ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」

今ごろの夏休みで、しばしお休みモードで過ごした(^_^A)。
GoToトラベルにイートに商店街だの、経済政策が取られてるが、どうもこのコロナ禍で、仕事でもないのに県外を超えての移動……というのに違和感を覚えて、県内ドライブに留めてしまったが(^_^;)。。

さて、ブログ続行(`・ω・)

>ところが、武蔵国に関してはそうではなかった(・・;)。。
>いや、むしろ、ここから試練が始まった、と言っても過言でない。

↑そう、ここからだった。
頼朝の死後は、妻・政子の実家・北条氏が、ガチッ└(`皿´)┘と幕府の権力を握り始める。
この北条氏に目を付けられた場所……それが、武蔵国(埼玉県・東京都)なのだ。

まず、この時期の豊島氏を先に振り返ってみよう。

建仁元年(1201年)には、豊島氏は土佐国守護に任じられたようだ。
時の当主は朝経なので、任じられたのも彼かと……。
が、この朝経は、建仁3年(1203年)に比叡山の僧兵と戦って戦死した……と、wikiにはあるφ(。。)m。

まず、土佐に行ったかどうかだが、このぐらいの時期は、葛西氏の例でも話した通り、代理の誰か(支族や家臣)を行かせて、本人は鎌倉にいた例をよく見る。

ただ、その二年後に比叡山に行かされてた事を見ると、畿内・西国に居たか縁があって、出兵させられたのだろうか?

この、建仁3年の「比叡山における戦死」というのは、恐らく同年に起きた、学生(がくしょう)と堂衆の諍いが合戦に発展した事件じゃなかろうか。

堂衆とは、寺院に仕え、雑役や下働きをこなす段階にある下級僧たちで、平安末ごろは大層な力を持つ存在となったものの、延暦寺ではあくまで学生が上位の姿勢を取ったため、堂衆側の反発から暴力沙汰が起こり、両者の対立となった。

この、畿内周辺における比叡山延暦寺だの興福寺だの園城寺だのは、しょっちゅうこういう騒動を起こして、そのたび、平家や源氏が武士を派遣させられては、神矢に触っただの神輿をどかしただのイチャモンつけられ、一方的に不利を被る図式は、鎌倉幕府が出来てもしばらく続いた(^_^;)。

この時は、堂衆側が荘園よりの勢力を駆り、一方の学生側には上層部の加護もあって官軍が投入され、合戦騒動が長引いた。
官軍と言っても、平家が滅亡してるから、こういう場合に武力を貸してくれるのは、鎌倉の幕府から派遣される武士か、のいわゆる北面の武士みたいな人々ではないかと……。

豊島氏が堂衆側についたり、学生側でも「院の北面云々」というのは、ちょっと想像が及ばないので(この時期だと有り得なくはないが(^_^;))、まぁ幕府から行かされたんじゃないかと思う。

堂衆らは、高所から矢を射たり落石したりで戦死者が出たというから、その中に豊島朝経も入ってたのかもしれない。

この時期を、関東(鎌倉)における時代背景、わけても、武蔵国(埼玉県・東京都)をめぐる状況に照らして、さらに見て行こう。

実は、この事件の4年前、建久10年(1199年)に源頼朝が死去している。

頼朝の跡を継いだのは、頼朝の長男・頼家だった(二代将軍)。
頼家には、乳母の比企氏一族がベッタリ張り付いて、頼家の妻に乳母(比企尼)の孫娘が宛がわれたりして、北条氏の二番煎じ路線を突っ走っていた ε=(┌ ̄_)┘
頼家に対して、その母・北条政子ですら介入しにくくなった程だ。

……というストーリーの果てに来るのが、北条氏が主導で行われた「比企氏の乱」である。(wiki見ると「比企能員の変」となってる。今はそう呼ぶのかも(^^ゞ)

この辺の話は、きっと再来年の大河ドラマ鎌倉殿の13人」で詳しく描かれるんじゃないかと(^。^)<お楽しみに

ここでは結果だけ書く(笑)。
要するにこの時期の闘争は、北条氏が、思い通りにならない頼家を廃し、頼家の弟・実朝(三代将軍)を擁立して、外戚としての実権を取り戻そうとする図式にある。
(頼家の乳母勢力は比企氏、実朝は北条政子の妹夫婦と、比企VS北条の構図があった)

勿論、十三人の合議だとか、梶原景時御家人らが追い出したあげく討ち果たした件などからわかる通り、比企氏や頼家の主導する二代目政権への不満が、御家人全体に鬱積してたのは事実だろう。

(……もしかしたら、豊島氏が比叡山の鎮圧か警護に行かされたのも、頼家の恣意的・強権的な言動から出た命令だったり……?)

だから、頼家に不満を持つ御家人らの意見を巧みに吸い上げた結果、北条氏の実権存続へと繋がった事、これも恐らく間違いなかろう

殆どについては、それで説明がつくのだが、一つだけ首を傾げるのが、その後の武蔵国の仕置きじゃないかと、個人的には思う(^_^;)。

これも結論から言うと、武蔵国の名だたる豪族は次々と始末され、その跡地はドンドン北条氏の権益下になっていったからだ。

秩父神社
古代・知知夫神に、秩父平氏妙見信仰を併せた武蔵国の総鎮守f:id:potatun:20201026160800j:plain

まず比企氏は、武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族だった。藤原秀郷の子孫であるらしい。
……ちなみに、この秀郷流というのも、とんでもなく北関東じゅうに広く多く根を張っており、いかに平将門の討伐が関東にとって大きな功績だったか、を物語り得る。
余談はこの程度にしておこう(話すと長くなる(^_^;))。

この「比企氏の乱」の起こった建仁3年(1203年)が、先ほど、豊島朝経が比叡山で戦死したのと同年なのだ。

疑り深い見方をすれば、武蔵国の動乱に関係しそう者を、遠い場所に行かせている最中だと、いっそ比企氏を滅ぼしやすい、と見えなくもない(・・;)。
(例えば、房総の上総広常が討たれた時、同族の千葉氏は平家や源義仲との戦に駆り出されて遠ざけられている)

何しろ、その比企氏を滅ぼしてしまうと、武蔵国の北部(埼玉県)の大きな地域が、ポコリと空いて、そのさらに北部に所領を持っていた畠山氏が、今度は大変に目立つ存在に見えて来る(^_^;)。

畠山重忠は、先に義経がらみで河越氏がどかされた後、河越氏の遺領を任されていた。
埼玉県の中央を、北部が畠山と熊谷、中部を比企、南部を河越で分けていたと言えば、わかりやすいだろうか。

この当時は、まだ一円支配の時代じゃないから、勿論そんな単純じゃないけど、だいたい今言った感じで見ると、武蔵国北部(埼玉県)において、比企の遺領分を、畠山氏が取り巻いてるような具合になる(^_^;)。

吾妻鏡』では、畠山重忠滅亡劇を、畠山重忠の子・重保と、平賀朝雅の口論を原因としている。
平賀朝雅の妻が、北条時政(政子の父)と、その後妻・牧の方の間に生れた娘だったので、北条氏は平賀の肩を持って、畠山氏に武力攻撃を加え、重忠一家を滅亡させた。

ただ、この時政や継母・牧の方のやり方に、政子・義時の姉弟は心から納得したわけではなく、畠山重忠を討ち取った後、義時は他の御家人たちと手を組んで、突然、実父・時政と継母・牧の方を相手にクーデターを起こし、父母を追放する。

これらを、北条氏に都合の良い脚色か捏造のように言う向きも無くは無いけど、私は、だいたいこういった事は本当にあったんだろう、と思っている(^^ゞ。

ただ、河越氏や比企氏を屠った時の状況に比べると、この畠山氏の滅亡劇については、畠山氏本人に討伐されるべき要因が見当たらず、さらにこの一連の事件で、連座的に立場を追われた人物に、武蔵国関係者の関与が濃厚な点など、首を傾げる所が多い。

武蔵国関係者」というのは、一人は、畠山重保と口論したという平賀朝雅で、武蔵国国司であった。
畠山重忠の乱には、この平賀朝雅→平賀の妻→平賀妻の生母・牧の方(北条時政の後妻)→北条時政と、讒言リレーがあったと想像され、そこから討伐が決定されている。

当然、平賀自身も畠山重忠の乱には、北条側として参戦しているが、元を辿ると、平賀朝雅の母は、比企尼の娘であり、疑えば、この平賀氏と北条氏の婚姻からして、武蔵国における比企氏遺領を狙う北条氏の意図を感じなくもない。

さらにもう一人、稲毛重成の関与が怪しい。
稲毛重成は、畠山重忠の叔父(重忠の父・重能の弟)で、重忠が河越氏・江戸氏とともに、長井の渡しで頼朝軍に参加した時、稲毛重成も一緒に参加した。

稲毛重成は畠山重忠の討伐に先立って、畠山重保(重忠の子)を闇討ち同様に大勢で取り囲んで殺そうがため、重保を武蔵国から鎌倉へと誘い出している。
剛勇で知られた重忠も、この嫡子の突然死によって、逃亡や籠城を選択せず、潔く散る事を覚悟してしまう。

又、稲毛は、「畠山重忠が謀反を企てている」と讒言を振りまいたとも言われる。

そして、その畠山重忠がおびき出された二俣川で、多勢に無勢で討たれた直後、畠山重忠に謀反の形跡が無かった事が判明するや、稲毛重成は、北条義時らと示し合わせた三浦義村に、その夜の内に討ち果たされてしまう。

さらに、平賀朝雅も、時政後妻・牧の方が、実朝を殺して新将軍に就けようと企てたカドにより、時を置かず、在京中に鎌倉の手の者によって討たれた。

この稲毛重成も平賀朝雅も、そして畠山重忠も、北条時政の娘を妻に得ている。
稲毛重成になると、甥の畠山重忠の跡地でも保証されて、無実の甥・重忠抹殺に加わり、口封じのため、その日の内に消されたのかとすら思えてしまう。

ただ残念ながら、この武蔵国をそっくり北条氏に明け渡すかの如く、一連にして一瞬の騒動は、印象としては、そう大きいものでもない感じがする(^_^;)。

なぜと言うに、初代・頼朝生前の上総広常に始まり、特にその死後、二代・頼家の幽閉と暗殺から三代・実朝政権になっても尚、梶原景時阿野全成、比企一族仁田忠常、二代将軍・頼家畠山一族北条時政夫妻和田一族、さらには三代将軍・実朝、その甥・公暁と、次々と追放され、粛清され、暗殺されてゆく劇の一コマに過ぎないからだ。

ただ、武蔵国における、秩父平氏らに、河越や畠山の獲得した地場が戻った形跡は皆無である。
畠山重忠の謀反が冤罪であった事を、北条義時が父・時政を追放してまで証明したと言うのに、畠山氏は滅亡し、その縁類に領地を引き継がせる処置は取られてない。

辛うじて、「畠山」という苗字のみ、畠山重忠夫人だった政子の妹(義時の姉妹)が、足利氏庶子に嫁いで、そこに継がせて、室町以降まで名を響かせたが、これもその後の流れから見ると、畠山重忠が片付けられた一瞬に決した、その余韻と言えよう。

武蔵国北条氏に目を付けられた、それが、その後のあらゆる点に影響してゆく。
この事は、このあと江戸時代に至る頃まで、この地に長く残存した構図として、記憶に留めて損は無いと思う(^_^;)。

秩父神社・境内。神社は「夜祭」で有名f:id:potatun:20201027071950j:plain

ちなみに、この畠山討伐については、葛西清重の名も先頭を切った部類に見えるので、当然ながら勝ち組に属したと言えよう。
同族の豊島氏も、ほぼ同じような立場ではなかったかと……。(朝経の戦死後、間もないので、動きは無かったかもしれないが)

承久の乱(1221年)でも豊島氏は幕府軍にあり、一族らしき名が見られる。
……先ほど、比叡山の学生×堂衆の騒動で、豊島氏戦死の疑問を話したが、承久の乱を経た後は、幕府も京に六波羅探題を設置したので、ここから鎮圧の武士を遣わす連絡機能を果たしただろう。

次回は、いよいよ南北朝に行けるかなっ(^O^)

<つづく>

縦糸-3「平安末~鎌倉朝・豊島氏の発祥と秩父平氏」

前回は、治承の乱(源平合戦)スタート時の、頼朝の伊豆挙兵で終わった。

今回は鎌倉時代より先の話をする(`・ω・)

まず最近、「鎌倉時代」の開始時期というのが諸説ありすぎて(^_^;)、昔みたいに「いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)」と覚えればいいわけじゃない点が厄介(笑)。

まぁしかし、感覚的に「ざっと、頼朝が史上に登場した辺りから」と皆さん思っておられるだろうから(^。^)、私もだいたいその線で行かして貰うッス。

前回は、高望王が関東下向して、国香・良兼・良将・良文・良茂という男子から、子孫を広げていった事、このうちの「良文」が、豊島氏に繋がる事を書いた。↓

系図1)
良文-忠頼┬将常┬武基(秩父)-武綱
     |  └武常(豊島・葛西)
     └忠常(千葉氏)

そして、豊島氏の方に繋がる、武常-常永-康家と来て、清光が、頼朝の求めに応じて、子の清重と共に参陣した事を書いた。↓

系図2)
┌武基(秩父氏)-武綱-重綱      ┌朝経豊島氏
└武常-常永(常家)-康家-清光(清元)┴清重葛西氏

上の系図を見ての通り、この代から、長子・朝経が豊島郡に住んで「豊島氏」、次子(三男とも)・清重が葛西に住み、葛西御厨を継いで「葛西氏」と、それぞれ称して分かれた。

しかし今回はここらで、豊島氏に分かれる以前の、秩父族が経た、「頼朝陣営への参加劇」に始まり、その後の経過と末路について述べる。

というのも、豊島氏についての記述を読むだけだと、後半の「横糸」あたりに近づいて来るにつれ、フツフツと疑問感が沸いて来そうに思うから(^_^;)。。
豊島氏はわりとスンナリ頼朝の「御家人」になり、その後も真っすぐその道を辿ったが、他の秩父は必ずしもそうとは言えない。
そこから押さえないと、なぜ戦国初頭、イキナリ没落に至ったかにも迫り切れない気がした。

というわけで、豊島氏・葛西氏に繋がる「武常」の方ではなく、秩父氏に繋がる「武基」の系譜を見て貰いたい。

系図3)
武基(秩父)-武綱-重綱┬重弘-(畠山)重能-重忠-重保-重国
            ├重澄(重隆)-(河越)能隆-重頼-重員-重輔-真重
            └(江戸)重継-重長-忠重

武基の子・武綱が「後三年の役」(1083~1087年)に参加した事は、前回書いた通りである。
その後は、上記の通りに展開し、頼朝の伊豆挙兵を迎えるまでに、秩父氏は畠山」「河越」「江戸の三氏に分かれている。
(スイマセンが、この三氏の名を、今覚えて下さい(^_^;))

三氏の中でも惣領格は、畠山氏だったと見られ、武綱の子・重綱から畠山重忠に至るまで、代々、武蔵国総検校職(そうけんぎょうしき)などを勤め、これは秩父氏が、武蔵国衙の在庁官人であった事を示す。

畠山重忠史跡公園(館跡)の畠山氏廟。内部に6基の五輪塔が安置されてる
f:id:potatun:20201022182406j:plain

ところで……。頼朝が挙兵するまで、世の趨勢は圧倒的に伊勢平氏にあった。
有名な「平清盛」を長とした「平家一門」だね(^^ゞ。

この伊勢平氏こそ、「平将門の乱」でも、「平忠常の乱」でも、将門や良文、そして良文の子・忠頼、忠頼の子、忠常に至るまでが敵対して戦った、国香流の子孫である。

しかし国香の子・貞盛の流れが「伊勢平氏」と言われる点を見ても察せられる通り、平将門の討伐で手柄を立てた後、本拠を伊勢に移している。

と言っても、キッパリ関東(当時は坂東と呼ばれた)と手を切ったわけではなく、貞盛の弟・繁盛以降の系譜は、以前のまま常陸国茨城県)に居残り、常陸平氏として、多くの氏族を広げた。
中でも、「大掾」というのが、常陸平氏らの中核的氏族と言えよう。

(一般的に、「平家」は清盛を中心とする一家の事を指し、「平氏」というと、常陸平氏良文流秩父平氏房総平氏・相模平氏なども含める事が多い。あと実は、高望王より前に枝分かれした桓武平氏も「平氏」ではある)

ただ前回も話した通り、「平忠常の乱」の終息時、忠常が源頼信に従って降参した時、それまで内乱状態を続けていた国香流も良文流も、頼信の下に等しく、後の「御家人」の初端を掴んだ。
その後の「前九年の役」「後三年の役」では、かつての敵も味方も無く、そろって頼信以降の源氏の下に従った。前回書いた通りだ。

だから、ずっと反目しあってたわけではなく、この鎌倉幕府創成期に名の上がる、関東の御家人たちは、横同志の婚姻なども行われて、それなり強固な基盤が出来ていた(^^ゞ。

あとは、上に頼朝が乗っかり、行政手腕に詳しい京下りの下級貴族(大江・三善など)が加われば、「幕府」が出来てしまう程度に、既に頼朝政権を支える土壌が、関東に根深く広く形成されていたのだ。

ところが、ここに再び、坂東武士達と伊勢平氏との因縁が再燃する(^_^;)。
それが、「平治の乱」(1160年)以降、この「治承の乱」(1180年~)に至る過程だった。

平治の乱」については、詳細は省くね(^_^;)。
必要な経過だけ書くと、その前に行われた「保元の乱」(1156年)では、平清盛源義朝(頼朝の父)も勝ち組だったのだが、次の「平治の乱」では、清盛勝ち組となったが、源義朝は負けてしまい、逃亡中に殺されてしまう。

義朝の子・頼朝は捕まったが、少年だった事もあって、一命を許され伊豆国静岡県)に配流となる。

一方、秩父氏族のいた武蔵国(埼玉県・東京都)は、平治の乱後、平知盛知行国となった。
平家の台頭というのは実に急で、下の表でわかる通り、僅か10年の内に、瞬く間に清盛一家が日本じゅうに地場を広げ切っている。

 
 
西暦→
1151
1156
1158
1159
1160
頼盛
頼盛
経盛
経盛
頼盛
 
 
 
教盛
教盛
武蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
知盛
 
 
 
 
重盛
重盛
重盛
宗盛
基盛
基盛
 
 
 
 
 
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼盛
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
 
教盛
 
 
伊賀
 
 
 
 
 
 
 
経盛
経盛
経盛
大和
 
 
 
基盛
基盛
基盛
教盛
 
 
 
播磨
 
清盛
清盛
清盛
 
 
 
 
 
 
淡路
 
教盛
教盛
教盛
教盛
教盛
基盛
基盛
宗盛
宗盛
伊予
 
 
 
 
 
 
 
重盛
重盛
重盛
安芸
清盛
経盛
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清盛
清盛
清盛
清盛
清盛
清盛


武蔵国は、この平家の影響が強かったと見られ、秩父平家方に加担してたようだ。
これは、総検校職という国衙組織に属す立場上、仕方ない事でもあっただろう。
当時の平家は、国家(政府)そのものだったからだ(^_^;)。

これより治承の乱(1180年~)までには、さらに20年あるので、特に畠山重忠のような若者は、平家の勢いに靡いたんだろう。今の若者が長らく自民安倍政権しか知らない(からそれを支持してしまう)のと同じような現象と言えよう。

一方の頼朝は、北条政子と駆け落ち結婚した後、北条氏など在地の武士に協力を得て、挙兵したわけだが、これは、畿内の動きに連動してのもので、慌てた分、お世辞にも勝機に恵まれた挙兵とは言えなかった(^_^;)。

挙兵戦の奇襲だけは上手くいったが、前回も述べた通り、その後の「石橋山合戦」では、味方3百騎に対し、敵方は3千余騎、10倍以上!(((( ;゚Д゚)))

この時、頼朝らが戦った相手は、大庭伊東といった相模国における平家方の勢力だったが、同時期、頼朝の味方だった三浦氏の居城・衣笠城でも籠城戦が行われており、これの平家方の相手が、先に言った秩父流の三氏・河越重頼畠山重忠江戸重長だった。

頼朝も三浦氏もボロ負けし、味方してくれた北条氏や三浦氏から戦死者を出しながら、頼朝主従は何とか伊豆半島を脱出、海路を安房国(千葉県南部)に渡った。

房総で、まとまった勢力で迎えてくれたのが、前回も書いた千葉氏であり、さらに大勢力を率いて、千葉氏と同族の上総氏も合流。

そのため頼朝も、下総国(千葉県)から武蔵国(東京都)に渡る頃には、だいぶ余裕を持つに至り、そこに新たに合流したのが、秩父流の三氏・河越重頼畠山重忠江戸重長だった。

もはや関東における頼朝の威勢は不動と踏み、ここで平家を捨てて頼朝(鎌倉幕府)への帰順に至るのだが、ここからはちょっと詳しめに書く事にしよう(`・ω・)

まず頼朝は、09/28、三者の内で、長老格だった河越重頼も、惣領家格らしき畠山重忠も無視して、江戸重長を呼びつけた。
江戸重長は様子見をしていたが、頼朝は彼をおびき出して殺そうとまで考えた。

10/02、頼朝が武蔵国に乗り込む。
これに対し、豊島清光(清元)と葛西清重が参加した。
……さっきも書いた通りだね(^^ゞ。

二日遅れて10/04、河越重頼畠山重忠江戸重長が、長井の渡しで頼朝に帰服。

豊島・葛西が比較的、頼朝から厚遇を受けたのは、恐らく平家方に加わってなかったからではないかと思われるが、見ようによっては、この「僅か2日」の差も小さくなかったかも(^_^;)。。

頼朝という男は、頭の中にスパコン富岳が入ってんのかと疑う程、記憶力が素晴らしく(笑)、後々まで、この当時の一連の戦いで、誰が早く味方に駆け付けたか、そうせず様子見をしていたか、幕府が出来た後も尚、敵対していたのは誰か……といった点を、その後も甲乙の点数表にしていたフシが窺える(^_^;)。

これが、後に「いざ鎌倉」「すわ鎌倉」と合言葉化し、武士たるもの御家人たるものは、鎌倉に異変があった時は真っ先に駆け付け、「鎌倉殿」(最初は将軍ではなかったので)のために働きを見せる。
これこそが、東武士に求められる第一条件となった。

さて、いわゆる源平合戦も本格化してゆく。
寿永3年(1184年)には、京にいた義仲軍に対し、鎌倉からは頼朝の弟・範頼義経がそれぞれ一軍づつ率いて、その追討を担う。

豊島清重も、範頼に従って九州まで渡り、平氏追討で武功をあげている。
その子・豊島朝経は、元号かわって、元暦元年(1184年)に紀伊国守護に任ぜられた。


義経鵯越の逆落としで、馬を背負って下りたとされる畠山重忠の像
(無論、軍記物の脚色でしょうが(^_^;)) f:id:potatun:20201022184055j:plain

そして、ついに平家が壇ノ浦に滅ぶ(1185年)と、ほぼ同時に、今度は頼朝の弟・義経の追討と探索が始まる。

まずこれで、義経の舅(妻の実家)だった秩父流の河越氏連座の罪に問われる(^_^;)。あげく、重頼とその子・重房誅殺されてしまう!

この、平家滅亡後しばらくの間、鎌倉幕府は、奥州藤原氏岩手県)を主な脅威と感じて体勢と行動を取ったように思われる。
そうした奥州への間にある、佐竹氏常陸国茨城県北部)、新田氏上野国南部=群馬県)など、不穏な構えや曖昧な態度を取り続ける豪族たちに、頼朝らは始終神経を尖らせていたから、秩父監視対象にあったとしても、やむを得ない部分はあっただろう。

問題の義経自身は、頼朝に叛旗を翻したが兵が集まらず、エンエン逃げ回って、最後は奥州に隠れたが、奥州藤原泰衡に討たれた。
そして、ついに奥州藤原氏も、幕府の奥州征伐によって滅びる(1189年)。

この奥州藤原氏征伐(奥州合戦)には、抜け駆け争いに豊島氏の名も見え(笑)、皆とても張り切っていた。

中でも、葛西清重は活躍し、その平定により、奥州総奉行に任ぜられた。
以後、葛西氏は奥州で大勢力をなし、陸奥の大名に成長していくのである。

(と言っても、大抵は支族か家来を現地に置いて管理を任せ、当主は鎌倉に戻って、幕府の家人として仕えるものであり、葛西氏の場合も同じで、本格的に奥州に本拠を移すのは、四代後の清経、又はその子・清宗からであったようだ)

勿論、あの畠山重忠も、平家との戦いにも、この奥州征伐にも参加して、武功をカウントされたから、今や、鎌倉参加前の平家寝返り組といった前歴からは解放され、奥州にバッチリ所領をゲットした。

建久元年(1190年)、頼朝の上洛には、多くの豊島氏一族が供奉している。
これも鎌倉武士・幕府の御家人にとっては、これ以上ないぐらい栄えある舞台であり、畠山重忠も、この誇り高い行列に、晴れがましい先陣の役目を担った。

普通なら、取り合えずここで、一先ず安泰を得たと思える所だ(^_^A)。
事実、頼朝はこの上洛後、ついに征夷大将軍に任命され、幕府は半ば正式の公的機関となった\(^O^)/。(これが「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年ね(^^ゞ)

ところが、武蔵国に関してはそうではなかった(・・;)。。
いや、むしろ、ここから試練が始まった、と言っても過言でない。

<つづく>
(ちょっと12連載じゃ済まないかも。13連載は行く感じ(^_^;))

縦糸-2「平安期・良文流と東国の大乱」

今後は逆に、一気に平安期に戻り、豊島氏発祥より前の時代に行く。

桓武天皇葛原親王┬高棟……平時子平清盛妻)
         └高見王-高望王┬国香┬貞盛-(北条・伊勢平氏・伊勢=後北条)
                  |  └繁盛-(城・岩城・大掾
                 ├良兼
                 ├良将-将門
                 ├良文-忠頼┬将常┬武基(秩父・畠山・河越)
                 |      |  └武常(豊島・葛西)
                 |     └忠常(上総・千葉・相馬)
                 └良茂-良正┬公義(三浦・和田・佐原)
                       └到成(鎌倉・大庭・梶原)

ワープロは横書きが主流なので、系図が横向きになってスイマセン(^_^;)。。
→→→左から右に見て下さい→→→

豊島氏の発祥は桓武天皇に遡る。
その曾孫・高望王の時、親王任国の制度によって、関東に下向し、国香・良兼・良将・良文・良茂以下の子孫を広げた。
(上の系図では、良茂流として書いたが、三浦・和田・鎌倉・大庭・梶原も、良文流と解釈する向きが近頃では多い)

はじめは任官先の上総国(千葉県)に来たものと思われる。任官は、寛平元年(898年)という。
上総国(千葉県)の後は、常陸国茨城県)・武蔵国(東京都)・下総国(千葉県・茨城県)の順に領したと考えられる。

が、国香と、その弟・良将の子、将門との間に武力衝突が起き、将門が国香を討ち果たしてより、いわゆる平将門の乱が起きる(承平の乱・935年~

国香の死後、国香の弟・良兼や良茂(『将門記』には良正とある)、国香の子・貞盛が騒乱を引き継いで、将門との敵対を続け、戦いは長引いた

やがて、平将門の存在は関東に鳴り響くようになり、騒動の芽が、将門の住まう下総国(千葉県・茨城県)から外にも点火して、一族同志の戦いにとどまらず、乱は関東全体を巻き込み、広がった(天慶の乱・939年~)。
ついに将門は、京の朝廷からも敵視されるに至り、討伐の兵を差し向けられた。
が、京軍の到着を待たず、貞盛と藤原秀郷の連合軍によって、将門は討たれる。

(※ 平将門については、この「将門の乱」という史実より、「死後の祟り」なるオカルト話の方が数倍もボリュームがある感アリ。が、ここでは割愛させて貰う(^_^;))

茨城県常総市「将門公苑」(豊田館跡)の「平将門公之像f:id:potatun:20201019145902j:plain

これが「一族の戦い」であるにも関わらず、豊島氏に続く「良文」だけは、この乱に全く名を見せない(^_^;)。

しかしこの良文からは、氏族・子孫が極めて多く輩出されてゆき、同じ良文流からは、その威勢の強さや広がりを示すべく、後に「坂東八平氏」と呼称されるまでに発展した。

しかも同じ東京にある、あの有名な神田明神で、平将門祭神であり、大手町には首塚もあるから、この乱と良文の関わりが気になる人も多いのではなかろうか(^o^)

古くは、良文の子・忠頼について、「平将門の乱に立てた功績により、武蔵押領使陸奥となった」とされてたようだ。

ところが、その当時を確認できる史料に裏付けが見当たらないため、この功績の根拠は、後世付会か創作(誤伝・自称)が疑われ、歴史学的には信用を置かれてなかった。

その一方、同じく良文の子・忠頼から出た相馬氏(千葉氏の支族)には、「良文と将門は共に手を組んで、国香たちを相手に戦った」とする縁起話が伝わる。

良文・忠頼の父子は、将門の敵か味方かどちらが正しいのだろう(^_^;)。

そこに近年、「将門の死去を京に知らせたのが、良文ではないか」とする資料が発表された。
私も同史料は確認した。(確証するには至れてないが(^_^;))

そこで改めて、相馬氏に伝わった伝説を詳らかに見てみると……φ(。。)m。
同伝の妙見縁起には、「はじめは良文と将門は手を組んだ」が、後日、「妙見が将門を離れ、良文の家に来た」というのだ。
(「下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻」1662年)

すると……。
身内同志の戦い「承平の乱」では、良文は他の兄弟と袂を分かち、むしろ将門に味方した。
が、さらに拡大した「天慶の乱」では、「妙見の加護を得られない→将門の味方は出来ない」と判断。

そこで良文は、積極的に将門に敵対はしなかったが、合力もせず、その死去の報を朝廷側に伝える程度の働きをし、功績が認められた……と、こうではなかろうか(^_^;)。

良文と将門が、国香と戦って劣勢に陥り、妙見菩薩に助けられるシーンf:id:potatun:20201019153331j:plain


この「平将門」に属する話は、後にまた登場させるとして、今回は先に進むが、以上の推測を元に考えれば、良文の時点では、それほど大きな功績と認められたとは受け取れない。

続く忠頼については、どうだろうか。
実は忠頼は、先に書いた、国香の次男(貞盛の弟)・繁盛と鋭く対立していた。
繁盛が太政官に宛てて、「比叡山に納経しようとするのを忠頼が邪魔をする」として、朝廷に討伐を要求しているのだ。

忠頼繁盛の間のこの確執を、さらに子である忠常維幹が引き継いだ対立図の上に、忠頼の次子・忠常は、房総(千葉県)において、続いて起きた騒乱平忠常の乱(1028年~)で、都から謀叛者と認定され、本当に討伐を差し向けられたため、房総はその後長く、亡国・亡弊国と呼ばれるほど衰退するに至るのだ。

高望王国香貞盛-維将-維時-直方
   |  └繁盛維幹(維基)
   ├良将-将門
   └良文忠頼-(千葉)忠常

この「平忠常の乱」は、良文流と国香流の子孫同志が争いあってる点から、将門の乱の延長とも、あるいは将門の乱による勝ち組同志の内輪揉めとも受け取れる。
(良文・忠頼の父子が、将門や国香と、どの時点で敵味方であったかが、重要だろう)

しかも朝廷から向けられた討伐の大将には、繁盛・維幹に近い直方が配置された。
これが、忠常側から見て、なかなか終戦したくない(戦が長引いた)事情にあったと見られている。

この事情を裏付けるかのように、ここに平忠常の主君であった、清和源氏・河内流の源頼信(頼光の弟)が討伐に来ると、途端に、忠常は自分から進んで降伏し、乱はあっけなく終息した。

忠常は護送中の美濃国岐阜県)で病没したが、忠常の子孫は、上総氏、千葉氏として枝を伸ばし、後に、豊島氏太田道灌との戦いにも登場するのである。

一方、同じく忠頼の子(長子)で、豊島氏の祖・将常(将恒とも)は、この平忠常であったが、忠常の側について朝廷に歯向かった形跡は無く、その後も武蔵国に安泰だっただろう。
武蔵権守となったとされ、武蔵国秩父郡中村郷(埼玉県秩父市)に土着し、秩父を名乗った。

ただ、一説によると、将常と忠常は平将門の娘を母に持つとする伝えもあるようで、将常の子孫(江戸氏など)と忠常の子孫(千葉氏・相馬氏)が、平将門の慰霊や祭祀を行ったと伝えられる事と関係があるのかもしれない。

この江戸氏、↑上の系図には狭くて書き込めなかったが、「豊島氏」に枝分かれする直前に分かれた「秩父の一族である。

ただ、将門の血筋を云々する事情には、平安末に向って荘園勢力の進出等に伴い、地場確保のための喧伝、という要素も指摘されている事は述べておこう。
ちょくちょく朝敵クラスの有名人の子孫が、その血筋や系譜を主張する傾向がみられるのは、相続アピールが絡んでいるからと見られる事が多い(身も蓋もない言い方(^_^;))。

秩父は、将常の長子・武基に受け継がれる一方、将常の次男、武常が、治安3年(1023年)に武蔵国で、武蔵介・藤原真枝なる国司が兵を構えたのを討った功で、武蔵国(東京都)豊島郡下総国(千葉県)葛飾郡葛西を賜った。
他に駿河国(神奈川)・上総国(千葉県)にも恩賞地を得たともいう。

この武常の系譜が、豊島氏に繋がってゆくのである。
東京都北区豊島が豊島氏発祥の地とされ、平塚神社豊島舘跡と伝わるそうだ。

平忠常の乱」をキッカケに、降参した忠常ばかりでなく、他の多くの坂東武士たちも源頼信に与し、頼信以降の清和源氏と、長く主従関係を築く将来へと繋がってゆく。

と同時に、源頼信の子孫も、本格的に関東へ進出してゆく。

頼信の子、頼義と、さらに子の義家八幡太郎)は、前九年の役(1051~1062年)に、多くの坂東武士を従えて、陸奥安倍討伐に向かっている。
武常も、この源頼義・義家の父子に従って、奥州で戦死した。

この「前九年の役」は、多くの関東武士の戦歴の初段にカウントされる事が多い。

平忠常の乱」では、反目しあっていた国香流と良文流の子孫たちも、源頼信の家臣となり、「源氏を棟梁に掲げる」事によって、その下で争い合わず、共存する道を新たに開拓したのである。
その最初の軍事動員が「前九年の役」だった点は、関東武士にとって小さくなかった。

武常の後は、常永-康家(これより豊島氏)-清光と続く。
(豊島氏の系図は、手持ちの資料とネット上に見る物と、ちょっと違うので、後で検証された物の方が正しかろうと思い、Wikipedia等の情報に従う事とします(^_^;))

秩父氏では、武基の子・武綱後三年の役(1083~87年)に、源義家方として参陣してる。豊島氏では常永が、ほぼ同世代と見れようか。
保元の乱(1156年)平治の乱(1160年)にも豊島氏は出陣したと見え、保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に、豊島氏の名がみえるらしい。

(源氏の方は、義家の後、義親-為義-義朝-頼朝と続く)

治承4年(1180年)、伊豆で源頼朝(義朝の子)が挙兵。頼朝は石橋山の戦いで敗れ、安房国で再挙した。
この頼朝に、豊島権守清光(清元)は小山氏・下河辺氏・葛西氏らとともに呼応、子の清重をつれて参加。関東平定戦に従軍し、以後、代々鎌倉幕府に仕えた。

以上、良文流にも色々苦難はあったが、豊島氏に受け継がれる武蔵国の流れには、戦死など悲しむべき出来事はあれど、概ね大過なく来た感じが伺える(^_^A)。

しかし、これも鎌倉時代に入ると、中々そうはいかないのである。。

以降は、次回に引き継ごう(^O^)ノ

縦糸-1「江戸期の豊島氏」

前回からの繋がりから、江戸時代の豊島氏を先に書こうかと思う。

ただ、前回も書いた通り、残念ながら、どれも石神井や練馬の「豊島泰経」との繋がりが不明である。

石神井や練馬の「豊島泰経」には繋がらなくても、そもそも豊島氏は平安期から続く家系で、「豊島」に枝分かれしたのも早い時期なので、相当根元から分かれても「豊島氏」を名乗る可能性はある。

しかし、これから書く江戸期の豊島氏は、どちらも「豊島泰経の子孫」を称しているようだ(^_^;)。

そこはやはり、江戸のある武蔵国に、徳川の来る前時代、勢力を誇った「豊島氏」との繋がりを持ち出す方が分があった、という事になろう。

ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏相馬氏などに対する憧れ感情が、地元に強かった形跡が伺われる。
(ありもしない)「合戦があった」とする作り話まで伝わっている(^_^;)。

そういった意味での「伝統」として見れば、やはり「豊島氏」の痕跡は、練馬城や石神井城のある練馬区に残していかなければならないのではないかと思う。

では、早速、江戸期の豊島氏の話をする。

まずは、布川豊島氏というのがいる。
千葉県から茨城県利根川(県境)を越えて入って、スグの所に「布川城跡」がある。
戦国期については後で話そうと思ってるが、下総における合戦にも名を顕わして来る。

落城前は、後北条氏に召し抱えられた勢力だったが、これが小田原に滅んだ後は、江戸入りしてきた家康の徳川家に仕え、旗本になったようだ。

が、三代将軍・徳川家光の時代、江戸城内で刃傷事件を起こし、断絶となった。

この事件は、後に、浅野長矩(内匠頭)が松の廊下で、吉良義央(上野介)を相手に起こした刃傷事件の折、その前例として参考にされたんじゃないか、と思う。

松の廊下事件との違いは、斬り付けられた相手(井上正就)が絶命している事、斬り付けた豊島信満はその場で切腹した事が違う。
この切腹、後ろから取り押さえにかかった青木義精という侍まで、その刃が貫通し、共に死に至ったというから、物凄い(*_*)。。

こう聞くと、今の時代の人は「残酷な(*o*)」と、良い印象を持たないかもしれない。
私も最初にこの話を聞いた時は、あまり詳細を知らなかったのもあって、浅野内匠頭みたいなノイローゼかな?とか思った(^_^;)。

しかし、よく内容を見ると、そうではなさそうだ。

元禄の頃の浅野と吉良の刃傷事件では、相手を討ち果たせない点を、浅野内匠頭がその場で押さえつけられた事とあわせて、「武士道にもとる」と酷評されるシーンを、しょっちゅうテレビドラマになる「赤穂浪士の討ち入り」では、よく見る。

小説家の味付けが引き継がれてるのか、当時の記録に、学者らの意見として記録されてるのか、正直この時代にあまり詳しくないので、出典についてはよく知らない(^_^;)。

しかし、江戸時代の感覚は、何となくわかる。
私自身は中世史好きだが、江戸時代にも歴史学は盛んに行われており、現在の歴史観にも多少の影響を与えている。
このように、江戸時代の人の感覚は、歴史を学ぶ折々に沁み込んで来るのだ。

その点から見ると、江戸時代は、下手すると、戦国時代以上に「武士とはこうあるべき!」と律せられた時代と言える。

そういう時代なのだ。
武士が刀を抜くからには、目的(殺害)を達成し、自らの命も顧みない覚悟を求められた。

だから、罪状的には「有罪」であり、表面的には「凶悪犯」であったとしても、受け取る人々の心情的には「よくやった」「相手を討ち取ってこそ武士」であり、さらにその場での切腹も「潔し」「清し」と、高潔に写ったんじゃないかという気がする。

また、怨恨の原因が、豊島信満が仲人であった縁談を、井上正就が一方的に破談した事に原因があった。

これも、豊島氏にとって、そこそこ評判が悪くなかったと思う(^_^;)。
仲人と言うからには、信満自身も不名誉を浴びただろうが、破談にされた家の娘の体面を守りたかったと、言葉には出さずとも皆が納得したんじゃないかな、と。

時代劇で言うと、「晴れせぬ恨み晴らしてみせた」、必殺シリーズみたいな事を、豊島信満はやってのけたわけだ。

井上に断られた縁談相手は、大坂の町奉行だった。
対して、新しい縁談相手は、徳川家譜代家臣・鳥居家で、当時江戸城における実力トップの春日局の口利きだったと言うから、斬られた被害者とは言え、井上正就の破談と再縁は、出世目当てと思われて仕方ない。
徳川の元に治世され、幕閣の権力もドンドン大きく成長してゆく時代だったからだ。

それと、家光ぐらいの時代だと、まだ戦国ムード満載で、特に江戸っ子たちには、自分達の住む江戸に元いた豊島氏の名に、一種の憧れの気持を持ってたと思う。

ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏や相馬氏などに対する憧れ感情が強かった事は先に述べた。

そういう時代だから、豊島氏の刃傷事件は、ウケが悪くなかったと推察する。
だから、これと浅野&吉良の刃傷事件の内容は、遠慮なく比較されたと思う。

こういう前時代もあって、赤穂浪士は無理をしてでも、主君が果たせなかった吉良上野介殺しを、何としても果たさなければならなかったんじゃないかなぁ……。

と、かように愚考している。

信満の子、吉継切腹となった。
この点も、お預けの身とは言え、浅野家は長矩の弟、長広(大学)は存命を許されたから、違う点だろう。
ただ、その後、どうも豊島氏は姓を変えて、紀州徳川家に召し抱えられたらしい。

もう一個、江戸期に伝わる豊島氏の子孫話があって、絵島生島事件の「絵島」(江島)である。
私は「絵島が豊島氏の子孫」と聞いたんだが、wikiで調べると、どうも絵島の養父(母の再婚相手)、白井久俊というのがそうらしい(^^ゞ。

絵島は、七代将軍・徳川家継の生母・月光院に仕え、大奥年寄にまで出世した、大奥きっての実力者だった。
寺社参詣(将軍の正室・側室は外出が適わないので、代理で参詣する通例があった)の帰りに芝居小屋に寄って、門限に遅れた事から尋問を受け、芝居役者・生島新五郎との密通嫌疑で逮捕・拷問され、遠島となって、大奥に戻る事はなかった。

しかし遠島後、8年ほどで、厳重な獄牢状態が緩和され、ほぼ赦免者として老後を送ったらしいんだよね(^^ゞ。

だからか、絵島の密通は実は冤罪で、月光院の力を削ぐために、密通をでっち上げられ、月光院から引き離された、とする説も散見する。

(その一方、この事件を時代劇などで取り上げる場合、必ず、絵島と生島が(プラトニックであれ)恋愛感情を持ってた具合に描かれるけどね:笑)。

ところで、この絵島と豊島氏については、絵島の弟が豊島姓を名乗っている事が目をひく。(常慶と言うらしい)
絵島の兄は、養父の「白井」姓を名乗ってるようだ。

豊島姓を再興する必要から、復姓したのか、単に兄が親の名を継いだので、弟は分家の都合上、別姓を名乗ったのか、それとも、やはり豊島氏の名が惜しまれる時代背景ゆえか、殊、豊島氏に関するブログを書く以上、特筆しておこうと思った(^o^)v

「豊島氏」を際立たせる「縦糸」と「横糸」

本題前の前振りを、パパパと済ませたので、後はノンビリ行かせて貰おうかと思います(^^ゞ。

じゃ、そろそろ本題に入りますよ(^o^)<まずは準備体操~♪

豊島氏については、横糸と縦糸の両方から迫るのが良いと思う。

その理由は、豊島氏本体だけで語るには、あまりにマイナーだからだ(^_^;)。
長く続いた氏族でした。太田道灌と戦って滅亡しました。その後の消息はわかりません。
↑これだけで史料館の設立は厳しい(^_^;)。

ただ、それなら豊島氏の存在価値は、色々かき集めないと無い程、希薄な物かと言えば……、

その捉え方こそ、東京の歴史を地に貶めて来たと知るべし!
と強く言いたい。

てゆうか、幾ら有名でも、伊達政宗とか武田信玄とか真田昌幸とか、戦国武将はいっぱい居過ぎて、博物館を作った所で、どれも似たような味しか出せないんだよね(^_^;)。

それと、何だか、としまえんの跡地活用については、区のみならず、都にも計画の幅が及んでるやに聞く。

「都」となると、日本国の首都である。
そういう立場で建てる歴史資料館なら、区民会館に一室を構える児童図書館クラスの展示に抑えるのでいいだろうか?

その点、現在の所、これより示す、縦糸と横糸の織り成す世界観を現在に伝えている歴史資料館は、全国探しても無かろうと思う。

横糸」は、練馬城石神井だ。
この跡地が今でも東京都練馬区に残り、地名として伝わっている以上、この城の城主としての豊島氏の姿が、土地と土地に住まう住民にとって、もっとも重要である。
となると、太田道灌に攻め滅ぼされた室町~戦国時代が「横糸」になる。

一方の「縦糸」は、代々の豊島氏の軌跡である。
平安時代に関東地方に下った、桓武天皇の子孫・高望王から始まり、やがて枝分かれし、豊島氏として東京(武蔵国)に基盤を張り、城が落城した後、江戸期に文献に現れる「豊島」姓の末裔らしきに至る、先祖から子孫へと続く時間、これが「縦糸」だろう。

ただ……残念ながら、道灌との戦い(江古田沼袋の乱・石神井落城)に名の出る「豊島泰経」と、江戸期に名を顕わす「豊島氏」とは、系譜に繋がりがある事が確実視されてないみたい(^_^;)。

そこが繋がらないと、どういう弊害があるかと言うと……。

普通、戦国期の城跡は、江戸期に入って廃城となっている物が多い。
平城ならともかく、山城で江戸期も残った物は殆ど無いんじゃないかな(^_^;)。
私の知る限り、岡山県備中松山城なんかは維持されたみたいだけど、後は殆ど聞かないですね。

しかしそれは「城」の話であって、中に住んでた一族の系譜が保たれていれば、何とかかんとか現在に「〇〇城跡公園」みたいのが復興され、子孫筋の人とかが、そこの名誉城主サンみたいなノリで、祭りに加わったりなんかするのよ(^o^)。

戦国期を通して生き残った武家は、江戸期に子孫が絶え切ってしまわなければ、維新まで何となく系譜を続けてるものだ。
男系が絶えても女系に婿取りするし、それも絶えても、傍系に伝わる血筋から養子を取ってくればいいからだ。

豊島氏は戦国期初盤で滅んでしまったから、土地に、昔を懐かしむ子孫や、それを取り囲む地元意識が根付かなかったのかなー、と現状を見ると思う。
(他にも事情があるかもしれないけど、これも後で書くかも)

そういうのが残ってる土地はどうかと言うと、お殿様の家系が結婚などすると、奥さんやお子さんも連れて「お国入り」みたいな感じになって、そこの一年に一度の「〇〇祭り」を盛り立てに来てくれたり、地域の新聞や広報誌に寄稿したり、自分でサイト発足して家伝の歴史だとか書いて、集客を手伝ってくれたりする(^^ゞ。

殿様ばかりではない。
城下町に形成された商店とか工場の子孫の人らが、城跡を中心に、今でも市場展開してたりして、祭り開催の養分になっている。
特に造り酒屋なんてのは、地元の殿様の苗字をそのままお酒の名前にしてて、遠くからネットで取り寄せるファンがいる話も聞いた事がある。

豊島氏も「照姫祭り」つーのをやってるらしい。
お姫様役を一般から公募してるのかな?
各地域の「殿様祭り」「お姫様祭り」「軍団祭り」が、近年の歴女ブームに先駆けて流行し、定着の感があるので、今は特に子孫にこだわらなくてもイケルんじゃないかと(^^ゞ。

甲冑はレンタルがあるし、金がアレなら紙段ボールでも作れる(最近はプラスチック素材もあるやに聞く)。

……脱線してるよね(笑)。

ただ、歴史に詳しい事だけが重要なのではなく、今言ったような、他の地域で先に成功した例とかも、今回の問題には少なからず肥やしになる事は間違いないと思う(^_^;)。

歴史サイト運営してると、基本の遣り取りがネットだから、読書量・知識量の多さで、周りの尊敬を集められると思ってる人が多い。
(反面、煙たがられやすい、ともいえるが(^_^;))。

そういう人は、本人も雑事に関心を持たない傾向があり、旅行や温泉、グルメ(郷土料理)の話に関心が薄かったりする。

が、本腰入れて歴史の世界に突入すると、大学や博物館や著名歴史家は、もっぱら「課題」として、「どうやって地域民を巻き込むか」ばかり話す光景によく出会う(爆)。

昨今、日本学術会議の要員任命問題で、論点ズラしに出た政府が、学問者の資質だとかを急いで問題視しはじめたが、ハッキリ言って、20~30年感覚がズレてる(^_^;)。

(当選回数の多さで閣僚入りとか決まるのは、組織のルールや秩序の維持のため、仕方ないと思うが、議員になる前の問題意識や時代感覚が古くなってる事に注意しような)

そういう現実的な視点を交えると、意外と「みんなが楽しめる、季節のアンテナショップ的売店を兼ね整えた、来やすい博物館」というスタイルが、実は今風なのである。

こうした事も折々、必要に思ったら話す事があるかもしれない。
脱線に感じるかもしれないんで、先にお断りしとこうかと(^。^)。

次から、いよいよドップリ歴史ネタに入るよ(`・ω・)=3<覚悟はイイ?

推薦(だぼださんのブログ)

次に、ブログ立ち上げに踏み切った過程の一つに、既に上手に「練馬城」について紹介するブログを見つけた事がある。

正直、練馬城について言及してる人を、この問題に関わってる人たちの間に見た事が無い(^_^;)。

勿論、歴史関係のサイトやブログなら、他にも、城跡や秩父平氏関係、江古田沼袋合戦などについて触れてる物は、これまでもいっぱい読んだ。

しかし、この遊園地の跡地問題に絡めて……という視点が、この問題では重要なので、その意味でお初……という意味である。

としまえんの跡地に立つべき名称が「練馬城址公園」であるのに、「としまえん」の復活や、防災機能への心配ばかりで(それが悪いとは全く思わない。特に防災は、自分的にも一番重要だと思う)、看板になるべき「練馬城」があまりに置き忘れられてるので、まずは、このブログを推奨しておきたい。

hidephilax.hatenablog.com

 

一応、作者の「だぼだ」さんからは、私が↑の補足をしたいと申し出た事に、快諾を頂いている。(ありがとうございますm(__)m)

まぁ、なんで「置き忘れられ」てるか、「誰も言及しない」か、これこそが、この練馬城を囲む問題だろうと思うが(^_^;)、この城跡に付帯する歴史と、その史実を巡る状況が複雑すぎて、殆どの人は知る事すら面倒に思うからだと思う(笑)。

そこを解きほぐせたら幸いだけど、書けば書くほど面倒になったりね(爆)

てわけで、このブログを読むだけで去るのも手ですよ(笑)。

もうちょっと深掘りしてみたい人は、留まって続きをどうぞ( ^^) _旦~~

あらためて、「動機」

最初の「自己紹介」で、この「動機」を「次に書く」と言ったんだが、今回まで繰り延べて来てしまった(^_^;)。
流れ的に、ニュースを知った時の発言(ツイート)を先に出した方が、スグこのブログの趣旨に入って貰いやすい気がして、「前提1、2」を先に廻した。

さて、「としまえん」閉園に絡む署名運動は、その対象が都民・区民である。

私は都民でも区民でもない(^_^;)。
かつて都民だった事はある。
練馬区ではないが、人生に三度はに住んだ(笑)。

日本史が好きなので、練馬城の城主と推測されている豊島氏と、その時代に関係する書籍類を、かなり調べた。
当時はまだインターネットも無く、車も持ってなかったから、本当に都内の地域史として、(今思えば)チンマリとした一点を学ぶに過ぎなかった。

千葉県に来てからネット時代全盛となり、自サイトで歴史ネタを扱って、多くの歴史ファンと、オン・オフを通じて交流できた。
中でも戦国時代は人気で、話題沸騰、特に初期の掲示板は常に満員御礼状態だった。

しかし豊島氏の話は、全く盛り上がらなかった(^_^;)。
豊島氏だけが不人気なのではなく、その時代と地域全体にその傾向が該当する。
(いや、むしろ豊島氏は、城跡が都にあるだけあって、比較すると、関心持つ人が多いと言える)

私自身は千葉県に来てから、車を購入したため、史跡巡りの範囲も広がった。
しかしそれより、地域史・郷土史の書籍が多く、関心を持ちやすい環境を得た方が先で、ゆかりある土地に出掛けてみるに至るまでには、相当な時間を経た。

のめり込むと、このジャンルは本当に面白い(笑)。
この魅力と不人気には、まるで諸刃の剣のように、同じ原因が関わっている。

未解明。

このジャンルに人気が集まらない理由を、色々言う人もいるが、突っ込んで調べた結果、恐らくここに大きな要因があると思う。
そして「未解明」になる原因、それもまた「関心を持たれない」事に遠因すると思う。
卵が先か鶏が先か、メビウスの輪のようにねじれたパラドックスである(笑)。

その時々によって、示される史実に違いが出る。
そのたび、記憶を塗り替える必要が出る。
そもそも非常に複雑な背景を含む時代、地域で、その基本を頭に入れる事すら一苦労なのに、時によっては、その基礎部分から「新説」が出回って、脳内を取り換えなければならない。

豊島氏についての事例で言えば、太田道灌との戦いで、初盤に攻め込まれたとされていた「平塚城」は、どうも近頃、「練馬城」と解釈されるようになったようだ。

これなんかは、広域的視野で見れば、どうでもいい些細な違いに過ぎないが、地元史を扱う立場だと、「平塚城」と印刷された書籍その他を、イチイチ「練馬城」に書き換えねばならないし、前の説明との違いについても、文章を追加して断る必要が出て来る。

こうした小さい瑕も積もれば山となる。
それゆえに、「これ」という代表的なわかりやすい本、ベストセラーな小説が出ないのも、こうした事情で、書き手が取り組みにくい点がある。

ただ、よくよく該当地域の住人は、
「どうせ取り上げられない」
「マイナーなんでしょ」
「他に有名な戦国武将はいっぱい居るからね」
と、まるで歴史そのものに魅力が無いから、人々に振り返って貰えないのだろう、という誤解をしている。

私はこれは、とても残念な事だと思う。

としまえんの復興がなるか、ハリーポッターが出来るか、防災公園となるか、城跡公園となるかはわからない(^_^;)。

城址公園のイメージなら出来なくはない。
しかし、「としまえんに何回行ったかが発言権の決め手」「練馬城なんかどうでもいい」「練馬城址だと調子出ないから、名称はとしまえん公園でよくない?」なんて言ってる人たちに、何を言っても無駄だとわかっている(笑)。

人々が望む事、望まない事に立ち入った所で、他県の者は徒労感しか得られない

日本が絶対に勝つと信じてバケツリレーする人々の中で、今攻めてきてる米国と後で同盟関係になるのだ、などと言えば、どんな袋叩きに遭うかわからない。

あるいは逆に、こっちがジャングルの奥地に昔気質のまま居た、という見方も出来る。
久々の故郷に戻ったら、周りがみんなアメリカナイズされていた(笑)。
これもこれで、迂闊な本音など言おうものなら、袋叩きに逢うに違いない(苦笑)。

しかし私は幸運にも、歴史に出会うチャンスに恵まれ、多くを知った。
そしてそれは、署名に加わる権利の無い、他県に住んだが故である。

だから、この「としまえん」騒動の中で、不可思議なほど絶対に語られる事のない、「豊島氏」の事を書いてみよう、と思いたった。

とは言え、私は、その時代と広域地域については、まぁまぁ知ってる方だと思うが、その中で、特に「豊島氏」に詳しいわけではないので、そこはご愛敬に願いたい(^_^;)。