の授業や教科書で、この時に「鎌倉幕府は滅んだ」「鎌倉時代は終わった」と習うが、それは後に見る社会学的な見解に基づくものであって、当時の人はそう思ってない

ここはわりと重要な所だ。

当時、特に多くの武士は、戦に敗れた(滅んだ)のは「北条氏」であって、その北条氏が担ぐ所の将軍は鎌倉を追われたが、新しい「鎌倉殿には、「新田義貞足利尊氏どちらかがなる」と思っていた。

その両者は、ともに後醍醐天皇の始めた建武の新政のため京にのぼるが、この新政は武士たちには不人気で、その隙を突くように、北条時行(鎌倉に滅んだ最後の執権・高時の子)が、建武2年(1335)、関東に侵攻。
鎌倉は、足利尊氏の弟・足利直義が守っていたが、これを破って、時行が鎌倉を奪取。
中先代の乱である。

尊氏はこれの討伐に鎌倉へ向かう流れで、後醍醐天皇から朝敵(^_^;)とされるに至り、新田義貞の追討を受ける事となる。
尊氏は新田義貞のみならず、後醍醐天皇の下で一度は味方となった楠木北畠も敵に廻し、九州と京を行き来しつつ、建武3年(1336年)、光厳上皇光明天皇を仰いで北朝と成し、足利幕府を開いた(南北朝時代)。

この時代、豊島氏では、泰景が若くして死去し、子の朝泰が幼少だったので、伯父の景村が代行を務めたとする伝説が残る。

清光┬朝経(豊島)-有経-経泰-泰友┬泰景-朝泰
  |               └景村-輝時-景則 
  └清重(葛西)

景村は動乱の時代、豊島宗家を守り、甥・朝泰に余す事なく相伝したとして、中興の祖の誉れを持つ伝承に彩られたものの、伝承も実在も史実に確認できず、作り話の疑いもあるとかで(^_^;)、最近では取り上げられる事がないとか……。

伝承てのは、南朝に属し、この北条時行の子・輝時を養子にしたが、輝時の子・景則で跡が絶えた、というもののようだ。

作り話を疑われる理由を知らないが、もしかしたら、江戸幕府徳川氏が新田氏系の子孫を自称・喧伝した風潮に相乗り……みたいな線(^_^;)?

養子云々はともかく、武蔵国の情勢や豊島氏の立ち位置から見て、私的には、北条氏への癒着性は強そうに思う(^_^;)。
元ソースの史実性が脆弱なんだろうが(これもありがち:笑)、江戸期の調査に誤解があるとしたら、その誤解を支える要素はあると思う。

……この辺で、いっぺん区切ろうかな(>▽<)。<長くなったし

次回は、いよいよ豊島氏の終焉に関わる時代に入る!
すなわち「横糸」に取り掛かりたい!

<つづく>