ぽぽたんブログ

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)

新型コロナウィルス・メニュー一覧(2022年版)

今年(2023年)も去年(2022年)版、ツイッタープロフィールツイフィール)の「モーメント」の目次をこさえました(^^ゞ。

「ツイフィール」は千文字まで可なので、ツイッター側にも、今回こちらに移したメニューも一年スッカリ経過するまで残そうと思いますが、やがてツイフィール側は、順々に消していく手筈です(^_^;)ゞ
(代わりにこのブログのURLを貼っときます)

殆ど「新型コロナウィルス」と題しながら、政治ネタかなり交えるメニューですが、このブログで扱う「としまえん」ネタが、途中「歴史・史跡(練馬城址としまえん」と題して混ざってます。
(題名通り、としまえんネタだけでなく、歴史史跡のツイも多く入ってます)

去年も書いた通り、各表紙に使ってる写真は、以前旅行で行った時に撮った物で、コロナ以後は全く遠出が出来ないので、「せめて気分だけでも(^^ゞ」と表紙に使ってます。
ツイッターでの反応を見る限り、どうも、この写真の方がウケてる事を強く実感します(笑)。

<モーメント>(2021年~)

新型コロナウィルス【2022/01/01~01/09】

新型コロナウィルス【01/09~01/18】

新型コロナウィルス【01/18~01/26】

新型コロナウィルス【01/26~02/03】

新型コロナウィルス【02/03~02/10】

新型コロナウィルス【02/10~02/17】

新型コロナウィルス【02/17~02/25】

新型コロナウィルス【02/25~03/03】

新型コロナウィルス【03/03~03/07】

新型コロナウィルス【03/07~03/11】

新型コロナウィルス【03/11~03/16】

新型コロナウィルス【03/16~03/24】

新型コロナウィルス【03/24~03/26】

新型コロナウィルス【03/26~04/01】

新型コロナウィルス【04/01】

新型コロナウィルス【04/01~04/09】

新型コロナウィルス【04/09~04/14】

新型コロナウィルス【04/14~04/17】

新型コロナウィルス【04/17~04/22】

新型コロナウィルス【04/22~04/23】

新型コロナウィルス【04/23~04/29】

 

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Twitter社の「モーメント」終了につき、急遽「note」に移転~(ノ_・。) <クスン

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この後も「モーメント」は続いてますが、2021年以降のは、又、来年にでも、こちらに移そうと思います。

横糸-4「上杉禅秀の乱(と豊島氏)」

では、いよいよ本格的に「上杉禅秀の乱」に入ろう。
この乱は、前回も最後にその触り部分を書いた通り、応永22年(1415年)4月、鎌倉公方四代・足利持氏による、越幡六郎への処分がキッカケとされる。

この「越幡六郎」の出自らしきは後に書くが、何しろ病気を理由に鎌倉に出仕しなかったらしい。
これを公方・持氏が咎め出仕を禁じ、所領を没収した。

持氏のこの処置に対し、関東管領犬懸上杉氏(禅秀)は、「さしたる咎ではない」と異を唱え、持氏にこの罰の撤回を求めた。

しかし持氏は諫言に耳を貸さない。
上杉禅秀は病気と称して自邸に引きこもり、5月には管領も辞した。

普通は重要な家臣(天皇上皇なら摂政関白、鎌倉や京の公方なら執権や管領)がこうした態度に出た場合、その主君は政治が円滑に行なえないと困るので、相手を宥めて慰留を乞うものだ。(屈辱的ではあるにせよ、仁政の度量を見せる好機でもある)

ところが持氏はむしろ怒って敢えて慰留せず、後任に、禅秀の犬懸上杉氏にとってはライバルとも言える、山内上杉憲基関東管領に取り立てた。

この上杉憲基は、禅秀の前の関東管領山内上杉憲定の嫡子である。

鎌倉公方足利氏>
┌尊氏-┬義詮-義満┬義持
|   |     └義嗣
└直義=└基氏(鎌倉公方)-氏満┬満兼-┬持氏
         (篠川御所) ├満直 |
                ├満隆=└持仲
         (稲村御所) └満貞

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)-憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

前回も述べた通り、満兼ー持氏鎌倉公方)と、憲定ー憲基関東管領)は、父も子も世代が近い。
憲定よりかなり年嵩と推定される氏憲(禅秀)より、父子ともに通い合う雰囲気があったのではないかと愚察する。

強引で非常識な主君のこういう遣り方に不満を抱いた上杉禅秀が、多くの味方を語らって下克上の挙兵に及んだのが「上杉禅秀の乱」なのである。

乱に入る前に、1つ2つ、補足しておきたい事がある。

まず、公方持氏がこのような苛烈で頑固な態度に出た理由は「近臣の讒」にあると伝えられており、この「近臣」を、亡き管領山内上杉憲定とする見方がある。

つまり、これまで山内犬懸が交代で行なって来た関東管領職だが、犬懸の禅秀と、山内の憲定ー憲基に及んで、両家は管領の座を巡る対立に至っていた、というわけだ。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない(^_^;)。
正直この点は、豊島氏にとってはそう大きな事ではないので忘れて貰っていいです(爆)。

もう一つの補足事項は、対立の要因となってしまった「越幡六郎」について。
この越幡六郎は、「上杉氏憲の家人」とされる。

ちなみに、この「越幡」には、「こしばた」とルビ振られてる書物も見る一方、「おばた」と見なして、「小幡氏の一族」と推測している説も見る。

この「小幡氏」とは、常陸国小田氏の支流だそうで、これが本当なら、遠回りながら豊島氏に少し関係してくるかもしれない(^^ゞ。

この小田氏は、前回も書いた「小山氏の乱」(義政:1380~1382年/若犬丸:1386~1392年)の最中、逃亡する小山若犬丸小山義政の子)を常陸に匿った事がある。

若犬丸は、鎌倉府の嫌疑が小田氏にかかった時点で小田氏を離れ、奥州方面に逃亡したようだ。(後に会津で自害してる)

残った小田孝は、若犬丸隠匿のカドで鎌倉公方側に捕らえられ、鎌倉で身柄を拘束された(^_^;)。(元々、鎌倉に居たんじゃないかな)
あげく、鎌倉公方側に、地元の常陸国から、今度は小山若犬丸に向けた討伐隊を出させられるなど、ウッカリ敗軍の家の子を匿ったがために、踏んだり蹴ったりの目に遭う(^_^;)。

この一連の騒動を「小田氏の乱」(1387~1388年)と言い、前回書いた「小山氏の乱」の途中に割って入る事件だ。

小田孝が鎌倉に留め置かれてる間、小田氏の同族・宍戸知連が、同じ常陸国の勢力、佐竹・小野崎・江戸(←武蔵の「江戸氏」とはまた別)などが味方してくれる事を宛に、常陸国難体山に立て籠もった。

が、それらの諸氏はむしろ、ここを落としに来た当時の関東管領犬懸上杉朝宗氏憲=禅秀の父)に寝返ったので、難体山城はあっけなく落ちた。嘉慶2年(1388年)だった。
この日のうちに、小田孝明は囚われの身柄を解放されたが、若犬丸を匿った容疑によって、小田氏は領土を大きく削減されたらしい。

小幡氏の所領も現在の石岡市茨城県)にあったのが、これを朝宗が接収し、と同時に、さっきの「越幡六郎」も小幡氏を離れ、朝宗の被官となったのではないか、と。

やがて会津で若犬丸が自害し(1397年)、持氏の叔父、篠川公方・満直と、稲村公方・満貞が奥州に派遣され(1398年)、奥州の伊達氏・蘆名氏反乱の企てが発覚し(1400年)、この討伐に上杉氏憲禅秀)が発向した(1402年)。

鎌倉公方三代・満兼が死去して持氏が四代となり(1409年)、山内憲定管領職を犬懸氏憲(禅秀)に譲って引退し、憲定が死去(1413年・持氏15歳)。前々管領・朝宗も死去(1414年・持氏16歳)まで、前回書いた。

つまり「越幡六郎」は、朝宗の死によって、その子・禅秀の被官になったと推測できる。
これが「小幡氏の縁類」で間違いなければ、その咎を理由とした所領没収は、犬懸上杉氏の2代に渡る常陸国における功績や権益(拡大した版図と勢力)に影響を及ぼす可能性が出て来る。

これが豊島氏にどう関係するのかは後に廻すとし(^_^;)、「越幡六郎」の出番はここまでで、補足事項も終え、「上杉禅秀の乱」の続きに進もう。

一年半後の応永23年(1416年)10月2日、禅秀は挙兵し、持氏邸を襲った。
禅秀に味方したメンツが凄い(^_^;)。。
まず持氏の叔父、足利満隆。三代・満兼の弟である。この満隆を「新鎌倉公方」に擁している。

次に、この満隆が養子にしていた、持氏の異腹弟・持仲
これは禅秀が憲定に代わって関東管領になった頃、この満隆に謀叛の疑いが起きたため、憲定が仲裁して収めた事があり、その時に、解決手段として、持氏の弟の持仲が持隆の養子になっていた。
この持仲も実兄・持氏の打倒に連なったのだ。

鎌倉公方足利氏>
┌尊氏-┬義詮-義満┬義持
|   |     └義嗣
└直義=└基氏(鎌倉公方)-氏満┬満兼-┬持氏
         (篠川御所) ├満直 |
                ├満隆=└持仲
         (稲村御所) └満貞

このように、持氏の血縁者を擁立する事について、禅秀は次のように言った。

「持氏の政道が悪く、諸人が背く事が多い。自分が諫めても耳を貸さない。このままでは謀叛人が出て世を乱す事は目に見えている。
他人に乗っ取られるぐらいなら、同じ足利氏の一門からお血筋の人を立てた方がよい」
と、こう言って満隆と手を組んだ。

……下克上はこの時代の前も、そしてこの後の戦国期などは頻繁に行われた(^_^;)。
しかし大抵の場合、「君側の奸を除く」と称する場合が多い。


主君その人は害さず、その佞臣を「悪しき讒」のカドで註するか、主君にも結局手をかける場合も、殺害に及ばず自害に追いやるなり、反省のためと称して流刑なり謹慎なりの態で権力を奪う形で果たされる。

それらの定例に対し、上杉禅秀の乱の際立って特徴的な点は、「主君その人の罪を鳴らす」点だと思う。
勿論、「別の血筋」を擁立する事で、下克上そのものからは辛くも逃げたものの、上記の「主君悪行の羅列」は、相当な自信が無ければ主張し得ない(^_^;)。

この企てには、京の四代将軍・義持の弟、義嗣も加わっている。
義嗣は、その父・義満に、義持よりも可愛がられ、行く末は天皇にしようとまで義満に野心されたほどだったが、義満の死後は兄・義持の天下となり、無聊を託つ身となっていた。

そこに、「関東では、公方持氏と元管領の禅秀の間が不穏」という噂を聞きつけ、密かに使者を送って同心していたらしい。
義嗣は禅秀の娘婿であったという。

足利氏以外でも、禅秀の呼び掛けに応じた者はすこぶる多い。

まずは禅秀の外戚
禅秀の妻の父で、甲州山梨県)の武田信満(有名な武田信玄の6代の祖にあたる)。
次に禅秀の娘婿たち。
上野国群馬県)の新田岩松満純下総国(千葉県)の千葉兼胤下野国(栃木県)の那須資之

これ以外にも大勢。

佐竹山入予義小田治朝大掾満幹・名越・府中・大掾・行方・小栗常陸=茨城)。宇都宮持綱(下野=栃木)、曾我・中村・土肥・土屋(相模=神奈川)、加納(伊豆=神奈川)、篠川御所満直結城白河満朝・蘆名盛久・石川・南部・葛西陸奥)、在鎌倉衆からも木戸・二階堂・佐々木など。

他に、渋河・舞木児玉党の大類・倉賀野丹党
荏原・蓮沼・別府・玉井・瀬山・甕尻・小笠原などの名も見える。

これだけの人が禅秀側に廻って、持氏討伐に立ち上がったのには、禅秀の言う通り、「持氏の政道が悪い」と思われてた嫌いもあろうが、「鎌倉大草紙」(軍記物)には、持隆を鎌倉公方、禅秀を関東管領に見立てる他に、「からも持氏追討令が出ている」と触れ回った事も一因しそうだ。

前後の文脈から見て、ここに言う「京から」とは、先に上げた通り、四代将軍・義持の弟・義嗣の事を指してるように思う(^_^;)。
禅秀が持隆を担ぎ上げるに際し、「密かに承っている」と上位らしき庇護を仄めかす箇所があるが、恐らく京の義嗣の意向を示唆してるものと思われる。

禅秀謀叛の知らせを聞いた時の持氏は、前もって禅秀の長男から、禅秀の様子など聞かされて騙されてた事もあって、スグには信用しないが、木戸満範なる者(側近だろう)に諭され馬に乗るのも急かされてて、関東管領・憲基の館に行かされた。

(持氏の住まう公方邸は鎌倉中心部より東部にあり、禅秀の住まう犬懸上杉邸に近い、憲基の居る佐介の山内上杉邸は中心部より西部にあった。まさに「難を避けた」と言える)

持氏にも、お供の衆が付き従っている。
一色、龍崎、早川(品川)、梶原、印東、田中(新田)、那波、島崎、海上、江戸、三浦、高山、今川、板倉、香川、畠山、筑波、佐野、小瀧、宍戸、高瀧なんて名が見える。
小田、木戸、二階堂は両陣営ともに見える。一族で敵味方に割れた家もある)

管領・憲基も謀叛の事は知らず、自邸で酒宴をしていたが、知るや戦闘態勢を取る。
長尾、大石、羽継、安保、長井、木戸、寺尾、白倉、加治、金子、金内などを従えて出陣した所に、公方持氏の一行と合流。

10月4日、戦端を開く。
持氏側山内上杉勢力が、現在の鎌倉駅より西側甘縄口化粧坂扇谷などに結集するのに対し、持隆禅秀らは、東側若宮大路南西浜の大鳥居極楽寺などから大掛かりに包囲。

10月5日、公方持氏は合戦の最中、上杉禅秀の所領を没収して、長沼義秀に与えると言い出すが、今それどころじゃなく翌6日を迎える(笑)。

禅秀側で働きが目立ったのは、禅秀の娘婿の一人、岩松満純だった。
この岩松氏(新田岩松氏)、実は先の中先代の乱から、この先の享徳の乱に至るまで、関東北部にとって大きな存在感を放つのだが、豊島氏の滅亡までにその存在感が充分に発揮されるか悩む所があって、これまで話して来なかった(^^;;)。。

しかし、これも以前に話した「江戸氏」などは、岩松氏と権益争いがあった事もあり、正直に言えば、豊島氏を含む武蔵国全体を語るに関係の深い氏族と言える。

……というような匂わせだけ残して(笑)、先に進むと……。

この時の戦い(由比ガ浜合戦)で、持氏+山内上杉側からは次々と戦死者が出て、公方を避難させる管領・憲基の山内上杉炎上
鎌倉公方持氏に勝ちの見通しは無くなり、あとは彼を落ち延びさせるため、次々と多くの鎌倉公方方(&山内上杉氏側)の武将の死をもって、この「上杉禅秀の乱」に供せざるを得なくなった。

扇谷上杉氏定、犬懸長尾満景、梶原、椎津、江戸、今川、畠山、江戸、木部などの戦死の他、飯田、海上、園田などが手負い。

この日の戦死者に、「江戸氏」があげられてる点に注目したい。
江戸氏はあるのに、同族豊島氏」の名を見ないのは、記載漏れの可能性もあるかもしれないが、この日の戦闘に「居なかった」と見るのが妥当かと(^_^;)ゞ

「豊島氏」の名が出て来るのは、もう少し後の戦場となる。

持氏と憲基の主従は小田原に逃げ、そこも火の手をかけて攻め込まれると、夜陰を箱根山に逃げこんで夜を明かす。
そこで持氏と憲基ははぐれたが、翌7日を迎えて、持氏は瀬名に落ち、駿河今川氏を頼り、憲基越後の上杉氏本拠地を差して、それぞれ逃げ落ちた。
(この時に戦死した、扇谷上杉氏定の娘婿が、持氏の頼った今川範政である)

禅秀方も持氏&憲基を追捕したが、逃げ延びられて始末がつけられなかった。

こうして、鎌倉公方持氏と関東管領憲基の居なくなった鎌倉では、持氏の叔父・持隆とその養子で持氏の弟・持仲が、鎌倉御所に居座った。
さしずめ、持隆が五代公方で、持仲がその後継者という態かと……(^^ゞ。

京の将軍・義持の元に、これら関東の動乱が伝えられたのは、10月13日が初らしい。
だいぶ日数が経ってる気もするが(^_^;)、前回も書いた如く、この時代の京と関東の間は、何かと不仲な要素が強く、事情伝達には齟齬が多かったと見える。

当時の親王の日記などから、その混乱ぶりの凄まじさが伝わって来る。
当初は、「持氏が禅秀を討伐した」と逆に伝達され、その理由が、「禅秀が持氏の母と密通した事を持氏が怒ったからだ」とされた。

無論デマである。後刻スグ訂正された。

次いで10月16日、ようやく鎌倉公方持氏の敗戦が伝わりはしたが、なぜか「持氏と管領上杉憲基と以下25人が切腹して亡くなった」とされ、これを聞いた将軍義持が激怒している。
しかしこれも20日デマと知れ、「切腹したのは管領憲基だけだった」と伝達(事実は憲基も死んでない)。

ただ、齟齬が多いと言っても、京と鎌倉の距離で、こんなに長い間デマが流れ続けるのは異常な気もする(^_^;)。
こうした情報に日々接しながら、義持は連日参篭などしてノンビリした様子。

鎌倉公方など滅んでしまえと密かに思ってたんだろう」と憶測される向きもある一方、義持は、父・義満の何かと強権発動して方々に圧力を加えるやり方に、批判的な心情の持ち主だったようにも思える。

さらに、室町時代における日本統治の感覚が、京の幕府は九州の叛乱には直接武力行使するが、東北地方については鎌倉府の分国とするなど、東国が幕府決定権の範囲外に意識されてた向きも感じないではない。(観応の擾乱の影響という感じも……)

義持は「幕閣が納得しなければ仕方ない」と言って、後継者を決めずに亡くなった事で知られる。
美しく言い換えれば、幕閣の合議や地方の主体性を重視する考えの人だったのかもしれない。

やっと真に正しい情報が伝えられたのは、10月29日
この前日夕方に持氏駿河国に没落し、幕府に助けを求めている、という知らせが伝えられた事による。

これにより、即座に主立つ諸大名を招集して評定が開かれ、義持の叔父、足利満詮が「持氏の烏帽子親は義持将軍だから見放してはならない。上杉禅秀京に謀叛しないとも限らない」と意見し、駿河今川憲政と越後の上杉房方に、持氏への支援を命じる運びとなった。

ところが、それどころじゃなくなった。(^_^;)
10月30日、先に述べた義持の弟・義嗣が住まいの京屋敷から逐電した。

将軍の元に入った報せにより、義嗣は舅の上杉禅秀が鎌倉を制圧した事を確認したので、鎌倉に向かい合流しようとした、と解釈される向きにある。
が、果たせず、義嗣は行き先を高尾に求め、神護寺出家した。

この報せで「室町御所は仰天」「京中騒動」と「看門日記」(伏見宮貞成親王の日記)には書かれており、義嗣の行方は重大な関心を持って追捕された事が伺える。

出奔と出家の甲斐もなく義嗣は捕らえられ、仁和寺に送られ、途中で相国寺に移され、幽閉の身となる。
その間、義嗣を奪還する者が出ぬよう、厳重な警備体制が敷かれ、義嗣の近臣らは富樫邸に置かれ、そのさらに近臣らは加賀国流罪されるなど、離れ離れにされた。

その上で、捕らえられた者たちから自白を導き出したわけだが、その采配を自邸やその領国に預かった富樫氏が行なったので、富樫氏による捏造などが疑われて、三年後の応永26年(1419年)11月24日、富樫は没落……つまり失脚してしまう結末を迎える。

それ程、次々と幕府中枢にいる管領や有力諸大名(細川・畠山・斯波・山名・赤松)などの加担、南朝北畠との結託などが露見し、収拾のつかない様相となってゆく。

無論その全てが真実だったかと言えば怪しい。
多くの疑いが向けられた如く、富樫の捏造もかなり疑わしいが、義嗣謀叛が発覚した時、畠山は義嗣の早々の切腹を主張するわ、細川は詮議を中断させようとしたわも事実で、これはこれで疑わしくなくもない(^_^;)。

このように義嗣をめぐる様相は長きに渡って泥沼化し、京は上杉禅秀の乱の以後1年半の長きに渡り、疑心暗鬼の渦巻く暗澹に日を暮れる。

この義嗣を将軍・義持の命を受けた富樫が討ち果たしたのは、富樫失脚の半年前の応永25年(1418年)1月24日。義嗣はその首を取られている

そして富樫の失脚後、富樫自身が義嗣に謀叛を薦め、幕府転覆を図っていた、という風説が流れる始末となり、京側における真相究明は「出来ずに終わった」と言うしかない。

ただ関東における上杉禅秀の乱じたいは、京ほど長引かず短期で終息に向かった。

先に結審がついていた「鎌倉公方・持氏の支援」は、将軍の弟・義嗣の逮捕の余波と動揺で、その進発が遅れたかもしれない。
が、それでも、命を受けていた今川氏が具体的に動きを見せたのは、乱勃発から二ヶ月以内、12月25日の事である。

今川氏は関東の諸士に向けて、上杉禅秀一味の同心を離れるよう呼び掛けを行なう。
その後の様相を合わせ見ると、この呼び掛けの効果は高かったと言える。

それまでの間、鎌倉はどうなっていたか……。
ここにやっと豊島氏」が登場する(^_^A)。<お待たせしました

先述の通り、鎌倉は満隆が「公方」を称して座を占め、これを上杉禅秀が「関東管領」を称して補佐していただろう。

が、あれほど多くの賛同者を得ていても尚、必ずしも関東全域がそれに従った確証に至らなかったようだ。
公方の「お召し」に応じない武士もおり、鎌倉府として「討手」を差し向けるべく、満隆の嫡養子、持仲(持氏の弟)が「大将軍」となり、禅秀の子・憲秋・憲方の兄弟が供をして、武蔵国に発向する事となった。

憲秋
の方は支障でもあったのか発向を取りやめ、弟の憲方だけ行ったようで、11月21日の出陣となった。入間川に布陣。

これに、江戸氏、豊島氏、二階堂氏、宍戸氏、南一揆などが「抗戦側(持氏側)」として登場する。

これが、今川を経由して幕府から関東諸氏に「持氏支援」を呼び掛けられた、12月25日より前である事に注目する必要がある、と個人的には思っている。

11月23日、持仲・憲方(禅秀側)と江戸・豊島など(持氏側)の間で「世谷原合戦」(横浜市瀬谷国)が開戦。
江戸・豊島の側が勝利し、持仲・憲方は敗走。
江戸・豊島側はこれを追捕したが、持仲・憲方は11月25日、鎌倉に逃げ延びた。

12月は、18~22日に、新田岩松氏が地盤である上野国で同じく禅秀側に従えるべく、持氏に加担する勢力と合戦を繰り広げている。

そして先述通り、12月25日今川範政によって、幕府の御教書を基に諸国に向け、幕府は持氏支援を表明、禅秀側が賊と認定された旨が発信される。
(謀反人への同心は代々の忠勤も消え、所領は他人に充行われるとして、禅秀から寝返って持氏への同心を促している)

同時に今川氏自身が発向。三島、足柄、曾我、中村を経由して、小田原着陣。
持氏自身も今川氏に守られて出陣した。

これによって、戦況は一変する。

翌応永24年(1417年)1月1日、再び世谷原で両勢力がぶつかり合う。
再度の「世谷原合戦」である。
今度は江戸・豊島の側が敗退してしまう。
しかし、小田原まで幕府&鎌倉公方の軍が着陣してる事が知られていたため、「(禅秀の)敵は負けても喜び、(禅秀の)味方は次第に力を落とした」と伝記される通りとなった。

この時も鎌倉公方・持氏は、禅秀に味方した新田岩松満国の所領を没収し、鶴岡八幡宮に寄進している。
やがて持氏も小田原で合戦を行ない、勝利。

既に大方の禅秀側にいた者らも寝返っており、満隆・持仲・禅秀らは孤立し、夜に鎌倉に没落してゆき、1月10日、禅秀父子雪下御坊に籠もった。
(雪下には禅秀の子・宝性院快尊が僧都となっていたようだ)
そこで満隆、持仲、上杉禅秀、禅秀の子の憲方、憲春、氏春、宝性院快尊ともども自害して果てた。

今川は小田原から、江戸・豊島は武蔵方面から再び攻め入り、遂に鎌倉が奪還されたのである。

その後も、禅秀の縁類らの討伐は続いたが、2月甲斐国武田信満が自害。新田岩松満国も生け捕られ、5月に首を打たれた。

この「上杉禅秀の乱」で功績のあった江戸氏、豊島氏は、上杉禅秀所領を没収して賜った事が記録されている。
この乱で功績のあった豊島氏の当主名は、前も言った通り、正確な系譜を辿る事は難しいものの、軍忠状などから「範泰」という人物であったようだ。

上に見て来た通り、殆どの関東武士が正式に幕府の命令が下ってから、やっと鎌倉公方・持氏の味方になる中、その前から、明確に持氏に付いて禅秀一党らと戦った点から、その功績の高さには、かなりのものがあったのではないかと推測する。

彼らの他に同様に功績者として、今川氏は言うに及ばず、大森氏というのが特に見える。
大森氏には、土肥氏、土屋氏の跡を賜ったという。
(土屋というのは、甲斐武田信満の縁に見る名なので連座かも)

大森氏はその後、北条早雲が伊豆に現れた頃、土地の有力者として出て来る事で知られ、その勃興を「上杉禅秀の乱」に見る事は、関東の戦国初期を詳らかにする上で重要だと思う。

豊島氏大森氏も、戦国時代が佳境に入る直前に滅んでしまう。
だから太田道灌とか北条早雲みたいな、戦国初期の英雄の生贄みたいな役割としてしか認知されない(^_^;)。

が、それを押しどかさなければ本格的な戦国時代が到来しなかった事を思えば、いかように勢力を持ち得たかに、もう少し注意が払われて良いのではないかと愚考する(^_^;)。

ただし、豊島氏が滅亡した時に表わされた版図(台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区板橋区、足立区、練馬区とその周辺)の中で、どの土地が禅秀の所領地から与えられたのかは判らない(^_^;)。
その点に詳しい研究もあるのかもしれないが、私の知る限りではない。

又、版図とされる地域の他にも、名目として授かっていた土地があったかもしれないが、それも判らない(^_^;)。
以前「縦糸-1「江戸期の豊島氏」」で書いた通り、茨城県布川城に戦国末期まで居た布川豊島氏なんか関係がないかな、と思った事がある。

それで今回、冒頭部分で、上杉禅秀の乱のキッカケとなった「越幡六郎」について「関係があるかも(^_^;)」と書いてみた。
彼は禅秀の家人であったし、そもそも鎌倉公方・持氏に怒りを買った張本人なので、その後も所領を永らえたと思えない。

ただ、小田氏や小幡氏の所領と考えるには、布川城は少し距離があるような気もしなくはない(^_^;)ゞ。

一般的に言って、上杉氏の所領地は非常に広範囲にわたるのだ。
越後(新潟)、上野(群馬)、武蔵(埼玉、東京)、相模、伊豆(神奈川)などが上げられるが、犬懸上杉氏は上総(千葉)に所領を持っており、冒頭に述べた如く、常陸(茨城)以北にも版図を広げていた感じがするのが厄介だ(^_^;)。

<つづく>

横糸-3「鎌倉公方2代(小山氏の乱)~4代(上杉禅秀の乱)」

又々かなり間が空いた(^_^;)ゞ。
去年はあれから、例によって確定申告の時期に突入したので更新が止まっていた。

前回話した通り、これよりいよいよ「上杉禅秀の乱」から始まる関東の動乱期(~「永享の乱」~「享徳の大乱」)に入るっ!(`・ω・)=3 *鼻息*

先にあんちょこを言うと(^。^)、この先の動乱は、鎌倉公方足利氏関東管領上杉氏の戦いである。

上杉氏については、関東における登場の前史として、

横糸-1「室町初期・上杉氏の事(観応の擾乱と武蔵野合戦)」

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」でざっと述べた。
(今読み返すとだいぶ雑な文だったと思う、急ぐとロクな事ないわ、ごめんね(^_^;))


対する鎌倉公方については、わりと深く掘り下げて語らねば、この先の長い動乱話には、とてもついていけないと思う(^_^;)。

てわけで、今回は横糸編第三弾として、鎌倉公方2代~4代までを通して語る。


鎌倉公方というのは、

   
在位
生没
初代 基氏 1349~1367年 1340~1367年
二代 氏満 1367~1398年 1359~1398年
三代 満兼 1398~1409年 1378~1409年
四代 持氏 1409~1439年 1398~1439年
五代 成氏 1449~1455年 1434?~1497年


こんな感じ(^^ゞ。

最後の5代・成氏は、享徳の大乱の最中に、鎌倉(神奈川県)から古河(茨城県)に関東公方の座を遷したので、そこから先は「古河公方」と呼ばれ、これまたその子孫が、成氏を初代として5代(政氏・高基・晴氏・義氏)まで続く。

豊島氏太田道灌に敗れて滅んだのは、成氏の古河公方時代である。


(1)二代・氏満

上に出した鎌倉公方5代の表に対して、これまで追いかけて来た豊島氏の経過はどう相対してるか……。

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」
で書いた通り、↓

応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を起こし、敗退の上、崩壊。
所領地は、関東管領・上杉氏に没収された。

この時の豊島氏への処置がどうであったかは判らないが、30年以上も後になって、所領地が戻されたようなので、連座とされたんだろうと思う。」

↑こうですな。
つまり、初代・基氏が既に亡く、二代・氏満の代に入ってスグ、連座で所領地が没収された事になる。

……ここで訂正事項。
上の赤い文、「30年以上も後になって」と書いてるが、後の調べで、
「応永2年(1395年)になって同郷を還補(げんぽ = 所領返却)」
と判ったので、正確には「27年後」の返還であり、「30年近くも後になって」と言うべきだった(^_^;)<スイマセン
(元の文章の方も直しを入れておきました)

つまり、二代・氏満の代になって没収され、同じく氏満の代の内に返還もされた事が判る。

じゃあ氏満個人の意思が介在してるかと言うと、鎌倉公方に就任した時の氏満は9歳である(^_^;)。

当時の9歳は、今よりずっと大人びていたとは思う。
公方とか執権、管領といった家の幼君が、驚くような発言をするシーンが当時を記す史料や軍記に出て来るのを目にする(^_^;)。
今の子供の倍ぐらいの精神年齢だったかもしれない。

ただ、裏で補佐する大人の家来なり執事なりがいるから、そういう発言や行動が出来たのだろうし、誇張して大人っぽく伝えられてる部分もあるだろうとも思う。
すると鎌倉公方の場合、関東管領上杉氏か、或は奉行衆あたりの補佐で、没収や還補の決定や手続きが行われたのだろう。

関東管領というのも、血筋・家柄が何より大事な点、京や鎌倉の公方と何も変わらない。
だから、職に就く年齢がかなり幼い事もある(^_^;)。
その場合は、上杉家の執事が補佐するわけで、これは上杉禅秀の乱永享の乱享徳の乱にも重い影を落としていく事態になってゆくが、それはまだだいぶ先で……。

……今の所は、上杉禅秀の乱が起こる4代・持氏までの就任年齢や期間について、少し深掘りしておくに留めるにしよう。

まず、初代・基氏は9歳で鎌倉公方になり、18年間在位し、27歳の若さで亡くなる。
二代・氏満は、8歳で就任。31年間の長きに渡った後、39歳で亡くなる。
三代・満兼は、父氏満の長期政権を受け、20歳で就任。11年在位し、31歳で没。
四代・持氏は、父満兼の短命の後、11歳で就任。30年を経て、41歳で死去。

ここまで4代の中では、持氏が一番長生きだが、前三代が病死と思われるのに対し、永享の乱に敗れ、自害に至った点が、前三代との大きな違いである。

これより書こうとしてる「上杉禅秀の乱」は、この4代・持氏の時代に起こる。
これはさっきも言った「鎌倉公方足利氏関東管領上杉氏の戦い」の始まりと見れる。
犬懸上杉氏と山内上杉氏の違いは、そう大した違いと捉えない。犬懸上杉の子孫は、この乱の後もずっと上杉陣営に属しているからである)

この二氏のぶつかり合いは、「上杉禅秀の乱」が初めてではなく、二代・氏満、三代・満兼は、九州の大内氏の叛乱と通じ、南北挟み撃ちで京の幕府・足利宗家を倒す計画を持ち、どちらも時の上杉氏に諫められ、断念している。

(氏満と満兼がそれぞれ計画したと言うより、氏満の晩年に計画があり、大内氏とも通じていたのが、氏満の死去によって、その子の満兼が父氏満の野望を継いだと見られる)

ただ、ここまでの所、鎌倉公方管領上杉との間に、特段な武力衝突までは起きておらず、氏満の野心に対しては、上杉憲春切腹をもって諌止し、この事件が京に知らされるに至って、氏満は計画を思いとどまらざるを得ず、京の将軍・三代・義満に野心が無い事を書き記し、これを義満が了承して事なきを得た。

上記は、京幕府や京管領、あるいは各守護や宗派同志の対立と連動した動きに類するのだが、鎌倉は、その時々の動乱に乗じようとするだけで、他の勢力と深い経緯があるわけじゃないので、あらすじに留めた。
詳しい背景は「康暦の政変」(1379年)で検索して貰えれば(^^ゞ。

通常の通史だと、ここで次の満兼の代にスッと行くのだが、関東史…とりわけ豊島氏についてとなると、この辺りで「小山氏の乱」(1380~1397年)に触れておくのが適当だと思う。

(昔はこれを「小山義政の乱」(1380~1382年)と言ったが、その後、義政の子・若犬丸の代にも乱が継続されたと見なされ、「小山若犬丸の乱」(1386~1392年)が追加計上されたため、父子二代を「小山氏の乱」と総称するようになっている)

小山氏の乱は、小山氏宇都宮氏の対立に端を発する。
両者の亀裂は、元は領国の境界争いが発端と言われる一方、「下野守」をどちらが拝命するかというライバル関係にも所以はあった。

小山氏は、平将門を討伐した藤原秀郷の後裔である。
平安期までは、同じ秀郷流の奥州藤原氏藤姓足利氏に見劣りの感があったが、前者が滅亡し、後者も衰亡する中、早くから源頼朝に追従し、その乳母・寒河尼を娶った経緯もあって、鎌倉御家人の地位が確立すると、小山氏が秀郷流一位の上位に躍り出た。

対する宇都宮氏も、古くから下野国に続く名族で、小山氏に見劣りはしなかったが、南北朝の争乱においては、南朝に加担する要素が強かったため、室町時代の幕開けにおいて、小山氏に遅れを取る状態にあった。

宇都宮氏と小山氏はこうして互いに、足利氏に認められようと一進一退のしのぎを削り合うライバル関係になった。
宇都宮が優勢になる時もあれば、小山が優勢に出る時もあった。

ただ、小山義政が三代将軍・足利義満のお気に入りだったため、全体としては、小山氏がゆとりを見せる場面が多かった。

一方、関東管領の上杉氏は、尊氏の弟・直義派であったがために、尊氏とは最後まで仲たがいの間柄に終わった。

鎌倉公方初代・基氏の代は、兄の二代将軍義詮と揉め合う関係はないが、唯一、鎌倉が京幕府と対立的と見られるのは、尊氏と敵対した上杉氏関東管領に据えた事である。
父・尊氏が死ぬと、その子の基氏は上杉氏の力を頼り、関東管領の座に座らせた。

基氏が、上杉憲顕関東管領に就けさせようとした時、これを宇都宮氏綱が反対したので、基氏は宇都宮氏を攻めて降伏させている。

上杉氏はしばらくの間、京の幕府にとって気を緩めない相手だったが、基氏の子・氏満の時代も、氏満体制を支えた関東上杉氏では、上杉憲顕の子・憲方や、その弟の憲春も、この基氏の体制を引き継いでいく。

つまり宇都宮氏に対しては、京・鎌倉の足利陣営は共に討伐モードにあり、こうした全ての諸事情が、小山氏にとってライバル宇都宮氏を蹴落とすのに優位だった。

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀)
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定-憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

ところが先に見た通り、二代目の氏満は、比較的、在位期間の長い鎌倉公方となり、大人になるに従い、上杉が全権を握るこうした体制に不満を持った。

さらに、さっき話した「康暦の政変」(1379年)が起き、氏満は、京将軍の義満に、戦にもならぬ内に一方的な敗北を認めさせられてしまった。

そのため、義満に可愛がられている小山氏に対し、宇都宮氏を贔屓にするようになっていく。

氏満は、まず宇都宮氏と小山氏の双方に武力行使を制止した。

この禁を先に破ったのは小山義政で、宇都宮氏の領内に侵入。裳原合戦(1380年5月)となり、当主の宇都宮基綱戦死に至った。

同年6月には、この小山義政に対し、氏満が討伐軍を起こし、さんざんに小山を攻め、9月には小山義政からの降伏の使者が送られる。

氏満は降伏を認めて兵を引き上げたが、小山義政謝罪に来なかったので、氏満は翌年(1381年)1月に再討伐の軍を起こす。

……この辺りまで、小山義政は、鎌倉公方を舐めてた感じ(^_^;)。

そもそも、小山義政がなぜ禁を破って宇都宮氏との交戦に及んだかと言うと、やはり京の将軍・義満と親密である事に自信が深かったからだろう。
他の関東武士らが、「康暦の政変」で将軍に謝罪させられた鎌倉公方・氏満の心中を察して、京幕府への貢馬を見合わせる中、小山義政だけが堂々と続けた。

鎌倉に討伐軍を起こされて敗れたものの、小山義政の見立てでは、わざわざ鎌倉に謝罪に行かなくても、義満の使者あたりが執り成してくれると思ってたフシがある。
長い間、宇都宮氏に対して余裕を保ってきたし、鎌倉公方の氏満は上杉氏に牛耳られてる感もあった。

それら全ての見立てが甘かった。。

外野戦が繰り広げられ、小山氏の数々の城でも戦いが起こる中、義政は鷺城に籠もったが、ここも攻め込まれ、12月には再び義政から降伏の使者が発って、今度は義政が出家する事になった。
小山氏の城は悉く鎌倉方に接収され、義政(永賢と号す)は祇園に移った。

永徳2年(1382年)3月、義政は祇園城に火を放って脱出。
糟尾(下野国)山中の城に立て籠もったが、ここも攻められ、4月、義政はついに自害に及んだ。

しかし義政の遺児・若犬丸は逃亡し、4年後の至徳3年(1386年)、突然戻って来て祇園城を占拠した。
鎌倉軍が討伐に向かい、下野国下総国の境にある古河で戦闘。

若犬丸は下野、下総、陸奥で抵抗を続けたが、さらに11年後の応永4年(1397年)、会津自害
若犬丸の二人の遺児は、武蔵国六浦(横浜市)で処刑され、家系は断絶した。

鎌倉公方に攻められ、三度も敗れたあげく自害に追い込まれた義政を、義満は助けようとしなかった。
鎌倉に対して咎めた話も聞かない。
つまり小山氏三代は、京将軍義満と京幕府に見捨てられたのだ。

これに対して、一族を全員死に至らしめた氏満の執念は凄まじい。
小山氏を三代に渡って滅亡に追いやるのに、朝廷や将軍のお墨付きを貰った形跡も聞いた事が無い(^_^;)。

南朝だったわけでも、観応の擾乱で敵対しあったワケでもないから、そうした許可が出ないのは当然なんだが、全くの「私戦」で片づけ切ってしまった(^_^;)。

小山氏滅亡した。
その後の関東史に名の続く「小山氏」は、鎌倉期に小山氏から分家した「結城氏」から養子を出して継がせたような形にして、小山氏の領地を引き継ぎ、小山氏の当主となりかわって家臣らの命脈を繋いだのであって、元の小山氏から見れば遠縁に過ぎる(^_^;)。

小山氏を滅亡にまで追いやった理由を、「鎌倉足利の間を確保するため」と見立てる専門家がおり、私はこれが一番「現実的足利氏の意図」ではないかと思っている。

足利鎌倉の間や周辺に位置する小山氏・豊島氏の位置

左上「足利邸跡」に現在は「鑁阿寺」があり、ここは元、足利氏邸の跡地として、後世は寺となり、足利氏先祖の墓所として中核的位置にある。(赤色)

その遠からぬ位置に、小山氏の「鷺城」「祇園」がある。(青色)
乱の最中は小山父子が、下野国の山野に立て籠もったり、隠れ潜んだりもしたので、足利やその近隣まで余波が及んだかもしれない。

さらに、足利氏の先祖地と鎌倉公方の居する鎌倉御所地のちょうど中間地に、豊島氏の「石神井」「練馬城」がある事がお判り頂けるかと。(黄色)

前も出した「新田義貞の鎌倉行軍ルート」も比較対象として再提示 

下野国足利(古くは足利荘)」は、京幕府と鎌倉公方の双方にとって「出身の地」であり、「苗字の地」「先祖墳墓の地」である。
ここと鎌倉を思うように行き来できない事、そしてその足元を見るような地方豪族の傲慢不遜な態度は、足利氏(京・鎌倉)の総意として抑え込んでおく必要があったのではないか。

(江戸期も、時の将軍の日光参拝の各街道は実に注意深く警備の配慮がされ、それが幕府の安定要素たりえた。将軍の先祖墓参には、そういう意味あいがある)

豊島氏に旧領が返還された、応永2年(1395年)が、小山若犬丸の長い抵抗(1386~1397年)の最終段階に当たる。

勿論、豊島氏への還補と小山若犬丸の討伐に関係があるかは判らない(^_^;)。
しかし私が今回ブログを起こした理由は、前も述べた通り、「東京に居ては目が向かない周辺史から、豊島氏の面影を追う」事にある。

これが「小山氏の乱」に長く言及した所以である。
この先、豊島氏が滅ぶまでの間、特に北方との地勢関係に目を向ける意識は重要だと思う。

鎌倉公方二代・氏満は、若犬丸を滅ぼした翌年(応永5年・1398年)に死去した。


(2)三代・満兼


次の満兼の代になって、いよいよ大内義弘が叛乱(「応永の乱」1399年)を起こすが、京の幕府に察知され、大内義弘は上洛させられて尋問を受け、京幕府と京管領の討伐軍によって、逗留していた堺城を攻められ、20日余りで陥落、義弘は戦死した。

満兼はこの乱に加担しており、その証拠すら残っているが、大内義弘の早々の敗死によって継続達成を断念せざるを得ず、関東の動きを察知した京幕府に問い合わせを受ける羽目となった。

この時、京幕府と鎌倉の満兼の間に入って両者を調停したのが、山内上杉憲定だった。

と言っても、時の関東管領は憲定ではなく、犬懸上杉朝宗上杉禅秀の父)だったが、憲定の山内上杉氏は宗家にあったので、京の義満に対して、知己も上手に事を収める信頼も得ていたと考えられる。
その一方で、鎌倉の満兼に対しては、諫言して、聞き入れさせるだけの力も持っていた。

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀)
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定-憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

上杉憲定は、義満からは書状で指示を与えられ、満兼には武蔵国の陣を解かせる事に成功している。
結局事態は、満兼が義満に謝罪文を書いて届ける形で無事を得た。

(……ちなみに、京の将軍は既にこの乱の5年前(1394年)に、四代・義持が就任しており、当時を伝える履歴に義持の名が顕れる事もあるが、実権はその父・義満(三代)に掌握されていたと見られ、京側の意思決定の主体は義満にあったと考えておく)

鎌倉公方の歴史を見ていると、なぜそんなに京将軍を凌ごうとするのか、その熱意の強さに驚く(・・;)。。

祖父と父の二代に渡って京に謀叛を企んだが、二度とも上杉氏が諌死したり、調停に入って執り成して、せっかく無罪を勝ち取ってるんだから、もうやめとけばいいような気がするんだが、四代・持氏も、又々物凄く京将軍にライバル心メラメラの鎌倉公方へと成長するのだ(汗)。。

個人的には、鎌倉公方がそのように京宗家の将軍に対抗していく根拠に、鎌倉(関東)よりさらに北の奥州との軋轢がありそうに思っている。

この応永の乱が起こる前年(1398年)、満兼は、自分の弟二人陸奥国の二ヶ所に派遣させた。
一人は満貞で、福島県須賀川市に「稲村御所」を設立。
もう一人は満直、同県郡山市に「篠川御所」を設けた。

これは小山若犬丸会津に滅んだ翌年だから、若犬丸の潜伏を長年に渡って許したのは、奥州に匿う勢力があるから、という推測があったのかもしれない。

若犬丸は常陸国小田氏宍戸氏に匿われた。さらに北部の佐竹氏なども怪しい。
小田氏はその罪を鎌倉府に問われる羽目になったにも関わらず、若犬丸は捕まらずに、さらに奥州に逃げ延びている。
表向きは鎌倉の討伐軍に協力しながら、裏では若犬丸を逃がした勢力があったと見る方が自然だ。

若犬丸は自害し、小山氏は滅亡に至ったが、二度と再びこのような謀叛人を出さないためにも、奥州に抑えの連枝(身内)を送り込んでおく必要性はありそうだ。

ところで、京将軍・義満は、二代に渡る鎌倉公方の謀叛の企てに、流石に警戒を強く持ったようで、乱の二年後(1401年)も「関東調伏」を祈念するなど、心を許さぬ様子が濃い(^_^;)。

それゆえか、乱の翌年(1400年)には、この二つの陸奥御所に対して、伊達政宗蘆名満盛ら、奥州大名の陰謀が露見。
この陰謀劇が、どうも、京の義満の差し金であったらしく(^_^;)、義満は奥州の在地勢力と挟み撃ちの形で、鎌倉を牽制する策に出たようだ。

企ては失敗したと見え、二氏は逃亡したが、稲村御所・満貞がこの退治を、結城白河満朝に命じている。
満朝は満兼に感状を得ているので、奥州征伐に向かってある程度の成果を認められたのだろうが、満兼はその2年後の応永9年(1402年)、改めて本格的な奥州征伐隊を送っている。

この征伐軍を指揮したのが、関東管領犬懸上杉朝宗の子・氏憲……すなわち、後の上杉禅秀である。

このように宗家の山内上杉氏に対し、分家とは言え、犬懸上杉氏朝宗関東管領職に就いており、その子・氏憲(禅秀)も、このような奥州に大規模な軍事活動を経て、東国における大きな影響力を持つ系譜となっていく。

鎌倉公方三代・満兼は、応永16年(1409年)に病死した。

死去の直前、新田義貞の孫・貞方が決起を企てている事が露見し、満兼の死後、貞方は鎌倉で千葉氏に捕らえられ、嫡子と共に斬られた。

南北和合を経た後も、南朝の分子が隠れ潜み反撃を企てる可能性を排除できずに来た。
足利氏がこれと対峙するには、東西の公方が争い合うを避け、協力しあう必要はあった。
が、ここに南朝新田氏は滅び、その必要性が消えた。


(3)四代・持氏


京将軍・義満の死去が応永15年(1408年)であり、一方の鎌倉・満兼はその翌年(1409年)に亡くなっているので、ここで京・鎌倉ともに、新公方にチェンジ。

京は四代・義持、鎌倉も四代・持氏をそれぞれ主に迎える。

ただし義持の方が12歳年上である。それを言うと、その父同志も、義満の方が満兼より20歳年上だった。(満兼の父・氏満は義満より一歳年下で、世代としては合っていた。)
こうした経過で、常に鎌倉公方の方が京将軍より年下で、幼少期に公方になる傾向も強いため、こういう事も、鎌倉では関東管領の強さが際立っていく事情に関係してたかもしれない。

年齢の話をすると、実は上杉氏においても内部に世代の差が出来ており、11歳で新鎌倉公方となった持氏の意識に影響したのではないか、と思っている。

<上杉氏>
┌重顕(扇谷)
├憲房┬憲藤(犬懸)-朝宗-氏憲(禅秀)
|  └憲顕(山内)┬憲方-┬房方
|         ├憲春 └憲定-憲基=憲実(養子)
|         └憲栄=房方(養子)憲実
└清子(足利尊氏・直義母)

山内上杉憲方(1335~1394年)には、憲孝(1366~1394年?)という嫡男が居た(系図から省いててスイマセン(^_^;)ゞ)が、管領職を譲って二年で憲孝が死去してしまったため、犬懸上杉朝宗(1337~1414年)が代わって関東管領の座に就いた。

朝宗は憲方と同世代。
朝宗の子・氏憲は生年不詳(?~1417年)だが、憲孝とほぼ同世代だろう。

憲孝の弟・房方(1367~1421年)も同世代だが、これは越後の上杉氏を継いでいる。
この時代、まだ南朝新田氏は各地に潜んでおり、その強固な地盤である越後を守る事は重要視されていたに違いない。

その次の弟が、憲定(1375~1413年)で、二人の兄に比べてグッと年齢が若くなる。
むしろ満兼(1378~1409年)と同世代と言える。

憲定の子・憲基(1392~1418年)と、鎌倉公方の満兼の子・持氏(1398~1439年)も、そこそこ同世代と言える。

憲孝が若くして死去した時(1394年?)、歳が離れてるとは言え、憲定は20歳には達していた。
管領に就くに不足ではなかっただろうが、犬懸上杉朝宗が就任したのは、鎌倉公方二代・氏親、三代・満兼の信任が厚かったためと推察できる。

朝宗も宗家が山内上杉氏である事を軽く見てなかったから、自分が辞した後は、山内の憲定に管領職を譲ったのだろう。
そして満兼の死を受けると、自身も出家隠遁している。(もっとも72歳の大長老になってたが(^_^;))
二代の公方が見込むだけの人物だったように思う。

ただ、その子の氏憲になると、前公方の満兼までは、奥州に派遣するなど信頼の度合いが感じられるが、持氏の代になると、時の管領は山内の憲定になっていた。

先述通り、父同志(満兼・憲定)、子同志(持氏・憲基)が同世代という見方が、持氏の世代には通常運転に感じられていただろう。
それが突然、憲定が管領職から失墜し、かなり年嵩に感じられたであろう犬懸上杉氏憲が代わって関東管領に就く、という出来事に会った。

これには持氏の叔父、満隆(稲村御所や篠川御所とはまた別の満兼の弟)が謀叛を疑われた事件が関係すると見られている。

持氏はこの時、まだ幸王丸と呼ばれる少年で、政務を執るには未熟だったので、後見役だった伯父の満隆が実務に当たっており、これと犬懸上杉氏憲(禅秀)は近しかった。
以後、満隆と氏憲の二人体制で、鎌倉は当面を進ませていた。

応永19年(1413年)、前管領山内上杉憲定が死去。持氏15歳。
同21年(1414年)、前々管領犬懸上杉朝宗が死去。持氏16歳。

満兼時代を支えた関東管領は、こうして世を去って行き、持氏は成長してゆく。

その間、応永20年(1413年)、奥州の伊達氏に反乱の企てがあると知れ、持氏は畠山国詮を討伐に出し、年末には結城白河氏にも軍勢催促を出した。

伊達氏は籠もっていた大仏城をすぐ撤退したが、結城白河氏が参戦してなかった事を持氏が咎め、戦勝し凱旋してきた畠山氏にも、戦況の遅滞を理由に出仕禁止を下す。

奥州に御所を設えて奥州勢に備えているはずの、稲川御所・篠川御所の動向は聞こえず、伊達氏の謀叛に機能してた形跡も判らない。

さらに同年、甲州にも反乱勢が現れたようで、武州一揆中に持氏からの軍勢催促が出されている。

こんな流れの後に、応永22年(1415年)、いよいよ上杉禅秀の乱前哨と言える、持氏による越幡六郎所領没収事件が起こるのだ。

……続きは次に送るが、ここまでで一つ首を傾げるのは、やはり討伐に出した畠山氏が戦勝して戻ったにも関わらず、持氏に出仕禁止という極めて厳しい処分を下されてる点かと……(^_^;)。

これが持氏の公方就任初期から抱えた「鎌倉府の困難」に原因するのか、持氏「個人の性格」に起因するかは何とも言えない。
が、上杉禅秀が次回に起こす乱で、歴代の鎌倉公方の野望を、歴代の関東管領が処して来た前例を、明らかに逸脱する事を予告して、今回は終わろう。

<つづく>

武蔵豊島氏(石神井城・練馬城)・メニュー

1)はじめに(自己紹介な(^^ゞ)

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2)前提、1

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3)前提、2

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4)あらためて、「動機」

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5)推薦(だぼださんのブログ)

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6)「豊島氏」を際立たせる「縦糸」と「横糸」

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7)縦糸-1「江戸期の豊島氏」

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8)縦糸-2「平安期・良文流と東国の大乱」

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9)縦糸-3「平安末~鎌倉朝・豊島氏の発祥と秩父平氏

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10)縦糸-4「鎌倉期・武蔵秩父流の悲劇」

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11)縦糸-5「鎌倉末~南北朝期・新田義貞の鎌倉攻略」

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12)縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」

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13)横糸-1「室町初期・上杉氏の事(観応の擾乱と武蔵野合戦)」

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14)横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」

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15)縦糸-7「江戸氏の事」

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16)横糸-3「鎌倉公方2代(小山氏の乱)~4代(上杉禅秀の乱)」

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17)横糸-4「上杉禅秀の乱(と豊島氏)」

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新型コロナウィルス・メニュー一覧(2021年版)

去年(2021年)も一昨年(2020年)分のを作った、ツイッタープロフィールツイフィール)の「モーメント」の目次、今年(2022年)も去年(2021年)版をこさえました(^^ゞ。

「ツイフィール」は千文字まで可なので、ツイッター側にも、今回こちらに移したメニューも一年スッカリ経過するまで残そうと思いますが、やがてツイフィール側は、順々に消していく手筈です(^_^;)ゞ
(代わりにこのブログのURLを貼っときます)

殆ど「新型コロナウィルス」と題しながら、政治ネタかなり交えるメニューですが、このブログで扱う「としまえん」ネタが、途中「歴史・史跡(練馬城址としまえん」と題して混ざってます。
(題名通り、としまえんネタだけでなく、歴史史跡のツイも多く入ってます)

去年も書いた通り、各表紙に使ってる写真は、以前旅行で行った時に撮った物で、コロナ以後は全く遠出が出来ないので、「せめて気分だけでも(^^ゞ」と表紙に使ってます。
ツイッターでの反応を見る限り、どうも、この写真の方がウケてる事を強く実感します(笑)。

<モーメント>(2021年~)

新型コロナウィルス【12/29~2021/01/07】

新型コロナウィルス【2021/01/07~01/13】

新型コロナウィルス【01/13~01/17】

新型コロナウィルス【01/18~01/25】

新型コロナウィルス【01/25~01/30】

新型コロナウィルス【01/30~02/02】

新型コロナウィルス【02/02~02/05】

新型コロナウィルス【02/05~02/10】

新型コロナウィルス【02/10~02/13】

新型コロナウィルス【02/13~02/18】

新型コロナウィルス【02/18~02/23】

新型コロナウィルス【02/23~02/28】

新型コロナウィルス【03/01~03/07】

新型コロナウィルス【03/07~03/13】

歴史・史跡(練馬城址・としまえん)【10/12~2021/03/20】

新型コロナウィルス【03/13~03/20】

新型コロナウィルス【03/22~03/26】

新型コロナウィルス【03/27~03/31】

新型コロナウィルス【03/31~04/07】

新型コロナウィルス【04/07~04/12】

新型コロナウィルス【04/12~04/19】

新型コロナウィルス【04/19~04/25】

新型コロナウィルス【04/25~04/29】

新型コロナウィルス【05/01~05/08】

新型コロナウィルス【05/08~05/10】

新型コロナウィルス【05/11~05/16】

新型コロナウィルス【05/17~05/22】

新型コロナウィルス【05/22~05/23】

新型コロナウィルス【05/24~05/28】

新型コロナウィルス【05/28~05/30】

新型コロナウィルス【05/30~06/06】

新型コロナウィルス【06/06~06/08】

新型コロナウィルス【06/08~06/13】

新型コロナウィルス【06/13~06/14】

新型コロナウィルス【06/14~06/18】

新型コロナウィルス【06/18】

新型コロナウィルス【06/18~06/25】

新型コロナウィルス【06/25~06/26】

新型コロナウィルス【06/27~07/03】

新型コロナウィルス【07/03~07/06】

新型コロナウィルス【07/06~07/11】

新型コロナウィルス【07/11~07/14】

新型コロナウィルス【07/14~07/17】

新型コロナウィルス【07/17~07/22】

新型コロナウィルス【07/22~07/24】

新型コロナウィルス【07/24~07/27】

新型コロナウィルス【07/27~07/30】

新型コロナウィルス【07/30~07/31】

新型コロナウィルス【07/31~08/03】

新型コロナウィルス【08/03~08/07】


(最初に作った時は、ツイッターを埋め込む方式で作成し、表紙の画像と冒頭の文章が見える様式だったのですが、後日(2023/03/09頃)、画像も文章も見れなくなってしまい、あまりに味気ないリンク集になってしまったので、表紙の用いた画像をこちらに移して、題名と画像からのリンクに手作業で直しました。

2020年分は全部直したのですが、この2021年分は、03/11~03/30までの間ちょっとづつ直してたら、03/29から突然、前の通り、埋め込み形式のリンクに画像と冒頭文が見えるよう復帰されたので、取り合えず直し作業はここまでにしときます(^_^;)。
後日、また同じような現象が起きたら、続きの直しも行おうと思います
2023/03/30)

新型コロナウィルス【08/07~08/10】


その後、X(旧ツイッター)でこのモーメントの各URLをクリックすると、表紙画像とその案内文までは表示されるのですが、「通知はまだ届いていません しばらくしてからポストを確認してください。」なる表示が出るのみで、肝心の各ポスト(旧ツイート)が表示されなくなりました。その文言通り、開通をずいぶん待ちましたが、出て来ないまま随分時間が経つので、この表紙画像も見れなくなる事を危惧して、この先の画像も取り合えず救出しておこうと判断し、↑この回から、少しづつ残りの作業を続行する事にしました。2024/02/24)

新型コロナウィルス【08/10~08/14】

新型コロナウィルス【08/14~08/17】

新型コロナウィルス【08/17~08/22】

新型コロナウィルス【08/23~08/26】

新型コロナウィルス【08/26~08/30】

新型コロナウィルス【08/30~09/04】

新型コロナウィルス【09/04~09/06】

新型コロナウィルス【09/06~09/09】

新型コロナウィルス【09/09~09/11】

新型コロナウィルス【09/11~09/17】

新型コロナウィルス【09/17~09/21】

新型コロナウィルス【09/21~09/25】

新型コロナウィルス【09/25~10/02】

新型コロナウィルス【10/02~10/07】

新型コロナウィルス【10/07~10/11】

新型コロナウィルス【10/11~10/15】

新型コロナウィルス【10/15~10/20】

新型コロナウィルス【10/20~10/26】

新型コロナウィルス【10/26~10/31】

新型コロナウィルス【11/01~11/04】

新型コロナウィルス【11/04~11/10】

新型コロナウィルス【11/10~11/15】

新型コロナウィルス【11/15~11/21】

新型コロナウィルス【11/21~11/26】

新型コロナウィルス【11/26~12/02】

歴史・史跡(練馬城址・としまえん)【2021/03/20~12/03】

新型コロナウィルス【12/02~12/07】

新型コロナウィルス【12/07~12/15】

新型コロナウィルス【12/15~12/22】

新型コロナウィルス【12/22~12/31】

以上、「埋め込み形式」→「URL+画像」に張り替えましたが、全部張り替えてしまうと、元の「埋め込み形式」がどういう物だったか判らなくなると思い、この年最後の一個だけ↓に残して、この2021年版の画像張り替え作業を終えます。
2022年版についても今後、張り替え作業をしていく所存です。(2024/03/25)

twitter.com

 

この後も「モーメント」は続いてますが、2021年以降のは、又、来年にでも、こちらに移そうと思います。

 

縦糸-7「江戸氏の事」

前回から再開したが、お断りしなければならない事に気付いた(`・ω・)=3

連載の回数である。
当初12回と言ったのを、後から13回とか、14回とか、引き延ばして告げてる内に、8ヶ月以上もの休止状態に突入してたようだ(^_^;)ゞ。

前回が、その「14回」目に当たるんだが、終わらないどころじゃない(笑)。

この先どれぐらい続くか……φ(-ω-;)m<ウーン
今回の入れて6回は行くんじゃないかなー。
(当初の「12回」なる目算の甘さ……( ̄∇ ̄;))

ただ、時間をかけただけあって、拙速に終わらせようとした視点を一度離れて、少し視野を広く持てる気持ちになれたように思う。それを世間は「負け惜しみ」といふ。

さて、この後の豊島氏が史実に顕れるのは、応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」となる。
この乱については次回以降、詳しく書こうと思うが、ここでイキナリ、滅亡時(1478年)の豊島氏の所領地を振り返ってみたい。

その本拠は石神井とされ、そこに立つ石碑によると、その当時の豊島氏の勢力範囲は、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区板橋区、足立区、練馬区とその周辺に及んだ、という。

ズラズラ書くと大層な勢力に思えようが、そう広い範囲とは言えない(^_^;)。
でも戦国時代において、そこそこの勢威を世に知らしめる程度の存在感はあろう。

これほどの領域を一円確保した時代を、いつの時点に見出すか……。
これはちょっとした課題じゃないだろうか。

結論から言うと、私はそれを、次回話す予定の「上杉禅秀の乱」ではないか、と思っている。

上杉禅秀の乱の後の関東は、永享の乱(1438~)、結城合戦(1441~)と続き、畿内では、嘉吉の変(1441~)が起こる。
そして関東には、享徳の大乱(1455~)という長い戦争の時代を迎え、この乱の最中に、畿内では応仁の乱(1467~)が起き、関東は享徳の大乱も終わらぬ内に、長尾景春の乱(1476~)が勃発。
この二重三重の乱の最中に、豊島氏は太田道灌との戦いに敗れ滅亡(1478)に至る事となる。

つまり、最初の「上杉禅秀の乱」から最後の「長尾景春の乱」に至るまでは、関東動乱史の中に身を置いた一豪族として豊島氏を見出す手法が可能である。

……に対し、滅亡時に伝えられる豊島氏の持つ面影が、「上杉禅秀の乱」の時にはあらかた整っていたのか、それともその後、滅亡するまでのどこかの段階で形作られたのかが、正直よく判らない(^_^;)。

そこで、上にズラリと並べたこの先の関東の動乱を書く前に、やり残して気になっている事を今回は書いてみようと思う。

表題にある通り、江戸氏についてである。

鎌倉時代畠山氏、前回に見た通り、室町初期に武蔵平一揆河越氏がほぼ消滅し、豊島氏にとって同族として手を携え得るのは、江戸氏葛西氏ぐらいになったと思うからだ。

葛西氏は、鎌倉時代陸奥に行ってしまい、その活躍を関東に見る事は無くなった。
南北朝期、僅かに関東の戦歴に名を顕わすものの、その後は戦国期までやはり奥州探題として存在感を示すのみである。

(関東と東北の両方に拠点を置いて、行き来しながら両方の場を保ったと推測する向きもあるようだが、葛西氏については資料の混乱が著しいため、ここでは取り上げたくない)

江戸氏は、豊島氏や畠山氏と同じく、秩父平氏である。
だいたい、後の江戸城の辺りに平安末には本拠を構えていたと見られてきた。

源頼朝による平家追討の決起に伴ない、豊島氏葛西氏は早い内から頼朝に靡いたが、その本家筋とも見られる、畠山・河越・江戸の各氏はやや遅れを取った。
江戸重長などは石橋山合戦で頼朝と戦ったが、後に従った。

スグに靡かなかった畠山・河越・江戸の中では、頼朝は、この江戸重長を選んで使いを送った。
どういう意図かはよく判らないが、人柄か、他の二氏より御しやすいと思ったのかもしれない。
既に戦闘を行なった敵同志であったためか、なかなか応じない重長だったが、頼朝は同族の葛西清重を出して傘下に服させている。

江戸氏が、同族の畠山氏や河越氏のように表舞台に名を顕わさないのも、鎌倉幕府の権力の中枢に偶然、近くなかったからに思える。
承久の乱の活躍により、出雲国に地領を得ているものの、軍記文学などでは大層な富豪であるかのように描かれるフシも見受けるのは誇張で、江戸氏にそれほどの力を持ちうる要素はない。

江戸氏は鎌倉時代に入ると、早くも系譜が途絶えたと見られる。
畠山重忠を討伐する中に見られるのを最後に、以後、史上に名を顕わす「江戸氏」が、元の江戸氏とどう繋がるのかは解明されてない。

江戸氏には、武蔵七党猪俣氏の血が婚姻によって入り込んでおり、これは同血族の横山氏の名乗る小野氏と同祖を称している。
その関係からか、小野の名乗りが江戸氏に混在して出て来るようになる。
一方、この後に出て来る江戸氏は、畠山重忠の子孫が跡を継いだという説もあるようだ。
あるいは、江戸氏の庶氏の流れ(分家)と見る説もある。

系譜的には不明ながら、「江戸氏」はその後も史上に見られる。

ところでその江戸氏は、江戸時代には「喜多見氏」を名乗り、現在の世田谷区あたりに居たようである。

世田谷区には幼い頃と大人になってからの二度に渡って、長く住んだ事がある。
区役所だったかの待合室で、「世田谷区の歴史」みたいなビデオが上映され、「将軍家たる徳川氏の江戸城と同じ名乗りは恐れ多いと改名」という具合に紹介されてた覚えがある(^_^;)ゞ

しかし徳川家が江戸入府する前、確か太田道灌江戸城を作っていたハズだ。
道灌の江戸城は、太田氏独自の城か、道灌の主筋・扇谷上杉氏あるいは、そのさらに嫡流筋の山内上杉氏の物としてだったか、細かい所は置いといて( ^^)//、何しろ江戸氏の「え」の字も、その頃は出番が無い。

どういう具合にそうなったんだろう(^_^;)。
結論から言うと、実はよくわからない(爆)。

嘉元年間(1303年)、時宗の二代・他阿真教が宗祖・一遍の亡き後、法灯を受け継いで全国行脚を行なう最中、武蔵国柴崎村を訪れた。
この地に威勢を張っていたはずの江戸氏が衰えため、村が荒廃し、疫病が蔓延して、住民が平将門の祟りを恐れている様子に出会ったという。

その地はかつて、敗死した平将門を「築土明神」として祀っていたのだが、長い年月の間に、洪水あるいは津波などによって流されしまい、これによる祟りだと、住民たちが恐れているのだった。

つまりこの時点で既に、江戸氏は土地の主要勢力たりえてない感じが濃く漂っている(^_^;)。

他阿真教は平将門を祀る塚を修復し、「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して供養したところ、疫病が終息。
住民は喜び感謝して、真教に付近の日輪寺に留まって貰い、「柴崎(芝崎)道場」が出来た。

その後も真教の気配りが功を奏して、平将門慰霊の場となり、その後の「神田明神」へと発展した。
神田明神徳川家康の江戸入府にともない、現在地の御茶ノ水駅付近に移ったが、真教の「蓮阿弥陀仏」の塚は、今も大手町に、所謂「平将門首塚」として残されている)

この首塚は、現在の皇居のスグ近くにあり、皇居はかつての「江戸城」跡地だから、この城の名は「江戸氏の城があった」事に由来すると言われて来た。
ところが、豊島氏が攻め滅ぼされた頃には、太田道灌の城となっているので、「江戸氏はいつ江戸城を離れたのか」という疑問が生まれよう(^_^;)。

それより42年遡る、弘長元年(1261年)、江戸長重正嘉の飢饉で江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)が荒廃したため、経営が続かず、北条得宗に寄進して、江戸氏は得宗被官となったという。
(この寄進は、正和4年(1315年)までに得宗家から円覚寺に再寄進されたそうだ)


この荒廃と関係があるんじゃないか、と思う事にする(^_^;)。
この時、江戸城付近を離れたのか、一気に世田谷区付近に移ったのか、或は他を転々として後だったのか、その辺はよくわからない(^_^;)。


その後の江戸氏も追ってみよう。
鎌倉末期の鎌倉攻め(1333年)において、新田義貞の軍ではなく、足利尊氏の嫡男・千寿王(義詮)に加わったらしく、そのため南朝側に連れ込まれるリスクを追わずに済んだ(^_^A)。

にも関わらず、北条時行中先代の乱(1335年)には葛西氏と共に加わったようで、足利直義(尊氏の弟)の舅・渋川義季に鎮圧された。

大抵の新田傘下の南朝組は、一度、足利@北朝に下ると、そのまま足利政権に組み従えてゆくものだ。

……に対し、鎌倉制圧の時、足利氏に直接ツテがあったにも関わらず、後に南朝側に転じてゆく、この江戸氏など秩父平氏の動きには、やはり北条氏に支配されぬいた武蔵国の名残りが思われてならない。
特に江戸氏は北条得宗家の被官であったから、北条時行の支援を断る事は出来なかったのではないか。

前々から書いて来た通り、畠山重忠の滅亡や河越氏の衰退などで、武蔵国(埼玉県・東京都)には北条氏の勢力が伸び、北条氏の影響を強く受けた事が、南北朝以後の秩父平氏らの趨勢をある程度定めた感じがする。

だから鎌倉末~南北朝の動乱期、河越氏などと共に名の出る武蔵平一揆の「一揆」は、鎌倉期の惣領制が崩れ、戦国期のような大名による一円支配も成立してない頃、こうした小豪族らが連帯を組んで様々な外圧に対処したものと言える。

と同時に、私が以前、「尊氏の連れ込む勢力に簡単に従わない理由として、大抵は、足利直義の人柄に入れ込んだ関東武士達が多かったとされてるが、豊島氏を話す局面では、その頭から離れた方が良い」と言ったのは、同族・江戸氏・葛西氏のこういう経過があるからだ。

このように関東には、足利直義に服した勢力ばかりではなく、それに敵対した尊氏が連れ込む勢力に靡く(必要のある)武士たちも居たのだ。

(一方、南北朝の頃の江戸氏は、南朝側にも北朝側にも見られ、分裂しながら各々が続いたと見られる。この傾向はこの時代のどの武家にも多く見られる(^_^;))

北朝側についた江戸重村は、浅草流と目され、武蔵野合戦(1352年)でも尊氏方に参陣。泰重なる人物が戦死している。
重村は、当時の鎌倉御所であった足利千寿王入間川御陣(1353年~)を警固したようだ。

その3年後の文和4年(正平10年=1355年)の京都「東寺合戦」でも、江戸高良遠江守)と、その甥の冬長(下野守)、修理亮が油小路で奮戦したとされ、江戸氏もようやく足利政権の軌道に即した働きが見られるようになる(^_^A)

ところが、延文2年(正平12年=1357年)、江戸淡路守高重(江戸長門の子)が鶴岡八幡宮より豊島郡小具郷を押領したと訴えられている。

さらに江戸氏にとって重要と思われる出来事は、この後の延文3年(正平13年=1358年)に起きる。

武蔵野合戦の頃から、関東の執事(関東管領)として、足利尊氏に寄越された畠山国清は、前回までに述べて来た通り、河越氏など武蔵平一揆を配下として使いながら、足利義詮入間川御陣に君臨させ、その守備体制を敷いた。

武蔵野合戦の一連の流れで、足利尊氏方は、北条+南朝+直義方の連合軍に勝利し、北条時行などは捉えられ処刑されたものの、新田義貞の残党はその後もしばらく各地に潜伏していた。

そのうちの一人、義貞の次男・新田義興は、延文3年(正平13年=1358年)に足利尊氏が死去すると、時機到来とばかりに鎌倉に攻め込んだ。


これに対して足利方では、畠山国清足利基氏の下で迎撃の指揮を執った。
命じられ、新田義興の退治に出たのが、竹沢右京亮江戸高良・冬長などで、義興に美女を与えたりなどの策謀の果て、多摩川矢口謀殺したという。

この功により、竹沢氏や江戸氏は、足利基氏畠山国清に認められ、数カ所に恩賞地を得たのだが、江戸高良は、その恩賞地に向かう途中、義興を殺した矢口渡を通った際、落雷に遭って落馬し、狂死したという。

これが新田義興の怨霊の祟りと言われ、義興は「新田大明神」として祀られ(義興を騙すために利用された美女・少将局も殺され、こちらは「女塚神社」に祀られた)、江戸時代にはこの題材で「神霊矢口渡」なる人形浄瑠璃も上演されている。

又、この新田義興の謀殺に、蒲田氏が名を連ねてるそうだ。
この蒲田氏は江戸氏の分家筋と見られ、「12代・江戸長門の次男・正長から出た」という事で、この家は確かに新田義興の謀殺事件のちょっと前あたりから見られ、後の戦国時代以降、江戸氏と同等以上に勢力を持つ氏族となる。殆ど独立勢力と言える。

江戸氏はこの新田義興殺しの一件で、世間から「きたなき男のふるまい」とつまはじきされ、人望も勢力も失ったと言われ、これ以降、あまり評判の良い家として印象されてないんだとか……(^_^;)。

ただし、そういう印象は当時だけのものか、江戸期に改めて掘り起こされ演劇化されて定着したものではないか、という疑いは持ってた方がいいかもしれない。
つい10~20年前までの東京における中世史は、わりと江戸期の伝承に頼った部分が濃かったイメージが個人的にはある(^_^;)。

私見になるが、史跡巡り伝承巡りをしていると、平将門に関わる伝説と、南朝伝説の地が重なる現象によく出くわす(^_^;)。
その理由については、自論的に様々思う所があるが、このブログのテーマから外れるので今回は省く。

ただ江戸氏については、平将門の慰霊を怠ったかのように伝わっている事と、この新田氏の祟りで死去した伝説が、イメージ的に重なって江戸期に流布されてなかったかを疑っている(^_^;)。

康安元年(正平16年=1361年)、江戸氏らを用いていた畠山国清が失脚する。
畠山氏の被官だった江戸修理亮が捕えられ、龍口で斬られている。

そして応安元年(1368年)の武蔵平一揆では、一族の牛島氏と挙兵して敗れ、江戸氏は領地を減らした。
浅草流の江戸房重は乱後、何らかの忠勤を認められる書状も残っており、多少は戻したかもしれないが、概ね江戸氏は没落
あるいは他の庶流の台頭によって、惣領家の所領が縮小したとも考えられる。

 

至徳元年(1384年)には、江戸遠江守が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が、岩松直国の物となったのを、遠江守の子孫とみられる江戸氏を称する者などが、渋口郷の引き渡しを妨害したという。

この先、上杉禅秀の乱を迎えるので、そこは次回に譲って、その後に飛ぶと……。

太田道灌江戸城を築城したのは、長禄元年(1457年)頃と伝わる。
江戸氏はその頃は、とっくにその辺りから居なくなっていたと見られ、道灌の江戸築城にその名は一切出て来ない。

江戸重広の頃(と言われてもいつの時代か判らないけど(^_^;))、世田谷の木田見喜多見)に移ったとも、その「木田見」流自体が江戸氏の庶流で、江戸氏の系譜を継承したのだとも言われている。

いずれにせよ、この木田見・江戸氏は、世田谷城主の吉良氏の家臣になっており、江戸時代初頭には、世田谷区あたりに居た事は前述の通りである。

辿った過程は、古河公方に仕えた後、古河公方の勢力を吸収する形で発展した後北条氏にも仕え、後北条氏豊臣秀吉によって小田原に滅ぶと、主君・吉良氏の世田谷城も開城したが、代わって江戸に入府した徳川家康に仕えた(このパターンは関東に大変多い(^_^;))。

だから最終的に世田谷の喜多見に所領安堵は、徳川家による沙汰である。
この時、「江戸氏」から「喜多見氏」に姓を改めた。


喜多見氏の名は、九戸政実の乱、関ヶ原合戦大坂の陣にも顕れ、元和元年(1615年)に近江国郡代。翌年(1616年)堺奉行。茶人も輩出し、徳川五代綱吉の寵臣となって、天和3年(1683年)には旗本から譜代大名に出世。2万石の喜多見藩を持つまでに上り詰め、築城費を綱吉から与えられ、貞享2年(1685年)には綱吉の側用人となる。

が、城の落成を待たず、元禄2年(1689年)突然改易され、断絶した。
改易の理由は不明で、表向きは一族の中に近親同志で刃傷沙汰があったとされている。
が、将軍綱吉の生類憐みの令に苦言を呈し、綱吉の怒りを買っての失脚を指摘する説もあるという。
ただ子孫は松前藩に仕え、家名は続いた。

このように、江戸氏は早くも鎌倉末には没落し、土地に永らえられぬほど衰退したのに、後北条氏の戦国時代まで何とか生き残り、江戸期も続いた。
戦国時代を待たずに滅亡し、江戸期に名の知れた子孫らしきとの繋がりすら不明になってしまう豊島氏との大きな違いと言える。

その一方で、突然の改易を、刃傷沙汰を起こした身内の不肖を問われたかのように伝えられ、平将門新田義興の伝説で、問題があったかのようにイメージされる。

こうして、いつのまにか豊島氏と江戸氏は、光と影を交互に描く関係となりながら、関東史に溶かされ、後北条氏に、徳川氏にと、土地主の座を譲っていったように思う。

<つづく>

横糸-2「なぜ関東管領は上杉氏でないとダメなのか」

8ヶ月以上も経ってしまった(^_^;)。
確定申告は4月には終わったが、残務片付けなどで5月が瞬く間に過ぎ(笑)、半年ぶりにここを開いて見た所……、
何を書こうとしていたか、すっかり忘れた

そいで、時間を作って、今まで書いたのを読み返そうとしたが、まとまった時間が取れず、又、前の集中力を取り戻す体力も減ってしまった気がする(笑)。

ただ、前回の最後の方で、鎌倉公方の初代・基氏が京から鎌倉に下向する所で、

が、実はそれまで鎌倉には、基氏の兄・義詮(千寿王)がいて、この義詮を「初代」に充てるべき、とする学説もある。
(次回、この「初代・義詮(千寿王)」の頃の鎌倉についても、ちょっと振り返れれば、と思う。今回は、ひとまず「上杉氏」に関わる話を優先する(^_^;))

↑と書いてあるのを読んだら、ウッスラと書こうとしてた一端を思い出したので、まずは、ここから取り掛かろう。(ナントいい加減な(^_^;))

義詮が居たと言っても、その当時の鎌倉は多分に戦闘や動乱の狭間にあったと思う。
特に前々回、縦糸-6「南北朝期・鎌倉幕府は無くならない」に述べた「中先代の乱」も起これば、後醍醐帝の命を受けた足利討伐隊の新田氏なども襲来する。

勿論、義詮(千寿王)自身は護衛の兵に囲まれて、命に別状をきたす程の目に遭い続けたわけではないかもしれないが、平穏の内に雅な生活を送った、といえる余裕があったとも思えない。

脱線しない内に、本筋の豊島氏に目を転じよう(笑)。
武蔵国に居する豊島氏・江戸氏など秩父平氏らは、これまでに書いて来た通り、惣領格河越氏畠山氏といった、武蔵北部に地盤する勢力の骨子を抜かれてしまった。
それゆえ、鎌倉時代を通して武蔵に勢力を進出させてきた前北条氏に、多くの影響を受けていたと思う。

だから豊島氏に南朝ゆかりの伝承(史実の信憑性はどうあれ)がつきまとうのも、北条残党となって暴れた北条時行に、親和的な要素があったからではないかと、個人的には合点してる。

こうした秩父平氏を中心とした人々が、前回の最後に言った「武蔵野合戦」には、今度は「一揆」を組んで姿を顕わし、南朝+北条残党の側を離れ、足利尊氏の陣に加わっている事が確認できる。

……ちょっと遡って確認させて貰うと(^_^;)ゞ。

観応元年(1350)、尊氏直義兄弟の不和から「観応の擾乱」が勃発している。
関東における直接的な衝突としては、正平6年/観応2年(1351年)の「薩埵峠の戦い」なんかは注目すべきだろう。
この戦いで尊氏・直義の兄弟対決は、尊氏の勝利と決し、直義は囚われの身となり、翌年2月に死去(尊氏方による暗殺とも言われる)。

こうした幕府勢力の分裂を好機と捉え、新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治は、正平七年(1352)10万余騎と称する兵を挙げた。
これが先ほど述べた「武蔵野合戦」で、尊氏が、これを迎え撃つために鎌倉を出立した陣に、豊島氏からも参加があったとされる(豊島弾正左衛門と言うが、系譜のどこに入るかは不明(^_^;))。


このように、足利氏自体、内部分裂を深めて来ていた。
高師直×足利直義の対立図が、足利尊氏×直義となって引き継がれ、直義死後は、直義派に属した外戚上杉氏が引き継いで、この「武蔵野合戦」では、ついに、足利尊氏×上杉憲顕(尊氏の母方の従兄弟同志)の対決となった。

ここまで前回のおさらい(^^ゞ。

さて、この辺りから、平一揆に与して足利陣営に加わっていった豊島氏は、この先は安泰だったかと言うと……そこはどうだろう(^_^;)。。

これはあくまでも私見だが……。

今回、7か月の間を空けて、しみじみと読み返し、前より強く思いを深めたのは、どうも、この辺りが、豊島氏が本流から外れていった分岐点じゃないかな、と(^_^;)。

最初に話した「平将門の乱」や「平忠常の乱」では、同族の叛乱に加わらなかったと見えて、その後は武蔵国総検校職世襲で勤める程の家格に上って行った。

鎌倉時代も、前北条氏の企ての前に、惣領格の畠山氏や河越氏が潰されていったものの、豊島氏は恐らく、お行儀よく前北条氏の覚え目出度い位置に居たようだ。
だから、千葉や佐竹のような大勢力を築く事も無い上、時にしくじりさえあっても、武蔵国時の政権の覚え目出度い古族として、基盤が大きく揺らぐことは無かった。

鎌倉末~南北朝の動乱期は、最初から足利方に就く事はなかったが、それは前北条を鎌倉に討つにあたって、新田義貞の南下に加わったからであって、この時点で足利氏に敵対したわけではない。

足利尊氏も、これらの新田追従組が行きがかりで敵味方となった事に理解を示していたと見え、北朝&足利の傘下に下れば、そう厳しい処置を取らぬ姿勢に思える。

……と言っても、尊氏の寛容姿勢は、特に豊島氏や秩父平氏らに対して取られた、というほどの意味はない。

足利尊氏は、広く一般的に、敵対した者達に厳しい処置を取ってない。
勢力関係が複雑な動乱時代に頂点に立つため、多くの妥協が必要だったからだろう。

南朝勢力に与しながらも、だんだん北朝&足利尊氏に下っていった者達は、大抵が大きなお咎め無しで、お家を維持したケースが少なくない。

しかしこの時、豊島氏を含む平一揆が、北朝足利尊氏に取るべきツテとしたのが、高重茂の催促に応じて、であった。

この高重茂は、あの高師直の弟と言われる。
師直が評判が悪いから、師冬に従う者が多くなかったというから、重茂も同様に見られていた可能性はある(^_^;)。

それでも、この「武蔵野合戦」で、初めは尊氏の劣勢となったのが、豊島氏なども加わった後は南朝勢力を押し返した。
長く暴れた、北条時行も、正平八年(1353)敗れて捕えられ、ついに鎌倉で斬られたのである。

その後、9年もの間、鎌倉公方初代・基氏(尊氏の子)は鎌倉ではなく、武蔵国入間川に陣し、「入間川御陣」と呼ばれる期間を経る。

まだ南朝の残党ことごとくを片付けきってはいないから、と言われている。

一方で尊氏は、弟・直義の残した観応の擾乱以来の勢力と影響を消すため、上杉憲顕追放して、代わりに畠山国清関東管領の座に就けた。

ここでも豊島氏と平一揆は、この畠山国清を支持し、その後も従ったようだ。
高重茂といい、畠山国清といい、将軍・足利尊氏から送られて来た者たちだから、尊氏に従うに日の浅い平一揆(や豊島氏)にとって、これらに従う事は当然と思えたからだろう。

私の見た所、この時、平一揆(河越氏を中心とする)などに近い路線に見えるのが、下野国宇都宮氏かと(^^ゞ。
この宇都宮氏の当主・高綱は、はじめ北条氏に従って楠木正成を討伐していたが、新田義貞が鎌倉を落とすと、後醍醐天皇に従い、以後、新田義貞と共に長く南朝に属した。

これに対し、高綱の子・氏綱は、この父と袂を分かち、足利方に就いた。
尊氏と直義の対立(観応の擾乱)においても、尊氏に与した。

これもやはり、後から尊氏に従ったので、尊氏派の畠山国清と直義派の上杉憲顕の対抗軸では、尊氏の打ち出した畠山国清主導(薩田山体制などと呼ばれる)に重きを置いて身を処したように思われる。

ただ、この畠山国清が、これまた東武士らのお眼鏡に適わない(^_^;)。
尊氏には逆らわないが、尊氏が配するナンバーツーには、高師直であれ師冬であれ重茂であれ、おいそれと従わない。
同じように、目付のように置いて行った畠山国清にも同じ態度だったんじゃないかな、と思える。

畠山国清と言えば、元は足利氏と出を同じくする、いわば連枝のお家柄である。
昔、武蔵北部にいた、あの畠山重忠の畠山ではなく、重忠の未亡人となった北条政子の妹が、足利氏に嫁いで再興した苗字である(^_^;)。

つまり足利一門に列する家柄と言ってよいから、足利氏の根本家来に過ぎない高師直高氏とはワケが違う(^_^;)。

そんな畠山国清が、最終的に鎌倉を追われる事となったのは、その直前に起きた政治的な対立劇や、京に行った幕府との難しい連絡など、直接的には関東武士の心象に関わりがあるとばかりは言い切れない出来事の延長線上にある。

また、畠山国清の行動が原因で、京に危険が及んだのも事実だ。
あげく、彼が身の危険を感じて知行する伊豆国に籠もったものの、地元の協力を得られず、最後は基氏に投降した挙句、晩年の記録が残らない。

ただこれらを、畠山国清にその程度の器量しか無かったから、とだけは思わない。

というのも、彼を罷免する要求が、直義派の武士達から出て来た事を見過ごせないからだ。

この後ずっと長く関東管領として戦国期の末に至るまで君臨する上杉氏ならば、同じ立場に至った場合、命懸けで助けてくれる関東武士がいっぱい居ただろうとも思うからだ。

上杉氏は足利尊氏・直義の母方外戚であるから、鎌倉的な伝統感から言うと、初代将軍の正室にして二代・三代将軍の母である北条政子北条氏を代々執権とした点と合致する。

しかし、「だから上杉氏なのだ」という理屈は、代々の関東管領職を上杉氏が勤めるようになった後に定着した意識と言えよう。

なぜなら、片や足利氏と出自を共にする畠山氏である。
足利兄弟の母方外戚の上杉氏と、家格の点で大きな違いがあるだろうか(^_^;)。

一方で、以下の見解もしばしば見る。

関東における観応の擾乱との関わりと言うと、わりとよく持ち出されるのが、関東武士の間で、直義への親和性が高かった点が言われる。

足利直義は、鎌倉に北条氏が滅んだ直後、後醍醐天皇の勅命によって、成良親王を奉じて鎌倉に下っており、自身は執権として鎌倉を守っていた。
その折、関東の武士たちと深い信頼関係を築いていた事から、あたかも「関東=直義派」のごとく書かれる文章も散見する。

その直義に味方し、死後も尚、その遺志を継いだかの如くが上杉氏だったから、上杉氏が特別視された……。

「わかりやすさ」に主眼を置けば、それも悪くないが、殊、豊島氏のいる武蔵国に焦点を当てると、それでは納得しにくくなる(^_^;)。

多くの関東武士が、高師直・師冬・重茂・畠山国清に反抗的だったのは、足利直義上杉憲顕を慕ってたからと言うより、恐らく、足利尊氏の寄越す者に従いたくなかったのではなかろうか。

では、足利尊氏を認めないのか、尊氏への反抗かと言えば、それも違うだろう。

心の奥底にうずもれる鎌倉武士の気持は、京の朝廷や幕府の思惑と全く違う、一つのベースを持っていたように思えてならない。

なぜ「鎌倉殿」なのに、尊氏は鎌倉に居ない
この思いが、鎌倉を誇りに命懸けで戦って来た鎌倉武士には、取ってつけたように、高氏だの畠山氏だの「尊氏の代わり」を寄越し押し付ける幕府の遣り方そのものが気に食わない。

それでも、尊氏の嫡子にして、足利氏の惣領後継なる義詮が鎌倉に居た時はまだいい。
これが京に召され、代わりにその弟・基氏が鎌倉に寄越される。

これは、何の事はない。
ハッキリと鎌倉が京の下に置かれた事に他ならない。

鎌倉公方・初代、基氏には、こういう関東武士らの不満がよく理解できていたのだろう。
父・尊氏が他界したと見るや、畠山国清を座から追い落とし、跡に上杉憲顕を迎え直して、関東管領を引き受けるよう要請する(^_^;)。

以上。
今回は、サブタイトルにも書いた通り、関東管領が上杉氏でないとダメだった理由を書いてみた。

こうした受け取りの中で、あくまでも畠山国清に従い、国清が謀叛に至る行動を取った時も、その手勢・支力に「武蔵平一揆(河越氏)」は居た。
尊氏の寄越した管領に忠義立てし、共に鎌倉諸勢を相手に戦った事が伺える。

だから、康安元年(1361)畠山が基氏に叛いて兵を挙げ、翌年降参した時も、そこに「豊島因幡守」の名が見えている。
例によって系譜との比定は不明だが(^_^;)、この時期の豊島氏の当主の可能性が強いのではなかろうか。

同年、畠山国清は失脚する。
一揆は、鎌倉公方・基氏について国清の討伐に加わった。
しかし平一揆は行きがかり上、関東管領上杉憲顕と対立し、鎌倉公方にとっても脅威と映ったため、応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を起こし、敗退の上、崩壊。
所領地は、関東管領・上杉氏に没収された。

この時の豊島氏への処置がどうであったかは判らないが、30年以上も後になって、所領地が戻されたようなので、連座とされたんだろうと思う。

畠山国清に従った勢力は、どうも主だった所では、この武蔵平一揆しか聞かないので、関東では孤立していたと見るべきだろう。

同じような立場に見える宇都宮氏というのも、実は地盤的に、上杉氏と相容れない関係にあり(^_^;)、こちらは対立に至る背景が浮き立って感じられる。

一揆も宇都宮氏も、元はと言えば、南朝勢力たる新田氏の残党と直面しやすい土地に居たとは言える。
だから、常陸陸奥あたりで南朝相手に戦った面々が、高師冬を遣わされて協調したがらなかった事とは、ちょっと事情も違う。

しかし例えば常陸北部を領する佐竹氏などは、動乱期を迎える以前より、一族に尊氏と懇意な者が出ており、意を通じやすい立場と見れなくもない。

比べて、南朝や北条残党との関係が見え隠れする秩父平氏たちは、尊氏やその側近とのツテが乏しかったためか、代官的に寄越された管領に忠義立てし、次の場面では、これを打つ側に廻らされ、あげく乱を起こすに追い込まれ、崩壊した。

こうして豊島氏の武蔵北部(埼玉県)の同族は、畠山に続いて河越も潰えた。
しかし、その分逆に、戦国期に見る豊島氏の輪郭が見えて来た感じがするのである。

……本日の所は、ちょいと準備体操みたいな感じだったかな(^^ゞ。

<つづく>