前回からの繋がりから、江戸時代の豊島氏を先に書こうかと思う。
ただ、前回も書いた通り、残念ながら、どれも石神井や練馬の「豊島泰経」との繋がりが不明である。
石神井や練馬の「豊島泰経」には繋がらなくても、そもそも豊島氏は平安期から続く家系で、「豊島」に枝分かれしたのも早い時期なので、相当根元から分かれても「豊島氏」を名乗る可能性はある。
しかし、これから書く江戸期の豊島氏は、どちらも「豊島泰経の子孫」を称しているようだ(^_^;)。
そこはやはり、江戸のある武蔵国に、徳川の来る前時代、勢力を誇った「豊島氏」との繋がりを持ち出す方が分があった、という事になろう。
ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏や相馬氏などに対する憧れ感情が、地元に強かった形跡が伺われる。
(ありもしない)「合戦があった」とする作り話まで伝わっている(^_^;)。
そういった意味での「伝統」として見れば、やはり「豊島氏」の痕跡は、練馬城や石神井城のある練馬区に残していかなければならないのではないかと思う。
では、早速、江戸期の豊島氏の話をする。
まずは、布川豊島氏というのがいる。
千葉県から茨城県に利根川(県境)を越えて入って、スグの所に「布川城跡」がある。
戦国期については後で話そうと思ってるが、下総における合戦にも名を顕わして来る。
落城前は、後北条氏に召し抱えられた勢力だったが、これが小田原に滅んだ後は、江戸入りしてきた家康の徳川家に仕え、旗本になったようだ。
が、三代将軍・徳川家光の時代、江戸城内で刃傷事件を起こし、断絶となった。
この事件は、後に、浅野長矩(内匠頭)が松の廊下で、吉良義央(上野介)を相手に起こした刃傷事件の折、その前例として参考にされたんじゃないか、と思う。
松の廊下事件との違いは、斬り付けられた相手(井上正就)が絶命している事、斬り付けた豊島信満はその場で切腹した事が違う。
この切腹、後ろから取り押さえにかかった青木義精という侍まで、その刃が貫通し、共に死に至ったというから、物凄い(*_*)。。
こう聞くと、今の時代の人は「残酷な(*o*)」と、良い印象を持たないかもしれない。
私も最初にこの話を聞いた時は、あまり詳細を知らなかったのもあって、浅野内匠頭みたいなノイローゼかな?とか思った(^_^;)。
しかし、よく内容を見ると、そうではなさそうだ。
元禄の頃の浅野と吉良の刃傷事件では、相手を討ち果たせない点を、浅野内匠頭がその場で押さえつけられた事とあわせて、「武士道にもとる」と酷評されるシーンを、しょっちゅうテレビドラマになる「赤穂浪士の討ち入り」では、よく見る。
小説家の味付けが引き継がれてるのか、当時の記録に、学者らの意見として記録されてるのか、正直この時代にあまり詳しくないので、出典についてはよく知らない(^_^;)。
しかし、江戸時代の感覚は、何となくわかる。
私自身は中世史好きだが、江戸時代にも歴史学は盛んに行われており、現在の歴史観にも多少の影響を与えている。
このように、江戸時代の人の感覚は、歴史を学ぶ折々に沁み込んで来るのだ。
その点から見ると、江戸時代は、下手すると、戦国時代以上に「武士とはこうあるべき!」と律せられた時代と言える。
そういう時代なのだ。
武士が刀を抜くからには、目的(殺害)を達成し、自らの命も顧みない覚悟を求められた。
だから、罪状的には「有罪」であり、表面的には「凶悪犯」であったとしても、受け取る人々の心情的には「よくやった」「相手を討ち取ってこそ武士」であり、さらにその場での切腹も「潔し」「清し」と、高潔に写ったんじゃないかという気がする。
また、怨恨の原因が、豊島信満が仲人であった縁談を、井上正就が一方的に破談した事に原因があった。
これも、豊島氏にとって、そこそこ評判が悪くなかったと思う(^_^;)。
仲人と言うからには、信満自身も不名誉を浴びただろうが、破談にされた家の娘の体面を守りたかったと、言葉には出さずとも皆が納得したんじゃないかな、と。
時代劇で言うと、「晴れせぬ恨み晴らしてみせた」、必殺シリーズみたいな事を、豊島信満はやってのけたわけだ。
井上に断られた縁談相手は、大坂の町奉行家だった。
対して、新しい縁談相手は、徳川家譜代家臣・鳥居家で、当時江戸城における実力トップの春日局の口利きだったと言うから、斬られた被害者とは言え、井上正就の破談と再縁は、出世目当てと思われて仕方ない。
徳川の元に治世され、幕閣の権力もドンドン大きく成長してゆく時代だったからだ。
それと、家光ぐらいの時代だと、まだ戦国ムード満載で、特に江戸っ子たちには、自分達の住む江戸に元いた豊島氏の名に、一種の憧れの気持を持ってたと思う。
ウチ(千葉県)の方でも、その地に滅んだ千葉氏や相馬氏などに対する憧れ感情が強かった事は先に述べた。
そういう時代だから、豊島氏の刃傷事件は、ウケが悪くなかったと推察する。
だから、これと浅野&吉良の刃傷事件の内容は、遠慮なく比較されたと思う。
こういう前時代もあって、赤穂浪士は無理をしてでも、主君が果たせなかった吉良上野介殺しを、何としても果たさなければならなかったんじゃないかなぁ……。
と、かように愚考している。
信満の子、吉継は切腹となった。
この点も、お預けの身とは言え、浅野家は長矩の弟、長広(大学)は存命を許されたから、違う点だろう。
ただ、その後、どうも豊島氏は姓を変えて、紀州徳川家に召し抱えられたらしい。
もう一個、江戸期に伝わる豊島氏の子孫話があって、絵島生島事件の「絵島」(江島)である。
私は「絵島が豊島氏の子孫」と聞いたんだが、wikiで調べると、どうも絵島の養父(母の再婚相手)、白井久俊というのがそうらしい(^^ゞ。
絵島は、七代将軍・徳川家継の生母・月光院に仕え、大奥年寄にまで出世した、大奥きっての実力者だった。
寺社参詣(将軍の正室・側室は外出が適わないので、代理で参詣する通例があった)の帰りに芝居小屋に寄って、門限に遅れた事から尋問を受け、芝居役者・生島新五郎との密通嫌疑で逮捕・拷問され、遠島となって、大奥に戻る事はなかった。
しかし遠島後、8年ほどで、厳重な獄牢状態が緩和され、ほぼ赦免者として老後を送ったらしいんだよね(^^ゞ。
だからか、絵島の密通は実は冤罪で、月光院の力を削ぐために、密通をでっち上げられ、月光院から引き離された、とする説も散見する。
(その一方、この事件を時代劇などで取り上げる場合、必ず、絵島と生島が(プラトニックであれ)恋愛感情を持ってた具合に描かれるけどね:笑)。
ところで、この絵島と豊島氏については、絵島の弟が豊島姓を名乗っている事が目をひく。(常慶と言うらしい)
絵島の兄は、養父の「白井」姓を名乗ってるようだ。
豊島姓を再興する必要から、復姓したのか、単に兄が親の名を継いだので、弟は分家の都合上、別姓を名乗ったのか、それとも、やはり豊島氏の名が惜しまれる時代背景ゆえか、殊、豊島氏に関するブログを書く以上、特筆しておこうと思った(^o^)v
「豊島氏」を際立たせる「縦糸」と「横糸」
本題前の前振りを、パパパと済ませたので、後はノンビリ行かせて貰おうかと思います(^^ゞ。
じゃ、そろそろ本題に入りますよ(^o^)<まずは準備体操~♪
豊島氏については、横糸と縦糸の両方から迫るのが良いと思う。
その理由は、豊島氏本体だけで語るには、あまりにマイナーだからだ(^_^;)。
長く続いた氏族でした。太田道灌と戦って滅亡しました。その後の消息はわかりません。
↑これだけで史料館の設立は厳しい(^_^;)。
ただ、それなら豊島氏の存在価値は、色々かき集めないと無い程、希薄な物かと言えば……、
その捉え方こそ、東京の歴史を地に貶めて来たと知るべし!
と強く言いたい。
てゆうか、幾ら有名でも、伊達政宗とか武田信玄とか真田昌幸とか、戦国武将はいっぱい居過ぎて、博物館を作った所で、どれも似たような味しか出せないんだよね(^_^;)。
それと、何だか、としまえんの跡地活用については、区のみならず、都にも計画の幅が及んでるやに聞く。
「都」となると、日本国の首都である。
そういう立場で建てる歴史資料館なら、区民会館に一室を構える児童図書館クラスの展示に抑えるのでいいだろうか?
その点、現在の所、これより示す、縦糸と横糸の織り成す世界観を現在に伝えている歴史資料館は、全国探しても無かろうと思う。
「横糸」は、練馬城や石神井城だ。
この跡地が今でも東京都練馬区に残り、地名として伝わっている以上、この城の城主としての豊島氏の姿が、土地と土地に住まう住民にとって、もっとも重要である。
となると、太田道灌に攻め滅ぼされた室町~戦国時代が「横糸」になる。
一方の「縦糸」は、代々の豊島氏の軌跡である。
平安時代に関東地方に下った、桓武天皇の子孫・高望王から始まり、やがて枝分かれし、豊島氏として東京(武蔵国)に基盤を張り、城が落城した後、江戸期に文献に現れる「豊島」姓の末裔らしきに至る、先祖から子孫へと続く時間、これが「縦糸」だろう。
ただ……残念ながら、道灌との戦い(江古田沼袋の乱・石神井落城)に名の出る「豊島泰経」と、江戸期に名を顕わす「豊島氏」とは、系譜に繋がりがある事が確実視されてないみたい(^_^;)。
そこが繋がらないと、どういう弊害があるかと言うと……。
普通、戦国期の城跡は、江戸期に入って廃城となっている物が多い。
平城ならともかく、山城で江戸期も残った物は殆ど無いんじゃないかな(^_^;)。
私の知る限り、岡山県の備中松山城なんかは維持されたみたいだけど、後は殆ど聞かないですね。
しかしそれは「城」の話であって、中に住んでた一族の系譜が保たれていれば、何とかかんとか現在に「〇〇城跡公園」みたいのが復興され、子孫筋の人とかが、そこの名誉城主サンみたいなノリで、祭りに加わったりなんかするのよ(^o^)。
戦国期を通して生き残った武家は、江戸期に子孫が絶え切ってしまわなければ、維新まで何となく系譜を続けてるものだ。
男系が絶えても女系に婿取りするし、それも絶えても、傍系に伝わる血筋から養子を取ってくればいいからだ。
豊島氏は戦国期初盤で滅んでしまったから、土地に、昔を懐かしむ子孫や、それを取り囲む地元意識が根付かなかったのかなー、と現状を見ると思う。
(他にも事情があるかもしれないけど、これも後で書くかも)
そういうのが残ってる土地はどうかと言うと、お殿様の家系が結婚などすると、奥さんやお子さんも連れて「お国入り」みたいな感じになって、そこの一年に一度の「〇〇祭り」を盛り立てに来てくれたり、地域の新聞や広報誌に寄稿したり、自分でサイト発足して家伝の歴史だとか書いて、集客を手伝ってくれたりする(^^ゞ。
殿様ばかりではない。
城下町に形成された商店とか工場の子孫の人らが、城跡を中心に、今でも市場展開してたりして、祭り開催の養分になっている。
特に造り酒屋なんてのは、地元の殿様の苗字をそのままお酒の名前にしてて、遠くからネットで取り寄せるファンがいる話も聞いた事がある。
豊島氏も「照姫祭り」つーのをやってるらしい。
お姫様役を一般から公募してるのかな?
各地域の「殿様祭り」「お姫様祭り」「軍団祭り」が、近年の歴女ブームに先駆けて流行し、定着の感があるので、今は特に子孫にこだわらなくてもイケルんじゃないかと(^^ゞ。
甲冑はレンタルがあるし、金がアレなら紙段ボールでも作れる(最近はプラスチック素材もあるやに聞く)。
……脱線してるよね(笑)。
ただ、歴史に詳しい事だけが重要なのではなく、今言ったような、他の地域で先に成功した例とかも、今回の問題には少なからず肥やしになる事は間違いないと思う(^_^;)。
歴史サイト運営してると、基本の遣り取りがネットだから、読書量・知識量の多さで、周りの尊敬を集められると思ってる人が多い。
(反面、煙たがられやすい、ともいえるが(^_^;))。
そういう人は、本人も雑事に関心を持たない傾向があり、旅行や温泉、グルメ(郷土料理)の話に関心が薄かったりする。
が、本腰入れて歴史の世界に突入すると、大学や博物館や著名歴史家は、もっぱら「課題」として、「どうやって地域民を巻き込むか」ばかり話す光景によく出会う(爆)。
昨今、日本学術会議の要員任命問題で、論点ズラしに出た政府が、学問者の資質だとかを急いで問題視しはじめたが、ハッキリ言って、20~30年感覚がズレてる(^_^;)。
(当選回数の多さで閣僚入りとか決まるのは、組織のルールや秩序の維持のため、仕方ないと思うが、議員になる前の問題意識や時代感覚が古くなってる事に注意しような)
そういう現実的な視点を交えると、意外と「みんなが楽しめる、季節のアンテナショップ的売店を兼ね整えた、来やすい博物館」というスタイルが、実は今風なのである。
こうした事も折々、必要に思ったら話す事があるかもしれない。
脱線に感じるかもしれないんで、先にお断りしとこうかと(^。^)。
次から、いよいよドップリ歴史ネタに入るよ(`・ω・)=3<覚悟はイイ?
推薦(だぼださんのブログ)
次に、ブログ立ち上げに踏み切った過程の一つに、既に上手に「練馬城」について紹介するブログを見つけた事がある。
正直、練馬城について言及してる人を、この問題に関わってる人たちの間に見た事が無い(^_^;)。
勿論、歴史関係のサイトやブログなら、他にも、城跡や秩父平氏関係、江古田沼袋合戦などについて触れてる物は、これまでもいっぱい読んだ。
しかし、この遊園地の跡地問題に絡めて……という視点が、この問題では重要なので、その意味でお初……という意味である。
としまえんの跡地に立つべき名称が「練馬城址公園」であるのに、「としまえん」の復活や、防災機能への心配ばかりで(それが悪いとは全く思わない。特に防災は、自分的にも一番重要だと思う)、看板になるべき「練馬城」があまりに置き忘れられてるので、まずは、このブログを推奨しておきたい。
一応、作者の「だぼだ」さんからは、私が↑の補足をしたいと申し出た事に、快諾を頂いている。(ありがとうございますm(__)m)
まぁ、なんで「置き忘れられ」てるか、「誰も言及しない」か、これこそが、この練馬城を囲む問題だろうと思うが(^_^;)、この城跡に付帯する歴史と、その史実を巡る状況が複雑すぎて、殆どの人は知る事すら面倒に思うからだと思う(笑)。
そこを解きほぐせたら幸いだけど、書けば書くほど面倒になったりね(爆)
てわけで、↑このブログを読むだけで去るのも手ですよ(笑)。
もうちょっと深掘りしてみたい人は、留まって続きをどうぞ( ^^) _旦~~
あらためて、「動機」
最初の「自己紹介」で、この「動機」を「次に書く」と言ったんだが、今回まで繰り延べて来てしまった(^_^;)。
流れ的に、ニュースを知った時の発言(ツイート)を先に出した方が、スグこのブログの趣旨に入って貰いやすい気がして、「前提1、2」を先に廻した。
さて、「としまえん」閉園に絡む署名運動は、その対象が都民・区民である。
私は都民でも区民でもない(^_^;)。
かつて都民だった事はある。
練馬区ではないが、人生に三度は都に住んだ(笑)。
日本史が好きなので、練馬城の城主と推測されている豊島氏と、その時代に関係する書籍類を、かなり調べた。
当時はまだインターネットも無く、車も持ってなかったから、本当に都内の地域史として、(今思えば)チンマリとした一点を学ぶに過ぎなかった。
千葉県に来てからネット時代全盛となり、自サイトで歴史ネタを扱って、多くの歴史ファンと、オン・オフを通じて交流できた。
中でも戦国時代は人気で、話題沸騰、特に初期の掲示板は常に満員御礼状態だった。
しかし豊島氏の話は、全く盛り上がらなかった(^_^;)。
豊島氏だけが不人気なのではなく、その時代と地域全体にその傾向が該当する。
(いや、むしろ豊島氏は、城跡が都にあるだけあって、比較すると、関心持つ人が多いと言える)
私自身は千葉県に来てから、車を購入したため、史跡巡りの範囲も広がった。
しかしそれより、地域史・郷土史の書籍が多く、関心を持ちやすい環境を得た方が先で、ゆかりある土地に出掛けてみるに至るまでには、相当な時間を経た。
のめり込むと、このジャンルは本当に面白い(笑)。
この魅力と不人気には、まるで諸刃の剣のように、同じ原因が関わっている。
未解明。
このジャンルに人気が集まらない理由を、色々言う人もいるが、突っ込んで調べた結果、恐らくここに大きな要因があると思う。
そして「未解明」になる原因、それもまた「関心を持たれない」事に遠因すると思う。
卵が先か鶏が先か、メビウスの輪のようにねじれたパラドックスである(笑)。
その時々によって、示される史実に違いが出る。
そのたび、記憶を塗り替える必要が出る。
そもそも非常に複雑な背景を含む時代、地域で、その基本を頭に入れる事すら一苦労なのに、時によっては、その基礎部分から「新説」が出回って、脳内を取り換えなければならない。
豊島氏についての事例で言えば、太田道灌との戦いで、初盤に攻め込まれたとされていた「平塚城」は、どうも近頃、「練馬城」と解釈されるようになったようだ。
これなんかは、広域的視野で見れば、どうでもいい些細な違いに過ぎないが、地元史を扱う立場だと、「平塚城」と印刷された書籍その他を、イチイチ「練馬城」に書き換えねばならないし、前の説明との違いについても、文章を追加して断る必要が出て来る。
こうした小さい瑕も積もれば山となる。
それゆえに、「これ」という代表的なわかりやすい本、ベストセラーな小説が出ないのも、こうした事情で、書き手が取り組みにくい点がある。
ただ、よくよく該当地域の住人は、
「どうせ取り上げられない」
「マイナーなんでしょ」
「他に有名な戦国武将はいっぱい居るからね」
と、まるで歴史そのものに魅力が無いから、人々に振り返って貰えないのだろう、という誤解をしている。
私はこれは、とても残念な事だと思う。
としまえんの復興がなるか、ハリーポッターが出来るか、防災公園となるか、城跡公園となるかはわからない(^_^;)。
城址公園のイメージなら出来なくはない。
しかし、「としまえんに何回行ったかが発言権の決め手」「練馬城なんかどうでもいい」「練馬城址だと調子出ないから、名称はとしまえん公園でよくない?」なんて言ってる人たちに、何を言っても無駄だとわかっている(笑)。
人々が望む事、望まない事に立ち入った所で、他県の者は徒労感しか得られない。
日本が絶対に勝つと信じてバケツリレーする人々の中で、今攻めてきてる米国と後で同盟関係になるのだ、などと言えば、どんな袋叩きに遭うかわからない。
あるいは逆に、こっちがジャングルの奥地に昔気質のまま居た、という見方も出来る。
久々の故郷に戻ったら、周りがみんなアメリカナイズされていた(笑)。
これもこれで、迂闊な本音など言おうものなら、袋叩きに逢うに違いない(苦笑)。
しかし私は幸運にも、歴史に出会うチャンスに恵まれ、多くを知った。
そしてそれは、署名に加わる権利の無い、他県に住んだが故である。
だから、この「としまえん」騒動の中で、不可思議なほど絶対に語られる事のない、「豊島氏」の事を書いてみよう、と思いたった。
とは言え、私は、その時代と広域地域については、まぁまぁ知ってる方だと思うが、その中で、特に「豊島氏」に詳しいわけではないので、そこはご愛敬に願いたい(^_^;)。
前提、2
前振りの2回目。
あと2回やったら本題に入ろうかと。
ちなみに連載の全体は、最初の自己紹介を合わせて、だいたい12回ぐらいで終われるんじゃないかと(^^ゞ
あと、ツイッターでは、折々の呟きでも、このテーマに関連する事を書いている。
が、ここで全部出すと非常に煩雑になるので(^_^;)、都度の話はツイッター内の「モーメント」にまとめるとして、こちらでは、今回の「前提」までに留めたい。
では、続き。
#としまえん #練馬城址公園
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
1)維新後、多くの城跡は数奇な運命を辿っており、スンナリ城址公園になったわけではない。
遊園地や動物園になった城跡も少なくなく、多くは廃業(荒砥城)や移転(小田原城)したが、小諸城などは今でも存続してるようだ。(続きます→)
2)これらの建設に当たって、遺構を大きく削ってしまうケースも多く、遊興施設の建築そのものが望ましくない。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
つまり、そもそも、としまえん自体が作られるべきではなかったのだが、ここは敷地内の自然や「豊島」という元領主の名を残すなど、多くの城跡公園的な要素を保持していたそうな→
3)私自身は、としまえんに未練は無いが、としまえんは以前、毎年エイプリルフールになると、フェイク広告を大々的に打ち出して、その自虐ぶりに何度も楽しませて貰ったから(笑)、実はそれほど印象が悪くない。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
歴史仲間同志では「練馬城の幽霊が出るアトラクション」の話題もよく出たし(笑)→
4)ハリーポッター施設の建設は、としまえんを懐かしむ人達や、防災機能を望む人達、練馬区の自然保全を危ぶむ人達だけでなく、歴史を思う人達の同意も得られるだろうか?
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
せめて、としまえんが果たして来た城跡地としての義務を同様に果たす約束をしなければ、「城址公園」計画に沿ったとは言えまい→
5)もう一つ、そもそも「としまえん」が出来た所からそうだったのかもしれないが、都や区が「インバウンド」ばかり気にしてる点が気になる。もっと儲かってなさそうな地方でも、城跡保存のための処置は出来てる。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
果たせず、石碑一本残してビルや住宅が建った所もあるから、一概には言えないけど→
6)前、ネットゲームの廃止にユーザーがショックを受け、廃止の廃止運動が起こったのを見た。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
思い出の地(仮想空間であれ)を所有者が自分に良いように使う事に、そこで遊んだ人は怒る。
お定まりの反論で「お前らが金を払わないから経営が云々」と説教する奴が、貧乏人から搾り取る事を美化する→
7)ネットゲームは遺構を削ったりしないからユーザーに罪は無いし、遺物も全てデータに残せるから、解体に泣く必要もない。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
が、城跡はそうではない。
場への愛着は理解できるが、立ち止まるべきは「としまえん」も同じだった、という視点を持つべきである。
じゃないと進む話も前に進まない気がする→
8)練馬城址公園の目標は、「緑と水」「広域防災拠点」「にぎわい」だが、まずこれが間違っている。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
その点、とや議員は、歴史についても把握した発言をしており、谷津や貴重な昆虫の生態系維持など、他の多くの城跡地が保存に向け提示した条件を次々と打ち出し、なかなか戦い方を弁えていると思う。→
9)防災!命!だけ連呼しても、都や区が重厚な計画を提示してきたら運動は腰折れに終わる危惧がある。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
何か撤去しにくい建物を建てられてしまっても、「ハリーポッターじゃなくしたからいいだろう」と言われた時、反対しうる材料を整えた方が無難じゃなかろうか→
10)練馬城址公園は資料博物館でも作り、豊島氏発祥の鎌倉期~戦国初頭、豊島氏の居ない江戸期の有り様、そして維新後、としまえんファンの名残りも含め「としまえん」のパネル展と遺物の一つや二つ保存展示したらどうだろう?
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年10月5日
その建物以外の敷地は、全て防災公園として都民に機能・開放すべきだろう
以上が、私のこの「としまえん跡地問題」に対するスタンスで、 勿論これに同意の人ばかりじゃなかろうが、この連ツイに、そこそこRTやいいねがついてるのは、最初のに #としまえん #練馬城址公園 と入れてるからじゃないかと思う(^^ゞ。
あと、この問題について呟いてる人に、いいね等を入れたお返しもあるかも。
というわけで、ツイッター上で関わる場合、今あげたタグや、そのタグで上がって来る他のタグを使うと、注目してる人たちに読んで貰えるんじゃないかと思う。
「前提」はこれで終わる。
前提、1
では、いよいよ始まり(^。^)ノ
本題の前に、都合4回程度、「前振り」を入れさせて貰いますー(^^ゞ
「としまえん」閉園に絡んで、名残りを惜しむ人々の間から、現状と今後についての署名運動が起きている。
署名運動は、都に対して「ハッキリして欲しい」という点では一致してるものの、何らかの回答が来た後は、参加者の要望はバラバラなんだろう。
私はそれに参加しない(部外者なので出来ない)ので、深く関わってないし、このブログで行う事とは方向性が違うので、その取りまとめ過程や、運動内容の推移については、自分の知った順で、軽~く状況提示するに留めたい(^_^;)。
てわけで、自分のツイートを順に並べます(^_^;)。
これ、何の署名運動なんだろう?
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月23日
どういう再開発計画で、どこが問題で、計画中止なのか……。
としまえん(遊園地)が復活するって話じゃないよね。
確か城址公園が作られるとか聞いてた気が……。
自分的には「練馬城跡」として整備の上、史跡資料館(博物館)みたいのが出来てくれたら嬉しいんだが… https://t.co/dzhGiSXlin
ハリポタ館が出来る事は聞いてたけど、一体、敷地のどの部分をハリポタにして、防災公園とやらは、その外側とかなのか、そういうのが全然わからない(^_^;)。。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月23日
公園が出来るのに30年もかかるんだ…うああああ。。。
(やっぱ城跡公園として整備した一郭に、史跡資料館(博物館)が出来る事を夢見る) https://t.co/VzNC3X3FvP
↑ 最初はこんな感じ(^^ゞ。続いて↓
1)としまえんが8月末の閉鎖後、近隣住民と跡地開発側との間に騒動が起きてるようだ。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
住民&ユーザー側は
①としまえんの思い出の品々と、園内に含まれる自然を残したい
②跡地は防災公園になるハズが、後30年そうならないようだ。
と不安を抱え、署名運動も起きてるようだ。
(続きます) https://t.co/MnKh5hbXNF
2)この弁護士さんのブログに詳しい。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
要約すると、当初、跡地は公益防災拠点として練馬城址公園になる計画だったのに、強度の地震の可能性の高さにも関わらず、半分近くを30年もハリポタ施設に貸し出す事になってしまったと(^_^;)。
この方が言う通り、共産党のとや英津子氏のブログもわかりやすい。 https://t.co/9CdFIdsRty
誤:公益 ×
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
↓
正:広域 〇
m(__)m
3)とや氏のブログ↓
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
練馬城の歴史や、残すべき自然についても丁寧に目を向けて書かれており、在りし日の「としまえん」も園内に「昆虫館」を設け、森の生態系を守り伝える使命感が感じられる。
「としまえん」の未来はどうなる? | とや英津子 東京都議会議員(練馬区選出)https://t.co/EB4IAjGPlv
4)「としまえん」が自然維持にも努め、地域の防災拠点でもあり、を惜しむ声が大きかったのに、廃園となった理由はよく知らないけど、あまり儲からなかった、というのはあるみたい(^_^;)。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
ただ、とや氏のブログに、跡地整備に都が関わり税金投入の点が指摘されてたから、地域への説明義務はあるかと。 https://t.co/OYPd8RgC8F
5)としまえんの思い出を少しでも残そうと、意見を出し合ったり、ホームページや写真集作ろうとかいう感じ。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
今日見たら、園内の樹木伐採を食い止める段階にある感じだった。
……としまえんについては、一先ず、この辺までにしとこうかな(^_^;)。
(私の意見はこの後に) https://t.co/9elKRRJc8K
6)子供の頃は都民だったので、としまえんは知ってたが、都民じゃなかった高校の頃、あそこが練馬城跡だった事を知った(^_^;)。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
大人になって又東京に住んで、今また東京を離れている。
その間、としまえんには一度も行ってないが、石神井城跡をはじめ、全国の城跡を訪れたから→
7)跡地が遊園地や動物園になった城をいっぱい知ってる。だいたいは存続せず、城跡公園になった(^_^;)。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
中には再現的な建物を建て、内部に資料館みたいのを置くので、この練馬城もそんな風になるんだと思ってた。
……が、今見知った限りでは、あと30年はそうなるかどうかってトコのように思えた。→
8)とや氏のブログ見ると、石神井公園駅前の再開発ってのも高層ビルをドーンと建ち並べちゃうらしく、この様相から、私の知る城跡公園達から程遠い物になっちゃわないか心配(^^;)。。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
それと実はもう一つ心配の種があって、東京都全体の中世史(わけても戦国前期)に対する、何と言うか……(^_^;)→
9)ただこれは、私が都民だった時もエラソーな事言えるナニじゃなかった(^_^;)。。
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
東京という場所は、広域の歴史視点が全く身に着かない場所なのよ(汗)。
こればかりは東京を出ないと(^_^;)。。
前、赤塚城跡にある区立資料館で「武蔵千葉氏展」を見た時に、「あああああ」と思ったんだよね(笑)→
10)でも(気を取り直してw)、この赤塚城跡なんかは、東京で城跡公園と資料館作る上で、ちょっと参考になるかもしれないんで貼っておこうかな(^^ゞ→https://t.co/J1L7XejLeP
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
11)練馬城址公園(としまえん)の問題も、何もかも解決し、首尾よく運ぶ事を祈る(^人^)<頑張って
— ぽぽたん (@sorihat) 2020年9月29日
そのうち、そうだな。豊島氏についても何か書こうかしら(^^ゞ。<余裕があったらね
ここでいっぺん区切りを入れます(^^ゞ
はじめに(自己紹介な(^^ゞ)
ツイッターで「ぽぽたん」(sorihat)と言ってる奴です(^^ゞ
この「はてなブログ」でも、「popotan」でアカ取りたかったんですけど、先着アリによって、「ぽたたん」で行こうかと思ったら、それも取られてて(;_;)、母音を一個取り換えたら、「ぽたつん」になってしまひました。。。(涙&笑)
ツイッターには、自己紹介欄を補充する自己紹介サービス(ツイフィール↓)があるので、足りない分はそこで補えて、これまで特に不足を感じずにやってきました。
ツイッターは短文しか書けないけど、近頃は連続ツイートを一括で出せる機能もあるから、ちょっと長い文章は、だいたいそれで頑張れば何とかなるか~って感じで。
ただ近頃、さらに長文の必要性を感じる局面があり、急遽、ツイッターに連動するブログをこさえてみる事にしました。
その「動機」については次で書きます。
ここでは、ツイッターやブログについて、自分の背景を述べます(^^ゞ。
上にあげたツイフィール(自己紹介ページ)にも書いてる事なんですが……。
私は自分のサイト(以下、自サイト)を作成・運営してます。
ブログもやってます(アメーバです(^_^;))。
アメブロの方は、始めて一年ぐらい経った頃だったかな、自サイトと双方向開示(双方に双方のURLを記載)を行ないました。
ちなみに始めた時期は、自サイト、ツイッター、アメブロ、の順です。
他にも必要に応じて、mixiだの、Facebookだの、LINEだの、入ったと言うか、入らされたというか(^_^;)、知り合いとの連絡はそっちに移っちゃいましたw
自サイトとアメブロに比べると、ツイッターは当初、今言った通り、東日本大震災の時、家族や知り合いと連絡を取るためにアカウント取得したので、あまり発信を目的にして来ませんでした(^_^;)。
今言ったスタイルのまま、ダラダラ~と続けてる内に、ボチボチ自分の意見とかも発信するようになった……て感じです。
上記の経過があって、今の所ツイッターを、自サイトやブログのように、気軽に連携する事が有効か、判断に迷ってます。
ブログやるなら、元からやってるアメブロでも良かったんですが、あっちはあっちで別ネタ展開してるのと、近頃はPC版ピグが終わって、今わりと閑散としてます。
そのアメブロに、いきなりツイッターネタ持ち込むと、何か急展開と言うか(^_^;)、違和感ある感じに思いました。(今まで読者でいて下さった方には唐突かな~と(^_^;))
それで、こちらにツイッターとの連携用に、新規のブログをこさえました。
今回こちらにブログを起こした理由は、次の「動機」に書きますが、私と同じ理由で、ツイッターと連動してブログを書いてる御方とツイッター上で知り合いまして(^^ゞ、その御方が、この「はてなブログ」を使われてたので、私もやってみる事にしました。
実は、「noteが今は主流」と勧めて頂いたんですが、note、前に垢作ったものの、どうも使い方がよくわからなくて放置してます(^_^;)。
はてな、使いやすいです(^^)。
アメブロとほぼ一緒ですけどね(笑)。
スイマセン。以上です(^^ゞ。